山陽(中国)街道を歩く 19
             (廿日市〜新岩国まで)
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 市役所前−佐原田−四郎峠−高畑−大野浦−残念社−玖波−小方−苦の坂−両国橋−関戸−御庄   30.8km 
 

2013年3月23日
■平良〜宮内串戸
  ホテルから広電に乗り、市役所前(平良駅)へ戻って来た。街道歩き2日目は●駅裏から始めた。
 左側が石垣になっている所を進んで行き、陸橋の下を左折すると、●線路に沿った高台へ出た。右手に地蔵がある。左手に「中電工」の工場を見ながら進むと●宮内串戸駅前にやって来た。   8:25

 ■宮内串戸〜宮内交番
 そのまま駅前を通り過ぎ、細い道に入って突き当りを右折する。左手には御手洗川があり、御手洗橋が見える。橋を渡る道は地御前参道といって、厳島神社への参道である。●西広島バイパスの下をくぐり、山陽新幹線の高架下を通ると、左手に●一里塚の石碑が立っている。右手には●専念寺があり、寺の境内に旅人の休息所であるお茶屋があったと伝えられている。  8:50

■宮内交番〜佐原田
 交番前で県道を渡り、御手洗川に沿って進み、砂原大橋を渡る。
 JAを見ながら少し行くとまた●六本松団地入口交差点で県道に合流した。ここには「ブラッセみやうち」とかダイソーとか大きなショップが数軒ある。
 この先は少々複雑で、県道を夾んでつづら折りに進まないといけない。信号の無い所を横断するのでかなり危険な箇所と思う。
 まず  「六本松団地入口」の信号で県道を渡る。岩国道路の高架に沿って進み、右折すると「宮内工業団地入口」信号に出る。 ここを渡って少し北側に入り、細道を左折、左折して県道に合流した。3 県道を渡り●オートショップの所を左折して行くと、「佐原田公園」がある。公園を過ぎて、またまた   県道を横断して細い道に入ると、右手に●佐原田権現社がある。さらに左に曲がって再び地方道と合流する。これで県道を4回横断したことになる。更にその先の「四季が丘南口信号」で県道を渡っておくと都合が良い。    9:15

■佐原田〜四郎峠
 左手野村病院を過ぎ、少し行くと●畑口橋交差点がある。ここが津和野岐れで、直進して行くのが津和野街道。山陽道はここを左折する。
 左折してすぐ右手に●夜泣き石と呼ばれる供養塔がある。江戸時代津和野岐れに三角形の自然石があって、この石から毎夜赤ちゃんの泣き声が聞こえてきたので、南無阿弥陀仏と彫った石塔を建ててねんごろに供養したところ泣き声は聞こえなくなったという。
 山沿いに進み、山陽自動車道の下をトンネルでくぐって、自動車道に沿って上がり道を進み、四郎峠に向う。しかしこの道は歩道が付いておらず、交通量も多く前方からは猛烈なスピードで車が下って来る。しばしばガードレールの隙間に避難しなければならず、相当に危険な道である。
 やがて●四郎峠に到達した。右手に小さい●「宮内 大野村境」の碑がある。大野村を太郎、次郎、三郎、四郎、十郎という五人の兄弟が開墾し、それぞれが開墾したり住んだりした所に地名などを残した。四郎峠の名は、中山に住んだ四郎に由来していると伝わる。頂上付近には広場が少しあり、大名達がカゴを休めたのではないかと言われている。  9:40 

■四郎峠〜高見川
 峠から先は下りとなり、広島岩国道路の高架下をくぐる。
 更に下って行くと、右手に●「観音堂」と●今川貞世歌碑がある。今川貞世(了俊)は足利義満から九州探題に任ぜられ、その任地に下がるときの紀行文「道ゆきぶり」を残した。この歌碑は、ここ中山を通過したとき景色を詠んだもの。
 ここを右折すると山間の、のんびりした旧道になった。車も来ないので良い感じだ。左手の茂みの前に「史跡一里塚跡」の碑があり、中山一里塚跡である。その先「十郎原」と書いた案内板が置いてあり、「伝説「大野五郎」の五兄弟のうち末弟十郎が開墾したところとして十郎原の名が残っています。」と書いてある。●高見川を青い橋で渡る。この先のグリーンの建物が目印というが、なんと、ピンクに塗られていた。「グリーン・・・・」という名前だけは残っている。  10:15

