山陽(中国)街道を歩く 22
                   (徳山から防府まで)
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 徳山−音羽橋−山崎八幡−平野−温田−福川−夜市−戸田−椿峠−富海−浮野峠−今宿−国衙       25.6km        
 

2013年6月2日
■徳山〜浦山
 2日目、依然として雨模様で困ったものだ。宿から徳山の商店街の●アーケードの入口へ戻った。アーケードの下は銀座通りという。 徳山は徳山藩の城下町だが、現在の銀座通りが宿場になっていたそうだ。しかし、昭和20年の空襲で市内のほとんどを焼失し、面影は全く残っていないという。 御客屋が銀座通2丁目のサンエコーのあたりにあったといわれるが、ビルも変ってしまい全くわからない。・・・・ということで徳山を散策することはあきらめて、早々に通過することにした。駅前を過ぎて、本町、相生町と過ぎて行くと、新幹線の高架にぶつかる。高架沿いに右折して、その先を更に右折すると大通りに出るので、左折すると●新幹線のガード下、浦山交差点に来た。右斜めの細い道を進む。

 39 徳山宿
 毛利徳山藩の城下町である。藩庁の移転などの後、藩士の屋敷割、町屋敷割などが行われた。山陽道の宿場は現在の銀座通り沿いに置かれた。徳山駅周辺に御茶屋や目代所、高札場が置かれていた。

■浦山〜音羽橋 
 右手は崖、その奥が国道2号、左手は県道347号の広い道に夾まれた●旧道は旧道らしい雰囲気で好ましい。昔は街道沿いに往還松が立ち並んでいたというが、わずかに川崎3丁目の辺りに枯根が残っているのみ。
 音羽橋手前、右手に●「當国十八番 景清護身観音」と刻まれた文政11年の道標がある。ここを右に入って、国道のトンネルをくぐったすぐ上に●川崎観音がある。この観音は屋島の戦いに敗れた平家一門が九州に向かう途中、暴風雨に会い、観音のお告げによりこの地に十一面観音を安置すると風雨は収まった。という由来がある。徳山藩歴代の藩主は通る度に下乗していたという。

■音羽橋〜山崎八幡
 音羽橋を過ぎると政所(まんどころ)地区に入る。この地は富田川の川口が木材、農産物の集散の中心地にあたり、また東大寺の年貢米銭を管理する役所が置かれ政所と呼ばれていた。その名残と云われる 右手に●大安寺がある。
 県道3号を渡ると右手に旅館があり、駐車場あたりが●道源休屋跡と思われる。政所の庄屋格の屋敷で道中休息所が設けられていた。
 更に進み、突き当りを左折して行き、山崎八幡宮手前に出ると、●山陽道の道標が立っている。「左上かたみち 右下のせきみち」と彫られていて、上方と下関を示しているのであろうか。前方が山崎八幡宮である。

★山崎八幡宮
 山崎八幡宮は和銅2年(709年)宇佐八幡宮の御分霊を祀ったのが起源。神仏分離以前は隣の荘宮寺が別当を勤めていた。
 石段右手に大きな安政5年の常夜燈がある。●社殿はけばけばしくなく風格がある。  江戸時代には徳山藩の御祈願所として、歴代藩主が度々社参した。境内には●「毛利元就公ゆかりの石碑」があり、亀が支えている。亀趺(きふ)の亀と呼ばれる。 


■山崎八幡宮〜平野
 八幡宮を過ぎると宿駅だった、富田(とんだ)宿の町並みとなるが、雨が強くなり、人通りもなく、ほとんど写真も撮らず通り過ぎてしまった。土蔵造りの家があったかと思う。
 突き当たりを左折する。
 左折して県道を横断、その先の角を右折すと、●平野という町並になった。平野は古代山陽道の駅のうち、周防国の5番目の駅が置かれ、生屋駅(現生野屋)と勝間駅(防府市)の中間だった。右手の●千本格子の蔵造りの家が目に付いた。

40 富田宿
 山崎八幡宮の門前町として賑わい、富田市として海上輸送にも栄えた。新町、平野、古市から成り、新町に伝馬10疋が置かれる。瓦が特産だったという。

■平野〜温田
  平野1丁目の先で道は二股に分かれる。ここは、右に行くのが旧道である。民家の間を抜けると南陽工業高校前に出る。 県道脇を●右手に上がる坂があり、そこを上がると温田峠に着く。頂上には●温田観音がある。
 観音の外に一里塚、御駕籠立場、萩御茶水茶屋所などが建ち並んでいたといわれるが、今は全く面影がない。
 峠の下面には工場地帯が広がっているが、天気が悪いので眺望が悪い。

■温田〜福川
 峠を下り、州バラク進むと旧道は右に折れて●福川の町並に入る。土蔵作りの旧商家があったりして、旧街道らしい雰囲気が残る。 右手に鳥居が立って、辰尾神社の参道が真っ直ぐ北に伸び、鳥居の横に脇本陣があったというが更地になっている。
 その先を枡形のように曲ると、左手に●真福寺がある。脇本陣としても使用され、周防三福寺の一つと称されている。
 左に曲っていくとその名も「本陣町」という地区に入る。名前の通り●福川宿の本陣を務めた福田家があり、今では本陣門だけが改修保存されていた。

