山陽(中国)街道を歩く 25
                        (厚狭〜長府まで)
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 鴨橋−寝太郎橋−石炭町−福田−蓮台寺峠−吉田−東行庵−下木屋−小月−清末−王司−長府−印内      25.6km        
 

2013年7月27日
■鴨橋〜寝太郎橋
 ●鴨橋を渡った所で左折して、厚狭川沿いに南下して行く。橋の左角に魚屋さんがあったようだが、空地になっている。その角に●道標があって、「左はぶ下関」「右あつ」と刻まれている。
 旧道はJRの高架手前で右折して行くのだが、山陽線、新幹線によって消滅してしまった。よってここは真っ直ぐ迂回して、高架の下をくぐらないといけない。迂回して厚狭駅の南側で旧道に合流して西へ進む。
 道は寝太郎橋まで一直線に延びていて、町並も四角に区切られ●「厚狭の条里遺構」といわれている。少し行って右に曲ると●寝太郎権現社がある。「厚狭の寝太郎伝説」の寝太郎を祀っている。伝説では、寝太郎は寝ながら考えた知恵で、新しいわらじを佐渡の金山に持って行き、古いわらじと交換して、古いわらじについた砂金を持ち帰り、この地域の開発資金にしたという。
 8:25

 47 厚狭宿
 鴨神社が鴨荘に勧請された頃、麻の栽培を行い、麻市といってが後厚狭と変った。吉田、船木間の半宿であったが、本宿同様の多くの通行人があったという。伝馬15疋、人足25人が置かれた。古代山陽道の「厚狭駅」が置かれたいた所である

■寝太郎橋〜七日町
 桜川を渡り浴地区に入ると●道は屈折を始め、林間地域に入り、街道らしくなってくる。
 石丸橋を渡ると七日町に入る。左手の小さなお堂のあたりに一里塚があったとされるが、痕跡も何もない。 やがて●分岐点に出会った。真ん中に●道標が立っていて、「右吉田道」、「左はぶ道」と刻まれている。右側の道が山陽道で、左に別れる道は「はぶ道」と呼ばれ、埴生へ向う中世の山陽道という。 8:55

■七日町〜石炭町
 七日町の道標を過ぎ、広い車道を横切ると●山野井八幡宮が見えてくる。旧道は神社前を巻いて通過している。
 県道225号を渡ると山野井地区に入る。民家の間を抜けると●田園風景の中を通るようになって、のどかな道になってきた。右手に「お駕籠立場」があって、殿様が休憩した所があるということだが、全くわからず。  だんだん山陽線と平行になってくるようになり、石炭地区に入ってしばらく行くと●分岐点にやって来た。旧道は右に進み、踏み切りを越える。     9:40   

■石炭町〜福田
 線路に沿って進み、線路に架かる●石炭跨線橋を渡って右折する。このあたりは調査報告書の地図のとおりに進んでいる。
 しばらく線路を右に見て、平行に進むと山陽線の福田トンネルの上を横切り、線路の右側に出た。すぐ先の三叉路は左に入ると舗装路から山道に変わり、トンネルを渡り返して、線路の左側へ出た。●JRの線路を右に見て線路に沿って坂道を下っていく。坂を下り切って踏切りを渡ると正面に●福田八幡宮の鳥居が見えた。 10:03

■福田〜蓮台寺峠入口
 福田八幡宮から250mほど行くと●右に分岐する所があり、正面に小さな●道標が立っている。「右吉田道」、「左埴生道」と刻む。
 ここは道標通り右に入って行く。すると「左 吉田〜」という案内板が立っている地点に来て、案内通り、左折して民家の間の細い道に入って行く。●蓮台寺峠への入口である。  10:07

★蓮台寺峠
 細い道に入って行くと●田園道になって、往時の街道らしくなってくる。このあたりは車も無く風も通り抜け、気持よく進んで行く。
 ただこの先、有名なヌカルミ道が待構えているというので、どんな感じだろうと期待半分、不安半分といったところ。ヌカルミの為に靴を覆うレジ袋を持ってきている。
 竹林の手前で左に折れて進む。やがて期待していたヌカルミ道に来たようだった。なるほどヌカっている。突っ込んだら足がズボっと入りそうだが、じっくり観察すると、そう柔かそうでもなく縁の部分に乗っかってみると大丈夫だし、・・という感じなのでレジ袋を使わないで強行突入してみた。 堅そうな縁を草の上から乗っかると上手く進め、難なく乗越えることができた。ほんの数十メートルのことである。ここは天気に由来する現象ではなく、水田の排水に関係することらしいので、農期が終ったら大丈夫なのだろうと思う。 この先の分岐を右に行くのが旧道だが、荒れ果ててヤブコギする必要があるというので、旧道は止めて素直に●新しい道を進んだ。その内●庚申塚と開作記念碑が立っている所へ来た。       10:42 