■高見川〜高畑
 その先は●民家の裏を通るが、これが一見、私有地みたいで通るに躊躇した。手前の消防ホース格納箱が目印。土の道で感触が優しくて具合が良い。
 江戸時代にタイムスリップしたような●のんびりした気持ちのよい道を行くと、右手に三槍社がある。右手石段の上に新宮神社がある。案内板によると伝説の大野五郎のうち総領の次郎を祀ったお宮という。
  高畑に入ると、左手に●古代山陽道の高庭駅家跡・濃唹(のう)駅家跡がある。古代山陽道には約16km毎に役人の宿泊や、乗継ぎ用の馬を備えておく「駅屋(うまや)」が置かれた。平安時代以後濃唹駅に変ったという。山上憶良の歌碑も建つ 10:35 

■高畑〜妹尾の滝
 山間道を進み、右手に「高畑ため池」がある。文政8年(1825)の広島藩の地誌「芸藩通志」に載っている大野では最も古い灌漑用ため池だそうだが、写真を撮ってもなんだかわかりにくく、そのまま通過。
 ●新幹線の高架がある直前は「陣場」という。慶応2年(1866)長州征伐のとき幕府軍が検問所を設けていた所。前方の平地は筏津(いかだづ)といい、古代は海の入江だったという。
  山陽新幹線の高架にぶつかって、右折してしばらく高架に沿って進んだ。●大野インター南交差点に来ると、角に●名勝妹背の滝の石碑が立っている。ここでちょっと寄道をして、妹背の滝を見物することにした。  11:05 

★妹尾の滝
 右折して、広島岩国道路の高架をくぐり、毛保川にに沿って行くと●大頭(おおかしら)神社がある。宮島 厳島神社の摂社として推古天皇11年(603年)の創建。
 厳島神社の初代神職 、佐伯鞍職(さえきのくらもと)が祭神の中に数えられている。
 神社の奥に●妹背の滝・雄滝。手前に●雌滝が流れている。雄滝の方が規模も大きく、水量も多い。ただ雌滝の方が高さは高いのだが、水量が細く2筋ほど流れているだけであった。雄、雌の滝なので妹背(夫婦)の滝と呼ぶのだろう。

■妹尾の滝〜大野浦
 街道に戻って来て、「滝の下」信号の所から右へ細い道を入って行く。大野中学校を右手に見ながら行くと、●大野小学校前の右手角に●広島道の石柱が立つ。「右 宮島廣島道」「左 宮内 妹背瀧道」と彫られている。
 次の目標は●「史跡一里塚」碑と、今川貞世歌碑なのだが、「ヒゲの梶さん」のイラストマップではすぐ左手のように書いてあり、しばらく見つからなくて少しあせった。結局碑は大野駅の構内、駅舎の隣にあった。駅までの距離もイラストとは全く違っていた。  11:52

■大野浦〜残念社
 駅を通過して、右に進んで細い道を行く。林が原を過ぎて、「丸石上」のバス停へ来た。手前を左に入って行くと、向原の石畳の案内板が立ち、石畳の保存の為仮舗装してある。とあった。普通の舗装路に見えるが下は石畳路らしい。
 向原バス停の先で「古代山陽道の史跡」と書かれた案内板があり、その先にわずかだが●西国街道の石畳道が残っている。右手に●今川貞世の歌碑がある。 12:20

■残念社〜鳴川
 これから先「残念社」に向う。
 広島岩国道路にぶつかるが、高架下を回り込み、右手に道路を見ながら進むと、「残念社」への案内板が要所に立っているので間違えることがない。これから先はマップに頼らず、案内板に沿って進み、四十八坂と呼ばれる、山道をあれこれと進んで行くと●残念社に出た。
 慶応2年四十八坂を単騎で西に向かっている幕府軍の武士がいた。これ見た長州軍の兵士が勘違いで狙撃して;しま
った。その武士は「残念」と行って倒れた。後にこの武士は丹後宮津藩士の依田伴蔵で、軍使として長州軍営に赴く途中であったことが分かり、長州軍は遺憾の意を表した。村人が伴蔵の戦死を哀れんで祀ったのがこの社である。
 また案内に従って行くと右手に吉田松蔭腰掛けの石がある。
 この先は道なりに下って行き、水道ポンプ所や八坂墓苑の所を過ぎて、広島岩国道路の高架下の右をしばらく歩いた。そのうち突き当るので、左折して広島岩国道路の高架下をくぐる。前方は下り坂。ここは眺望が良く、●瀬戸内海と大竹の工場の煙突群が薄雲の中、見えた。   12:55 