41 福川宿    
  東、中、中市、西町で成立ち、長さ7町50間。本陣、脇本陣は西町、中町に設けられ、本陣は代々福田家が勤めた。
 伝馬14疋を常備。将軍家へ輿入れする篤姫一行が宿泊している。

■福川〜夜市下市
 福川を抜けて県道347号を渡り、JR山陽本線の踏切を越える。御姫町という優雅や名前の集落を抜けると夜市川に架かる御姫橋のたもとに出た。
 ここから先は●夜市川の土手上をしばらく進むことになる。 1km程進んだ山陽自動車道の高架の下辺りに若山観音の道標があったというのであたりを探してみたが見つからなかった。高架を過ぎるとコンクリート護岸の土手から、●草むしの土手に変った。夜市川と的場川が合流する辺りに一里塚があったらしい。ここも見当らなかった。

■夜市下市〜赤坂峠
 マックスバリューの先の踏切で右折して夜市川を離れ、国道2号を横断して「夜地市」の集落へと坂を上がって行く。途中の分岐の左側に集落が固まっているのでそちらへ進んだが、集落の奥は突き当りで終っていた。ここの集落が●夜地市なのだろう。町並みはごく普通の集落の感じというところ。
 昔は市で賑わったのだろうがそんな面影はない。
 分岐の所へ戻って、右が彼の山道を登っていく、
 しばらくすると●赤坂峠の頂上へ着いた。あたりは水道施設や周南市の総合グラウンドになっている。あたりに御駕籠建場跡があるはずだが、さっぱりわからず。

■赤坂峠〜戸田
 坂を下って行き、集落に入った左手に●船山神社がある。拝殿右手に碇石という碇形の石が置いてある。
 案内板によると建保4年(1216)京都祇園社を勧請し祇園社と呼ばれていた。また素盞鳴尊が大陸から船でお帰りの途中、迫(今の河内)に寄港された折、船形の山を船山と名付けたという。山を舟に見立てたため周囲に碇石を配置した。
 その先右手に●光西寺がある。創建は天正5年(1577)で寺の中に小休所があった。享保17、18年の2年続きの病虫害の為飢饉となり、飢饉による餓死者を弔う為の石納塔が建てられた。

 光西寺から200m位の所に桜田八幡宮の鳥居があり、鳥居から西の夜市川までの400m位が「戸田市(へたいち)」である。特に古い家はないように思った。
 参道脇に●宮島様と呼ばれる祠があり、恵比須が祀られている。何故「宮島様」と呼ばれているのかというと、水の中に柱を立てて祀られているからとか。
 向かい側に●幕末の戌辰戦争凱旋記念碑がある。幕末奥州に出征した地元の兵が無事凱旋したのは氏神様のお蔭であると感謝し建てた戦勝記念碑だそうだ。

■戸田〜椿峠
 夜市川を渡り、道なりに進むと国道2号に合流する。合流地点の右手に●見事な土塀の山田家本屋跡がある。山田家は湯野の堅田家に仕えた家臣で、萩藩の侍講、堅田家の重臣などの人物を輩出した。
 国道2号を少し進み、山陽自動車道の下を過ぎた所で国道から右の旧道へ入って行く  ●山裾の旧道を国道に沿いつつ進む。峠の頂上付近で国道に合流するわけだが、途中、赤穂浪士の吉良邸討ち入りで有名な「天野屋利兵衛」というドライブインがあった。なぜここに「天野屋利兵衛」があるのかちょっと疑問?
 国道に合流してちょっとの先が●椿峠頂上になる。明らかに切通しになっていて、両側に一段高い坂道があるが、これが旧道の椿峠であろうと思う。国道が横断できないので右側を進んでしまって、「富海」方向へ進む入口がわからないのであった。旧道は国道の下をくぐっていて、そっちへ行かないといけない。おまけに国境碑が左手の上にあったらしい。あわてて国道を渡って戻った。国境碑は見落す。

■椿峠〜富海
 国道の左手に、●左に下りて行く道があるので、そちらへ進んだ。やがて右に曲がって国道2号のガード下をくぐって反対側に出た。その先、●林間道の旧道が続いて、どんどんと下って行く。すこし雨がやんできた。
 やがて右手前方に●富海町とその向こうに海が広がっているのが見えた。く周防灘であろう。

 右手に朽ちかけた酒造所らしい建物がある。その先右手に●円通寺がある。慶応2年(1866)に設置された徳山藩軍西衛団三小隊の陣屋になった。
 国道2号を越えると富海中学、小学校がある。付近には昔は街道沿いに往還松が立ち並んでいたが、昭和18年頃に田畑の陰になるというので切り倒されてしまったという。小学校を過ぎたあたりが「東町」で、このあたりから宿場が続いていたという所。
 右手に●「富海本陣跡」があり、古い門だけが遺構をとどめている。

