山陽(中国)街道を歩く 26
                     (長府〜下関・大里まで)
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 印内−金屋町−忌宮神社−功山寺−前田−火の山公園−赤間神宮−亀山八幡宮−永福寺    9.8km
 

2013年7月28日
■印内〜金屋町
 いよいよ本日は山陽道のゴールになるでしょう。昨日泊った「ヴィアイン下関」は安い割りに快適で仲々良かった。
 長府印内から●金屋町へ入って行く。印内川に架かる●鞏昌(きょうしょう)橋を渡る。小さい橋だけど長門府中の入口に架かる重要な橋である。すぐ右手に大乗寺、●徳応寺と続く。徳応寺には菊舎尼墓と句碑がある。平日で朝早いせいか門が閉っていて入れなかった。  8:30

 50 長府宿
 周防国の国府が置かれた防府に対し、長門国の国府が置かれたので長府と呼ばれるようになった。中世には長門守護所や長門探題が置かれ、西国防衛の要衝で近世には長府藩の城下町として栄えた。幕末には砲台場が設けられている。

■金屋町〜忌宮神社
 ●金屋町に入ると、あたりは「城下町長府」と呼ばれ、町並が一変してしまう。道幅が広くなり、商店や神社仏閣が立ち並び、明治維新ゆかりの地であるので、県下有数の観光スポットといって良い。長府国府の所在地であり、長府宿が置かれた。 また金屋とは「長府国府鋳物師の居所なり」といわれた場所という。
 この先中之町、土居の内町、と続くが、お寺が多く、寺町と呼んでいいくらい。忌宮神社から左手の方に入って行くと●「維新発祥の地記念碑」という碑がある。長府が高杉晋作の回天義挙があった命じ維新発祥の地であることを記念するもの。
 8:45

★忌宮神社
 旧道に戻ると右手に●忌宮(いみのみや)神社の鳥居が立っている。第14代仲哀天皇が九州平定のために西下、穴門(長門)豊浦宮を興して7年間政務をとった地といわれる。
 その為境内裏手に●「仲哀天皇豊浦宮皇居趾」の碑がある。
 また長府は古代から舟運の重要な地としていたことから、長門の国府が置かれ、神社のあたりに国衙が置かれたという。     8:55

■長府宮の内町
 次に忌宮神社の裏手に回り、●乃木神社へ行った。明治天皇に殉死した乃木希典(まれすけ)を祀る。大正8年に創建された。
 乃木将軍は東京麻布の生れだが、10歳から16歳まで長府で過している。境内に当時の●「乃木旧宅」が復元されている。 乃木神社の南隣の路地は●横枕小路と呼ばれ、両側に往時を彷彿とさせる土塀が続き、味わい深い。  9:00

■長府総社町〜功山寺
 惣社町の交差点で旧道は右折し、●惣社町へ入る。惣社は総社と同意義であり、この辺りに長府総社があり、昭和40代まではその一部を見ることができたという。
 右手奥に「古江小路」があるが、忘れてしまって行けなかったのは残念至極。
 右手に●長府毛利邸がある。長府毛利家14代元敏(もととし)によって建てられた邸宅で、明治36年の完成になる。明治天皇の行幸の際の行在所としても使われた。 9:15 

★功山寺
 道は左へ曲って行き、右手に明治維新を語る上で欠かす事の出来ない功山寺が建っている。
 第一次長州征伐後、幕府恭順派(俗論派)に対して高杉晋作が元治元年(1864)起したクーデターはこの功山寺から起ったのであった。当時七卿落ちで京を逃れた7名の公卿のうち5名が寺に滞在しており、五卿に決起の挨拶をする事により、義挙の大義名分を得る必要があったといわれる。
 石段を上がって行くと巨大な●山門がそびえる。山門をくぐると●仏殿があり、鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されている。
 奥の墓所に大内義長の墓がある。大内義長の自刃により200年続いた大内氏は断絶している。また三吉慎藏の墓もあった。「龍馬伝」で筧利夫が演じていたが、龍馬の命の恩人だし、もっと評価されて良いのではないかと思うのだが。
 寺を出ると●高杉晋作回天義挙の碑がある。功山寺あたりまでが城下町長府と呼ばれている。  9:35