■鳴川〜玖波隧道
 坂道を下り、「鳴川」バス停の所を道なりにぐるっと回って行く。 消火栓と電柱がある所の細道へ入って行くと、橋を渡ると民家の庭先を通る道が山道へ続いている。最初これは私有地だろうと思って、通るのを躊躇したのだけど、回りにそれらしい道は無いしで、結局これに違いないと思って、庭先だけど進んで行ったら、山道になり、左手に山陽道の看板が立っている。●鳴川の石畳道だった。
 石畳から先は鉾ノ峠、馬ためし峠を越えて玖波宿へ続く山道なのだが、途中なんと山陽本線の線路の上を歩く道となっていて、わずかなフェンスがあるばかり。線路に落っこちたら大変な騒ぎになるところ。線路の先は住宅地に下りて、やがて国道2号に出た。左手の海は秀吉が朝鮮に渡る船を作らせたという唐船浜という。
 国道に出て、少し先の脇に●玖波隧道がある。本来の旧道はこの隧道の上の「馬ためし峠」を通って行くらしいが、明治に廃道になったままで通行不能ということで、この隧道をくぐって行く。   13:20

■玖波隧道〜玖波
 隧道をくぐると●旧玖波宿の町並が続く。
玖波宿は、長州戦争によりそのほとんどを焼失した。現在でも明治以後再建された白壁やうだつのある家があり、宿場らしい風情を感じることができる。
 中ほどの右手にある●角屋釣井(かどやつるい)と呼ばれる井戸が宿場で使われた旧蹟として残る。広島信金のあたりが●本陣跡と推定される。  13:25

30 玖波宿
 玖波宿は長州との国境に近く戦略上重要であり、廿日市宿に続く宿場町として栄えた。本陣は土田氏が勤めている。玖波宿は度々大火に見舞われ、長州戦争の折りには戦災によりそのほとんどを焼失した。現在の街並みはその後再建されたものである。白壁の町並みが今も残っており、当時の隆盛の面影が残っている。

■玖波〜小方
 信金先を右折して、真っ直ぐ進み、山陽本線のガードをくぐった。右手に称名寺がある。川本橋を渡ると、新興住宅地へ入ってしまう。ここを抜けると「広島岩国道路」の崖にぶつかってしまった。崖の上を通らないといけないので、適当な所から上がって行ってガードレールを跨いでしまう。本来はぐるっと迂回しないといけないのだろう。
 しばらく岩国道路に沿って行く。「玖波中学」を左手に見る。道なりに過ぎて、黒川橋を渡って、「黒川2」信号で左折した。 山陽本線の踏切を越えて、国道手前で右折する。
 黒川会館を左に見て、突き当りを右折し左折すると●小方の町並に入って来た。ここは間の宿だったのだろうか。虫籠窓や格子を備えた民家、袖うだつを備えている家もあり、古い風情を残している。
 右手に●?(けごろも)の句碑という芭蕉句碑が建っている。・・・?につつみてぬくし 鴨の足・・・けごろもとは鳥の羽毛で作った衣服だそうだ。   14:28

■小方〜苦の坂入口
 この先苦の坂へ向うのだが、山陽本線のガードをくぐってから先、道がわからなくなった。「ひげの梶さん」のマップでは大まかすぎてよくわからず、御園売店の所はコンビニに変っているのではないかと思われる。
 結局道なりに真っ直ぐ行くと、山陽自動車道の手前まで来るので、「御園出合橋」を渡ってから、自動車道のガードをくぐった。
 自動車道に沿って坂を上がって行くと、右手に●橋姫神社の小さな祠がある。
 そのままずっと上がって行くと、「歴史散歩の案内」という大きな案内板がある。そのまま進むと、「全面通行止」の看板と右に架設階段が架かっている場所に来た。ここが●苦の坂入口にあたる。平成17の台風による土砂崩れで通行不能のところ、架設階段により通行できるようになっている。通行止のままだと小方の町から小瀬川をさかのぼって来る、大変な迂回になってしまうはめになるところであった。  15:02

★苦の坂 
 架設階段を上がると苦の坂峠を越えるわけだが、そんなに大変な峠でもなく楽にこえることができた。●左側が畑になっているフェンスのある山道を進むと、●苦の坂峠頂上に出た。苦の坂の峠」の案内板がある。昔は苦の坂の名前のとおり、難所に数えられていたなどと書いてある。峠の先は●下り坂で快調にずんずんと下りて行く。   15:15

