山陽(中国)街道を歩く 23
                (防府から小郡まで)
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 国衙跡−周防国分寺−防府天満宮−宮市−佐波川−佐野峠−岩淵−大道−長沢池−陶−小郡           21.3km        
 

2013年6月3日
■国衙跡〜多々良大仏
 サンホテルを8時に出て、また国衙交差点まで戻った。
 ●国衙跡碑を過ぎて、北へ向った。やがて山陽道は左折するのだが、ここを50mほど右に行った所の左手に●多々良大仏堂がある。中に高さ約5mの●阿弥陀如来像が祀られている。奈良の都を模して、周防の国衙の立馬場に建立されていた辻福寺の大仏であった。明治25年「毛利邸」の要地決定に伴い移転してきた。俊乗防重源の作と伝わる。     8:40

 ■多々良大仏〜毛利庭園
 分岐点に戻って西へ向う。●緑の多い気持の良い裏道である。
 右手奥が毛利庭園があるので寄ってみた。旧長州藩主毛利氏の本邸だった所で、大正5年に完成した。
 開園前だったこともあり、入ると時間を取られるので、表から見るだけにした。とは言っても●表門から●庭園入口くらいまで入ることができた。表門から先、サツキがきれいに咲きそろい気持が良かった。ま、明治維新の勝ち組のお屋敷であるので壮大な規模ではある。   8:50

 ■毛利庭園〜周防国分寺
 庭園の次は●佐波神社。周防国総社にあたる。元は金切神社と呼ばれていたが、明治40年、勝間・八幡宮・日吉神社を合併し、佐波神社と改称した。
 脇に国衙北西端を示す案内がある。国衙の区域は実はここまで続いていた訳なのだった。
 その少し先、街道の右手に●ペットの守護神三宝荒神がある。寛永17年(1640)この地方に犬牛馬に病が流行して、村人うれいて仕事にならず、祈願のため建立したら、たちまり平癒し、村中平安となったという。  9:05

★周防国分寺
 佐波神社の300m程行くと周防国分寺がある。
 奈良時代、聖武天皇の勅願により全国に建立された
国分寺であるが、ほとんど位置が変ったり、規模が縮小してかろうじて残っているという感じの所が多い中、創建当時の場所にそのまま遺構が残されているというので、全国的でも貴重な感じの寺である。
 ●楼門は文禄5年(1596)毛利輝元によって再建され、
明和4年(1767)毛利重就により修営された。●金堂は重要文化財で、堂々たるものであるが唐破風がちょっと興ざめといった趣。江戸時代の再建。
 西へ向って行くと萬行寺のあたりで道は左右に曲がる枡形になっている。    9:10

■周防国分寺〜防府天満宮
 国分寺の先が防府八幡宮。右手に●石大鳥居が立ち、参道が右奥に続いている。鳥居は寛永6年(1629)の作で総高6.19m石鳥居としては県下で最大、最古のもの。
 。由緒によると、菅原道真が大宰府に左遷される途中、この地に寄り家宝の金の鮎12尾を託した。道真の死後、延喜4年(904)社殿が建てられ松崎の社と号したという。昭和28年に防府天満宮と改称している。当社が日本最初の天満宮であり、太宰府天満宮、北野天満宮と併せて日本三天神といわれている。毛利重就によって寄進された社殿は昭和27年火災で焼失し、翌年改称と同時に平安様式を模して●再建された社殿である。境内に●春風楼という建物がある。この神社も明治の神仏分離以前は酒垂山満福寺と号すお寺であって、表参道西側に別当であった大専坊が唯一残っている。文政5年(1822)10代藩主毛利斎煕は、五重塔の建立を発願したが、諸事情で中止になった。明治の初め、重層の楼閣様式に変更して春風楼が完成した。床下の木組は五重の塔の一層部組物をそのままに組み入れた不思議な構造をしている。  9:30

■防府天満宮〜宮市
 天満宮の門前に山陽道の宿場「宮市」が続いている。左手に●宮市本陣兄部(こうべ)家がある。伊能忠敬も泊まったという建物が残っていると思ったら、・・・なかった・・・・・)2011年7月出火全焼の大火で全焼したという。まことに残念でした。往時の写真が掛けてあった。
 右手定念寺に宮市観音がある。その西隣の安村商事は●脇本陣中村家跡である。店の前の所にカギ形痕跡が残っているように思う。中村家の西100mの所に脇本陣市川家があったという。    9:45

 43 宮市宿 
 天満宮の門前町として発展した宮市は中世より合物座を中心とした交易の場としても栄えた。天下御物送り場が設けられ、人足20人、宿場20疋を置いた。旅籠も18軒。本陣は兄部家が勤めた。