■蓮台寺峠〜吉田入口
 すぐ先の●蓮台寺峠をを越えると道は舗装路になり下関市に入って行く。
 右手に蓮台寺があるが、本尊十一面観音は公開されていないし、まあパスしておく。
 どんどんと坂を下って行くと、●右手からの大きな道と合流した。かたわらに●小さな道標があって、「右 蓮台寺」、「左 川久保」と刻む。合流点を左折して大きな舗装路を下って行く。途中山陽自動車道をくぐる。
 吉田の町に入る手前で、埴生口から吉田へ通ずる道が合流している。現在はこちらの道が使われているため蓮台寺峠越えの道はほとんど使われることがなくなったそうだ。
 少し行くと右手に庚申塚と猿田彦の碑がある。庚申塚を過ぎると●三叉路となり吉田の集落の中に入って行く。 11:27

■吉田入口〜県道260号
 三叉路を左折するが、左折する直前の右手に●1.3mの道標が立って、「右上方道」、「左萩道」と刻まれ、隣に「吉田旧街道」の新しい石標もあり、吉田宿の説明が書いてある。
 ●三叉路の正面は恵比須堂で、高札場となっていた。
 ●吉田の旧宿場を進んで行く。吉田は山陽道の宿場として栄えた所。吉田はまた明治維新ゆかりの場所でもある。古い家や白壁の旧家がいくらか見られる。左手に「奇兵隊史跡 末富家」という場所がある。末富家は吉田の庄屋であり、奇兵隊の本営に定められた。上杉晋作の葬儀もここから出ているという。   11:34

■県道260号〜東行庵
 
県道260号との交差点を左折した角に●一里塚跡があった。旧道は県道を渡って直進するのだが、左へ行った所に高杉晋作の墓があるので、ここは見に行かねばと思い、寄道をしていくことにした。
 吉田小学校の手前を左に入ると●吉田の勘場御茶屋跡がある。土塀しか残っていない廃墟のようになっているが、勘場はいわば代官所で、この地域の統治を担当していた。本陣の役目をする御茶屋は勘塲の隣に置かれ、幕末には奇兵隊の屯所としても使用された。  11:40

48 吉田宿
、山陽道と萩街道の分岐点に当たるため、本陣も置かれ宿場町として栄えた。吉田宰判と称する役所が置かれ厚狭郡一帯の政治経済の運営にあたった。幕末には上杉晋作率いる奇兵隊も駐屯して訓練に励んだゆかりの地である。 伝馬15疋、人足58人が置かれる。付近には上杉晋作の墓がある東行庵がある。

★東行庵
 県道を更に南下すると左手に高杉晋作の菩提をとむらう東行庵がある。一帯が公園化している。。
 常夜燈の間の坂道を上がって行くと、●高杉晋作の墓があった。東行は晋作の号で、晋作の菩提を弔う為、山形有朋が吉田の無隣庵を晋作の愛人「おうの」に与えて住わせたのが始りという。中に晋作の●顕彰碑●銅像が立っている。公園を出ると、正面の駐車場に茶屋があるので、お昼にありつけた 11:55

■東行庵〜下木屋
 旧道に戻り、西へ進む。県道33号に架かる●吉田大橋を渡る。昔は夏秋は舟渡しで冬場は木橋を架けて渡っていた。
 吉田大橋を渡ると●木屋川土手沿いの県道を延々南下していくしかない。昔はもっと川沿いを行ったと思うが、川沿いは歩くことができない。
 暑い中、自動車の排ガスなど吸いながら、20分ばかり進むと新幹線の手前右手に●切通し跡があるのでそこを上がって行く。こここが旧道である。  13:05

■下木屋〜小月京泊
 入口に地蔵堂があり、そこから上がって行く。途中に●民家が建っているが無人らしい。脇の山道を進むと突き当ってしまい、右手に行くと石仏が沢山あって、先は山に登っていくようで先に進めない。左手は草に覆われて先が見えない。が、●金網が先に続いていて、進めるようなので、又々藪こぎを少々して進むと、新幹線手前の県道に下りることができた。その先、調査書の地図では新幹線を過ぎた所で、旧道は再び右に分岐するようになっているが、工場の敷地の中で通行不能だった。
 新幹線を過ぎてから600m程の所で●右に入る坂に入り小月の町に入って行く。 13:30