■苦の坂〜両国橋 
 やがて国道に出たが、手前の右奥に●滕池(ちきりいけ)神社がある。
 推古天皇時代(600年頃)、厳島神社の祭神である市杵嶋姫命が筑紫から安芸へ移るとき2歳の嬰児をつれてこの坂に差し掛かかり、あまりの急坂で「えらや苦しやこの苦の坂は 金のちきりも要らぬものを」と呟かれ、大切に持っていたちきり(機織りの縦糸を巻く道具)を投げられた。その場所に神社を建てたという伝説がある。
 社殿の右側面下に汐湧石というものがある。旧暦の6月17日に行われる管弦祭の夜にここから汐水が湧き出るという。
 国道に出てから2kmほど行くと、両国橋である。昔は小瀬川を300mほど下流で渡船で渡っていた。ここに「木野川渡し跡」の遺跡がある。(山口県側では小瀬川と呼ぶ)。木野村(安芸)と小瀬村(周防)から出された渡守3人ずつが昼夜3交替で務めは二人一組で両藩が交替して行っていた。●ごじんじと呼ばれる駕籠が置かれた石の台が復元されている。
 少し戻って●両国橋を渡る。広島、山口両県に架かるので両国橋という。ここで広島県とお別れとなった。「ひげの梶さん」のマップともお別れです。ここから先は「歴史の道調査報告書 山口県」の資料を使用します。  15:55

■両国橋〜小瀬峠
 橋を渡って、すぐ左折し、山口側の「小瀬の渡場跡」まで行く。その所に●「吉田松陰歌碑」がある。「夢路にもかえらぬ関を打ち越えて いまをかぎりと渡る小瀬川」と彫られ昭和44年に設置された。小瀬には一里山、番所、茶屋などがあったが、今では確認できない。
 この先は「小瀬峠」の上りが続く。現在では県道として舗装されているが、旧道はそのまま行く訳ではでない。最初に県道が大きくヘアピンカーブする所に●「歴史の道 旧山陽道跡」と書かれた白い標柱があって、旧道は左の山道へ入って行く。
 この山道はすぐ一度舗装路へ出る。舗装路をしばらく上がると再び●山陽路跡の標柱があるので右手へ入る。山道を15分ばかり歩いて行くと、再び舗装路へ出た。このあたりのルートは山道をそのまま歩いているので本当の旧道かどうかはわからない。 峠はいつのまにか越していた。左手に関関バイパスの高架が見えた。   16:22

■小瀬峠〜関戸
 周防国(山口県)最初の宿場●関戸宿へ入って来る。関戸の地名は室町時代関所があったことに由来する。国道が迂回しているため往時の雰囲気をどうにか留めている。
 右手高台に●客(まろうど)神社がある。
 神社の参道入口付近に●本陣跡がある。道路に面して土塀の一部だけが当時の面影を残すばかりである。    16:48

31 関戸宿
 岩国城下から萩へ至る街道(石洲街道)が山陽路に交わる交通の要衝で、古代「石国駅家」にも比定されている。宿の長さ3町9間市屋数32軒の町並が形成されていた。本陣や脇本陣があり、本陣は村尾家が勤めた。

 ■関戸〜下多田
 道は真っ直ぐ「関戸」信号に突き当たり、右折する。左折すると有名な「錦帯橋」がある。錦帯橋を見る為左折して行った旅人も多かったようである。
 右折して●国道2号を進んで行く。旧道は錦川の氾濫の為か、この先国道に沿う道ではなく、山すそを迂回したり、崖道を登り降りしたりしたという。その痕跡が「岩国コンリート」付近にあった。右手に●岩国往来の看板の架かる金網の所があって、旧道はなんとその脇に入り込み、おまけに崖道をロープで上がるようになっていた。とてもこんな場所が街道とは思えないが、とにかく登って行くと忠魂碑がある広場に出て、石段を下って行くと●鳥居の立つ所へ出てきた。   17:10

 ■下多田〜御庄橋
 出てきた道路の向い側が●「多田一里塚跡」である。特になにも残っていない。
 「上多田」の信号へ来るが、その先には「御庄の渡し場」があり、上多田あたりから錦川の河原の方へ左斜めに進んでいたようである。今はこのまま国道を行く。
 右手高台に●本庄八幡宮がある。くたびれたのでこのまま通過。御庄大橋を渡る。左手下流の●山陽自動車道の通る橋のあたりが「御庄の渡し場」であっただろうと思う。 この先大橋を渡って、右折し御庄宿へ向うわけだが、新幹線建設の為か旧道が消滅しているので、次は御庄宿から始めたいと思う。宿は新岩国駅前に1軒だけあった「扇屋」に泊った。 17:40    本日は寄道したりで 9時間 35km くたびれ〜〜

 山陽街道TOP  18 海田〜廿日市  20 新岩国〜周防高森