■功山寺〜前田
 功山寺をすぎて、緩い上り坂になり。辻堂峠に向う。山あいを通るハイキング道で●野久留米街道と呼ばれる。長府と赤間関の港をつなぐ長府藩の動脈であった。
 途中右手に●「軍神廣瀬中佐 亡友展墓記念碑」という大きな石碑がある。「展墓」とは墓参りのことで、墓参り先の福田家が建立したという。 辻堂峠を越えると、下り坂でのどかな田舎道が続いている。●茶臼山の北側の山すそをまわり込むように下り、前田へ向う。   10:20

■前田〜火の山公園
 ●前田の集落へ入ってきた。前田には毛利綱元により山荘(御茶屋)が造られて、風光明媚な所と思われる。しかし海峡を望む重要な場所だったので、幕末砲台が造られ下関戦争では連合国軍に徹底的にやられてしまった。
 また、ここは古代山陽道の終点の臨門駅があったと推察されている。旧道は一度国道9号に近づき、またUタ−ン坂を登っていくわけだけど、ここから先住宅が建てられ、しばらく消滅している。住宅の中を道なりに上がって行くと、そのうち●旧道に合流できた。旧道をしばらく進むと目の前に●関門海峡が広がり、関門橋を臨むことができる。   10:55

■火の山公園〜みもすそ川公園
 ●火の山ロープウエイ駅を通過して行く。「火の山公園から先はまた旧道がわからなくなっているので、道なりに国道へ向って坂を下りて行く。
 国道へ出ると壇ノ浦である。国道脇が「みもすそ川公園」になっており、●壇ノ浦砲台跡の碑が建っていて、長州軍が使用したカノン砲の模型が置いてある。ここの壇ノ浦砲台は先の前田砲台と同じで、下関戦争で連合国軍と砲撃戦を始め、結局大敗を喫する。しかし、この敗戦をきっかけに長州は攘夷から開国、近代化へと発想転換していくわけである。
 またここ壇ノ浦は源平合戦の古戦場でもあり、平家滅亡の地である。●義経八艘飛び像、知盛「碇潜」像などが設置されていた。   11:05

■みもすそ川公園〜赤間神宮
 この辺りの海峡は●早鞆の瀬戸(はやとものせと)といい、600m位しか離れていない。関門橋をくぐって少し行った所の山側に●立石稲荷神社の真っ赤な鳥居が見える。
 壇ノ浦町を過ぎて阿弥陀寺町に入った。右手高台のハデな神社が●赤間神宮。赤間神宮は江戸時代までは阿弥陀寺と称していて、神仏分離により現在の名前になった。安徳天皇の菩提を弔うの寺が元々の始め。よって境内に平家一門の墓があるし、耳なし芳一の像」なんてのもある。   11:20

■赤間神宮〜亀山八幡宮
 赤間神宮の向側、街道左手に、●「朝鮮通信使上陸淹留之地」と書かれた大きな碑がある。朝鮮通信使は最初の地として下関に上陸し、帰路においても立ち寄るのを常としたので、それを記念する碑。
 神宮の隣に日清戦争の講和会議の舞台となった春帆楼があるが、一つ先を右に入るのが旧道で、下関(赤間関)宿が置かれていた。この道は亀山神社へ続いているが、先の大戦の空襲でやられてしまい、跡形も無くなってしまっている。右手に●本陣伊藤家跡の碑が建っている。伊藤家は相当の豪商で、参勤交代時の大名やオランダ商館長一行、シーボルトや、坂本龍馬夫妻も訪れたという
 国道をまっすぐ進むと右手に●亀山八幡宮の鳥居が立つ。往時はこの辺りは海に突き出た形になってて、神社の東側に渡船場が造られ、大里、小倉への渡船が出ていたという。また船番所もあった。幕末には亀山八幡宮にも砲台が築かれ、連合軍への第一弾はここから発射された。亀山八幡宮の鳥居の横に●「山陽道」と刻まれた石碑が立っていて、ここが山陽道の起点であると記されている。大坂から延々と歩いて来た山陽道もここがゴールなのだ!。 といって良いみたいなのだけど、しかし、調査報告書ではこの先の永福寺の一里塚がゴールであると書いてあるので、永福寺へ向わなければならない。 11:40