 42 富海宿
 東町、中町、新町から成り、長さ4丁50間。漁業、船運で栄えた。中町の中央に高札場、本陣、天下御物送り所が置かれた。宿は半宿と云われ町年寄役座の支配に属し、伝馬15疋を置いた。本陣は石川氏が勤めた。

■富海〜橘坂 
 山陽本線の踏切を渡ると、右折してしばらく海沿いに進んで行く。このあたりには飛船問屋が軒を並べており、●独特の高い石垣が残っている。
 富海の町並みの西端でまた山陽本線の踏切を渡ると「橘坂」への上りにかかる。
 橘坂は県道58号の富海トンネルの上をまたぐようになっている。さっさと上がって行くと、雨なのであまり眺望がよくないが、●周防灘が見えた。

■橘坂〜浮野峠
 左手に●手懸岩(てかけいわ)と呼ばれる大きな岩がある。この岩を撫でて通ると足が軽くなるという俗信があって下半分がぴかぴかしていたという。
 ●浮野峠への山道になって先に進む。右手に「茶臼山古戦場跡」がある。大内家再興を願って大内輝弘は豊後から山口に攻め込んだが、志ならず、毛利軍の追撃にあって自刃した場所である。やがて狭い荒れた山道になって、おまけに雨降りなので、足場に気を取られ「石畳」など見逃したかも知れない。
 しばらく行くと、●浮野峠改修碑がある。ジグザグだった旧道を明治4年に大部真っ直ぐにしたという記念碑。今歩いている道は昔はもっと険しかったということになる。途中「牟礼郷土誌同好会」が設置した「旧山陽道」は左へという案内板が立っていて、それに従い左へ入ってみたが、道が消えており、雨で滑るので危険と思って、新道の方を進んで行った。

■浮野峠〜浮野
 10分ほど進むと、先左手に「浮野峠」と書かれた標識が立ち、●浮野峠頂上へ到達。
 下って行くと、国道2号の上を通り、しばらく国道に沿っていくが、やがて左折して離れて行った。
 なおも下って行くと、右手に「浮野駕籠立場跡」の案内板があり、その斜め向かい側には●「又兵衛屋敷(茶屋)跡」と書かれた標識がある。往時の茶屋だったそうだ。

 浮野の集落に入ってきた。浮野は半宿であり、人足と伝馬10疋が置かれていた。結構賑わったらしいが、今ではごく普通の集落といった感じである。
 右手に●阿弥陀境界石と書かれた看板が架かった大きな石柱と祠がある。地元では阿弥陀寺への道しるべとも、阿弥陀寺の四至の境界石の一つだという説もある。
 阿弥陀寺は北方3km位の所にあり、東大寺大勧進俊乗房重源が創建した寺で、多くの文化財を有しているとか。もちろん行くことはできません。
 さらにその先、左手には●徳地屋敷跡という空き地がある。旧旅籠屋で、大名の休憩所を勤めた。さらに●2本の道標が立っていて、「こんひらみち」、「あじなみち」と刻まれている。江戸時代に浮野村山に「金比羅社」が、法蓮寺山に「阿品社」が立っていたことを示している。

 ■浮野〜今宿
 柳川を渡る手前の土手に●街道松の様な松の木が大きく植っているので行って見たら、周防牟礼「春日神社」のお旅所だった。春日神社は農業大学校の近くにあり重源が奈良から勧進したと伝えられているという。
 ●今宿の町並の中を進む。今宿は古い宿場が廃れてできた新しい宿場を意味するらしいが、古い宿とはどこを指すのかよくわからない。
 馬刀川を渡った先の交差点にの右手に●石標がある。「不許葷酒入山」とあり、調査書によると当国二十一番、二十二番観音の道標という。二十一番の大光寺と二十二番の現観寺共廃寺になって、今は極楽寺に合併されている。極楽寺とは地図を見てもどこだかわからなかった。

■今宿〜国衙
 真っ直ぐ進むと岸津で、●国道2号と合流した。
 国道を10分も歩くと、やがて●国衙跡の標識の架かる●交差点に着いた。周防国庁の中心点である。国道が改修される以前に2基の道標があったというが、あるはずの所はユニクロの敷地になっていて見当らなかった。
 右手角に●昭和12年に建てられた「史跡周防国衙跡」の石柱がある。

★周防国衙跡
 ここを右折すると、眼前には●周防国衙跡が開けている。旧道は真っ直ぐ北進しており、周防国衙跡の中心を通り抜けるわけだ。真っ直ぐ行って左折すると、防府天満宮など防府市のメーンの観光施設が沢山あるになる。
 国衙の案内板や、左手には●周防国庁碑がある、が、広すぎて写真に納めることは難しい。周防の国府は鎌倉時代に東大寺造営料国となったことから、国庁舎は国庁寺という寺として明治まで存続が存続したという。明治になって解体されてしまったというのは残念なことではある。さて本日は遅くなったのでここまでとし、ホテルは防府駅前のサンホテルにしたが、西へ1.5kmほどありくたびれた。

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