■宮市〜今市町
 ●宮市からの旧道を西へ進む。
 県道を過ぎて250m程の所を左に入って行くと、●種田山頭火生家跡がある。石碑には「うまれた家はあとかたもないほうたる」と刻まれている。自由律俳人山頭火は明治15年大地主の長男としてこの地に生まれた。病気の為大学を中退したり家業に失敗したりして熊本に移った。大正14年出家して僧になったが、全国行脚の俳人となり、最後は大正15年、59歳で松山で没っする。   9:55

■今市町〜千日町
 左手に変った建物がある。●「長宗金物店」の看板の下「はかた一番どり」の提灯が下がっている。建物は大正のレトロ風で面白いのだが、1.2階とも営業しているのであろうか?
 県道54号手前に●竹内酒造がある。創業明治10年という。防府には50年前には14軒も蔵元があったとか。本陣、脇本陣の3家なども酒造場であったし、山頭火の生家も蔵元だった。しかし現在ではここだけ。ここは「錦世界」「錦旗長州」などの酒を造る。    10:05

■千日町〜佐波川
 新橋町の県道と交差するあたりに「千日町一里塚」があったというが、今は何もない。山陽道の一里塚は明治維新にすべて撤去されたという。
 国道を過ぎて道なりに左折してしばらく進むと、左手に●玉祖宮・荒神社の小さな社がある。佐波川の川筋変更で対岸の大崎と古祖原が分離したため、玉祖神社から勧請した。
 10分程歩くと●佐波川土手に突き当った。  10:28

■佐波川〜大崎橋
 次の目標は植松神社なのだが、道調査報告書では山陽道は一旦土手を下り、神社の前を通って再び出て上がるとあり、地図では神社は大崎橋の手前になっているので、左方を注意していたのだけど見当たらない。大崎橋の先にこんもりとした森があるので行って見たら、●植松神社があった。あたり橋の工事中であるし、社殿、常夜燈などが新しく、工事の関係で移転してきたのではないかという感じがする。
 ●大崎橋を渡るが、大崎の渡しは現在の橋の10mほど下流だったという。    10:55

■大崎橋〜若宮
  橋を渡り土手を左折して、山陽自動車道の下をくぐって行くと、大きな鳥居が見えた。参道を行くと●周防国一宮玉祖神社がある。三種の神器の一つ曲玉を造られたという玉祖命(たまのおやのみこと)を祀るという由緒古き神社である。
 玉祖の地は邪馬台国論争の「投馬国」に比定されることがあり、古くから発達していたという。
 右手奥の鶏小屋に天然記念物の黒柏鶏というのが飼育されているのが珍しい。長鳴鶏に属する日本古来の鶏で、その名のとおり、真っ黒。
 玉祖小学校の前を通って、旧道に戻る。右手に向山古墳群がある。その先は細い道になり、往時は往還松が並んでいたといわれるが、痕跡は全く無い。左手に●玉祖神社の大きな石燈籠がある。ここを左に入って行くと若宮神社があるというので、入って行って見たら、民家の庭先に出てしまい、「この先侵入禁止」の札が立っていた。どう見ても庭を突っ切らねばならず,人もいないので進むことができず引返して来た。南の方から迂回していかないといけないのかもしれない。  11:35

■若宮〜佐野峠
 灯籠の先200mの所に一里塚があったらしいが見逃す。
 更に進むと大きめのため池が広がっている。ため池の土手沿いに右へ弓なりに進むと●佐野峠入口看板が立っている場所に出た。
 案内に従い山道を登って行くと、頂上の●「籠立場」に着いた。大名が休憩のため駕籠を降ろした場所で、大概見晴らしがいい場所に造られた。峠からの見晴しは天気も良く素晴しい。佐波川の河口あたりの風景や、すぐ下に山陽自動車道「佐波SA」がある。調査書には明治10年に佐野峠越の道はは廃止され、以来荒れて一部不通となっている・・・とあるが、整備されて気持よく通ることができる。   11:55

■佐野峠〜岩渕
 SAの為の給水塔の脇を通り、再び佐野峠の下り道を進んでいく。山陽道の下をくぐると左手から来た舗装道路に合流する。ここで左折してちょっと寄道をしておく。
 左折して下って行くと、●岩渕観音寺がある。弘法大師が諸国巡歴の折、山肌の奇岩と瀬戸の風景に感動して、大同3年(808)に創建したと伝わる。
 旧道に戻って進むと、右手に●「孝婦 石川阿石の碑」がある。岩淵村伊八の妻いしが文政7年、孝行により米一俵を授けられた外の褒賞を受けた事により建てられた。   12:40