51 下関(赤間関)宿
 東の周防国熊毛郡上関とを対にした呼び方で下関となった。古くは赤馬関、馬関とも呼ばれていた。宿場は赤間神宮隣に設けられ伊藤家が本陣を勤めた。御用所、月代所が設けられて行政を担当した。九州への渡船場が設けられ、亀山神社が実質的な山陽での起点(終点)といわれる。宿場は先の空襲により大半が消滅し、また区画整理等により様相が一変した。

■亀山八幡宮〜永福寺
 下関市役所前から旧道が復活しているというので、中之町、赤間町は適当に進み、市役所前から旧道に合流した。旧道と云っても面影など全く無い普通の市街路。
 途中左手のビルの所に●「上山文英堂書店本店跡(みすゞ終焉の地」という案内板が立っている。
 その先に●「馬関越荷方役所跡」の碑がある。越荷とは越後から北前船で運ばれる荷のことで、莫大な利益が上げられ、長州藩の近代化に大いに寄与した。旧街道と国道9号が接近した所に●永福寺の参道がある。明治初期まではここに山陽道の起点の一里塚があったという。国道のあたりは埋立て地だろうから、参道は海に面していたのだと思われる。永福寺は往時は大寺だったらしいが、今は小さなお寺になってしまった。山陽道の史跡はなにも残されておらず、寂しいゴールでありました。

 さて山陽道はここで終りになるが、幕府の公文書では大里が終点のように書いてあり、大里にも行って見たいと思って、関門海峡を渡ることにした。    12:05

  門司往還   (大里〜小倉まで)     歩行地図はこちら
 小森江駅大里1丁目−門司駅前−長浜町−門司口橋− 京町−常磐橋    7.1km

 長崎街道・門司往還:大里宿
 「大里(だいり)」の地名は、寿永2年(1183)源氏に追われた平家がこの地に御所を定めたことから「内裏(だいり)」と名付けられ、享保年間に「大里」に改められたことによる。大里は小倉と共に本土渡海の玄関口で、大里の方が潮の流れが穏やかで使われた。
 大里宿は長崎街道に沿った直線5町52間(約646m)の町並みで、本陣、脇本陣、番所、郡屋、人馬継所、旅籠屋が並んでいたという。街道の名前は大里の案内板ではこの宿場を通る道は門司往還の名前が書かれていたので、こちらに従った。

■唐子〜小森江駅
  国道沿いに唐古まで戻って、桟橋から関門連絡船に乗った。所要時間は5分程で●対岸の門司港へ着いた。
 門司にはレトロな建物が多くて興味深い。●旧大坂商船ビル。門司港駅は改装中で良く見えなかったが、レトロな建物で重要文化財である。●鹿児島本線の0キロポストにはSLの車輪など置いてある。ここから大里の最寄の「小森江駅」まで1駅だけど、歩くのも大変なので乗ってみた。   12:50

■小森江駅〜大里本町1丁目
 ●JR小森江駅が大里の最寄駅になる。駅前に大里宿の説明板がある。
 旧道は国道199号の1本南側に通っているので、踏切を渡り国道へ出ると、製糖工場がある。工場を過ぎて●大里1丁目から●大里宿が真っ直ぐ続いている。すぐ右手に●西生寺がある。始めて聞くのだが、この寺でキリシタン禁制に伴う踏絵が幕末まで行われ「判行寺」というのだとか。     13:18