■小月京泊〜小月本町
 小月の町の中に入って行くと、左手に大きな池が見え、小月小学校の北側に●「旧国道」と刻まれた石柱が立っている。右面に「この道が参勤交代で往来した道」と書いてある。 小学校の先を右折すると●小月神社の前に出る。この神社には大内義隆が献納した太刀などがあるという。
 神社所で左に曲がり国道491号を越える。少し行くと、小川手前の小月神社の御旅所の中に●巨大な自然石の庚申塚が建っている。説明によると、・・・日本一とも言うべき”庚申塚で、高さ2.63m、重量7トン、刻まれた文字の中には米2升が軽く入るそうです・・・とある。  この庚申塚を過ぎて小川を渡った辺りから小月宿に入って行く。  14:00

49 小月宿
 中世前は吉田を経由せず埴生から宇津井を経て小月に至っており、延喜式の「宅賀郷」は小月を当てている。江戸時代は山陽道の半宿として栄えた。宿場は小月市に設けられ、長さは3丁5間(336m)あった。「茶屋宿屋あり その外は農家多し・・」と記す(筑紫紀行)

■小月本町〜小月茶屋
 道はバス道に突き当り、左折して●小月の町へ入る。この突き当りの左手に高札場があったとされている。小月の町は現代的な町になって、旧宿場らしい趣は全く感じられない。
 信号の所で右折するのだが、手前の右手に●山陽道の道標が立っていて、案内板も整備されている。道標には「右かみがたへ、左とよたへ」と刻まれていた。
 道標が立っている交差点を右折して、細い道へ入って行く。案内表示石が立っていて、ここからは●「見廻り通り」と呼ばれ、「下市から茶屋入口までの山陽道の一部で、下市は宿場街、茶屋町は歓楽街で栄えたために武士が庶民の暮らしや治安を見て廻った」という説明が書かれている。この先同じような道が続き、ずっと南下して行く。     14:07

■小月茶屋〜清末千房
 清末鞍馬へ続く三叉路を左へ曲っていく所、手前右手に●「孝行塚」がある。明治4年に没した清末の孝女お政を顕彰するもの。
 このあたりが小月と清末との境目にあたる。清末は長州藩の孫藩「清末藩一万石」の領地で、館は右奥の「東部中学」の敷地にあった。
 清末の町をしばらく進むと、右手に●清末八幡宮がある。石段を上がりしばらく休憩。ここは高台で見晴しが良い。
 その先清末千房地区に入ると、右手に●大きな長屋門が建っていた。「橋本家長屋門」といい、清末藩邸の裏門を移築したものという。   14:57

■清末千房〜王司上町
 ●神田橋で渡る神田川が、清末藩と、長府藩の境となる。神田橋の長府側には文化8年の石橋時代の高欄と石柱が残されている。
 旧道は王司神田を通り、国道491号号を渡りって行く。それからしばらくは●国道とJR山陽本線に挟まれた地域を走っている。ほとんどが農道だが古い木造家屋に旧街道らしい感じがある。
 王司上町4丁目のあたり、●山陽本線に一番接近している所、左手に●「宇部一里塚跡」の新しい碑がある。赤間関まで3里に近づいた。  15:30

 ■王司上町〜長府駅
 その先、●才川踏切を渡って長府才川に入る。踏切の先に御駕籠立場があったようだ。
 国道491号の高架下をくぐる。
 才川橋を渡ってからは特に史跡などはなく、●才川の住宅地の中を長府駅をめざして直進する。長府松小田本町に入り、ようやく右手に●長府駅が見えた。かなり疲れていたのでしばし駅のベンチで休憩。 長府の町に入っていくわけだが、駅は町の中心にあるかというと、さにあらず町の中心は2km程先の「城下町長府」になる。山陽線が敷設された時、城下町の景観を守るため、わずらわしい鉄道を拒否したとかの話を聞いたことがある。山陽線が長府駅の先でぐるっと西へ回って下関へ向っているのはこの為かな?。
 本日はここで終了して山陽線で下関へ向う予定のところ、時間もあるのでこの先の「印内」まで行って、バスで下関へ向うことにした。 16:05

■長府駅〜印内西
 長府江下町、長府八幡町と過ぎて行くが、土塀のある古い家を結構見かける。
 長府印内町に入って、左手に●田上菊舎旧宅跡の案内板が立っている。田上菊舎は加賀の千代女と並び称される江戸期の代表的女流俳人である。代表作に・・「山門を出すれば日本ぞ茶摘唄」・・という句があるそうだ。
 続いて旧道の一本右側の道の土塀所に●「狩野芳崖邸址」の石碑と案内板がある。近代日本画の創始者である狩野芳崖は文政11年(1828)長府藩のお抱え絵師狩野晴泉の子としてこの地に生まれた。維新後は不遇だったが、フェノロサや岡倉天心にめぐり会って進路が開けた。美術学校(現東京芸大)創設に努めるが、開校前の明治21年、名作悲母観音を遺して61歳の生涯を閉じた。    本日はここで終了。国道9号「金屋浜バス停」より下関の「ホテルヴィアイン」へ向った。 17:10

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