■岩渕〜大道
 その先で●岩淵市の集落に入って行く。岩淵は、宿馬十匹の半宿だった。
 岩淵から西へ抜けると道沿いの草むらの中に●瀬十郎墓というのがポツンとある。なんの案内板も無いので気づかないで通り過ぎそうな感じ。このあたり入海だった頃、21歳の瀬十郎が蛤を食べて食中毒死したという。
 横曽根川を渡ると、国道2号が土手の上を通っているので、脇のトンネルをくぐって先に出ると、旧国道が廃道の様になっているので、ここを右へ行くと●大道への旧道入口があった。   13:00

■大道〜大道
 やがて大道市の集落となり、集落の中を進む。大道も馬10疋を備えた半宿であった。大道は江戸時代は台道と称されていたようである。市の半ばの●元庄屋の上田家には昔を偲ばせる井戸が残っている。
 右手高台に上田家により建てられた立派な石碑のある厳島六社大明神があり、やがて国道2号に出る。
 道路の向いに大きな●2基の石灯籠が建っている。山口高嶺大神宮遙拝所の名残の灯籠である。  13:30

■大道〜長沢池
 国道を5分も行くと、左手に●旧道入口が残っていて、そこを進む。
 旧道は少しで再び2号に合流する。国道の右斜め前方に旧道が繋がっているので、国道を横断して行く。
 このあたりに3本の「大道往還道松」があったというが、全く見られない。
 入った右手に●津山神社がある。「祭神 東条九郎右衛門」とある。この先の長沢池を築いたのが小郡宰判の代官「東条九郎右衛門」でその功績で祀られた。その●長沢池の東端へやって来た。  13:47

■長沢池〜大村神社前
 長沢池は防府市と山口市の境に位置している灌漑用の池で周囲が6kmもあるという大きな池。今ではドライブインやガソリンスタンドなどが出来て賑やかであるが、昭和30年頃までは往還松が何本も立ち並び、民家も無く静かな所だったらしい。
防府市と山口市の境界あたりの所、●GSの隣から山陽道は国道から南に大きくそれて行く。それるのは長沢池ができた為と思われ、以前はもう少し大きかったのかもしれない。国道から分かれると道は急に細くなり、●旧街道らしくなってくるが、舗装路であり、車が時々通って行った。
 やがて再び国道2号に合流した。池畔に●文久2年(1862)に建立された赤川晩翠の詩碑がある。
 北側に大村益次郎を祭った大村神社があるというので行って見たいところだけど、小郡までまだ案外と距離があるのでパスということにした。   14:20

■大村神社前〜東陶
 国道を進み、今宿東信号で左へ折れる。「今宿バス手停」でまた左へ折れていくと●JR山陽本線へぐっと近づいてきた。ほぼ昔の道幅のままという。
 JR四辻駅の北側を通過して行く。大村益次郎生家がR四辻駅の南側にあるという。
 東陶信号の手前右手に●建石という、高さ1.5m程の平らな石が立っている。立石ともいうが、なんの記述も無いので詳しいことはわかっていない。
 東陶信号で国道2号を横断して行く。   14:55

■東陶〜上市
 国道の北側に出て進むと、右手に円覚寺がある。道は寺の西側で鍵の手の様に曲る。ここから先が「陶上市」である。
 右手の赤い祠が●陶の市えびすという。上市は宿場では無く、御用物等の継場であったという。以前は古い家もも残っていたらしいが改築されたり、茅葺がトタンで覆われたりで、新しくなってしまったようだ。
 橋本橋を渡ると、「陶下市」で、橋を渡った所に●陶下市えびすがある。こちらはアルミサッシのお堂であって、中に小さいえびす像が置いてあった。    15:12

■上市〜陶
 陶小学校を過ぎた先の右手に●「艫綱の森」という案内板が立っていて、鳥居や石祠、石碑が並んでいる。この寄舟神社は国道2号の工事のため移転したものだが、推古19年(611)百済の皇子琳聖太子が上陸されたと伝えられ、太子は焼物の作り方を伝え、以来この地で焼物が盛んに作られるようになったという。
 その先、右手に日吉神社の鳥居があり、山道が長く続いている。すぐ先、左手に茅葺の古民家がある。
 街道は「西陶バス停」で県道335と合流し、しばらく進んでから右折して行く。大きな●真菰池の横を通り新幹線の高架の下をくぐると小郡町に入る。   15:40

■陶〜東津橋
 新幹線の高架を過ぎて少し行くと右手に●一里塚跡の石碑が建っていた。「従安芸郡小瀬川二十二里 従赤間関十四里」と書かれている。
 ●東津橋で椹野(ふしの)川を渡る。この先が小郡宿であるわけだが、ゆっくり見て回る時間がないので、小郡宿のことは次回に回すことにして、急いで新山口駅に向い、新山口駅停車の「のぞみ」で京都へ帰った。15:50

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