■大里本町1丁目〜2丁目
 その先街道右手に●庄屋石原宗祐の屋敷跡というのがある。江戸時代凶作に苦しむ農民のために私財をなげうって新田開発に努めたという。
 右手に門司らしいというか、レンガ造の倉庫がある。
 右手に●御番所跡碑が立っている。本土との渡海口に当たり、舟の出入り、人馬の切手改め、荷抜けの取り締まりを行っていた。その先左手の鳥居脇に●本陣跡碑もあった。    13:25

■大里本町2丁目〜3丁目
 鳥居の奥には●住吉、祇園、稲荷神社があり、この辺りが大里宿場跡であるとの案内板があったが、宿場は旅籠を夾んでもっと長いわけで、意味がよくわからない。
 右手に●御在番役宅・浜郡屋跡という碑がある。浜郡屋というのは役人や在屋が取締などを協議した所という。
 更に進んだ左手に参勤交代の大名に人足や馬を提供する●人馬継所跡の碑が設けられている。    13:35

■大里本町3丁目〜門司駅前
 1駅先の「門司駅」前にやって来た。●豊前大里宿址の石碑が立っており、大里宿はここまで。小倉から来ると江戸への玄関口にあたる。
 左手、駅前一帯にはレンガ造のレトロな建物が並んでいる。●門司赤煉瓦プレイスといって、この建物群の多くは1913年に竣工した帝国麦酒の工場施設。その後サッポロビールの工場となり、工場移転後資料館やレストランになっている。
 旧宿場の面影は無くなって●駅前の広い道を進む。   13:45

■門司駅前〜長浜町
 駅前を過ぎると、また道は細くなり、線路を越えて延びている●高架橋の下まで来た。地図を見ると道は続いているのだが、ゼンリンプリンテックスという工場の裏手で線路に遮断され、ぷっつりと消えている。工場裏まで行っても叉戻ってこなくてはならず、無駄だと思って、右折して●国道199号へ迂回して進んだ。 ●長浜町まで来るとへ旧道が復活するようなる。     14:55

■長浜町〜貴船神社
 旧道に入り、右手に●閻魔堂がある。このお堂は、鹿児島本線の線路変更により線路の向側より移転したきた。祭りの際に「地獄・極楽図」が開帳されるとか。
 左手に長浜の庄屋であった●岩松助左衛門生誕の家がある。響灘沖で海難事故が起きないようにと灯台の必要性を訴えつづけ、私財を投げうって灯台建設に人生をかけた人物という。 右手に●貴船神社があった。          15:00

■貴船神社〜常磐橋 
 神社のすぐ先は砂津川。●門司口橋が架かる。小倉城の門司口門跡にあたり、昔と同じ位置にあるそうだ、案内図を見るとここを直角に左折し、更に右折して常磐橋の方へ小倉藩士の屋敷が続いていた。
 現在の京町を抜けて行くと、木製の趣のある●常磐橋へ至ることができる。
 常磐橋は江戸時代は町人の地域)と武士の区域をを結ぷ、重要な僑として架けられ、当初は大橋と呼ばれていた。この橋が長崎街道の起点となっていヽたため、僑の周辺は幕府役人や旅人の宿などが建ち並んでにぎわい、参勤交代の大名や長崎奉行をはじめ、多くの人々がこの橋を渡り、中でも有名なのがドイツ人医師シーボルトで、この橋を銅版画で紹介している。
  さてこれで山陽道のすべて24日間で歩き終えました。最後の永福寺のゴールはあっさりしたものでしたが、関門海峡を渡り、小倉まで来れたので満足です。帰りは小倉から新大坂まで特別料金10,000円で帰ることができました。  15:30

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