004 二本松宿から福島宿へ        歩行地図
 二本松駅-油井-二本柳-境川-八丁目-松川-金谷川-清水-伏拝-太平寺-福島   22.08km

22 二本松宿
杉田宿から1里10丁(5.0km)。 近世の二本松宿の成立は蒲生氏の天正18年(1590)から慶長年間初期に遡ると云われ、寛永20年(1643)白河丹羽氏が二本松に入り、城山の中腹に「霞ヶ城」を築城、慶安3年(1650)に町割りを完成した。戊辰戦争で宿は灰燼に帰している。

2019年3月29日
■二本松駅~本町  画像をクリックすると拡大します
 7時半頃ホテル出発。 まず●●二本松神社に寄ります。ここも石段を上がることになって、朝から疲れます。平安時代末期の久安年間(1142~)頃周辺の領主だった安達盛長が熊野大神を勧請したのが始まりとされます。その後二本松城築城と共に、八幡神社も勧請され、合祀された。祭神がホンダワケノミコト外熊野系の神様。 長い石段を下りて、 ●宿内を進みます。   8:05

■本町~亀ケ谷坂
。その先に進むとさすが二本松という感じで、和菓子の老舗がいくつか点在します。●玉嶋屋は二本松藩御用達、羊羹で有名。●日夏は「二本松羊羹」の登録商標を持っているとか。
 ●「本町」バス停を過ぎた交差点は複雑に道が左右しているので宿場特有の枡形と思われます。 「亀谷坂入口」信号を左折すると、●亀谷坂への急な上り坂となります。   8:15

■亀ケ谷坂~竹田坂
 すぐ、左手に●鏡石寺がある。シダレザクラで有名なのだけど、まだ早いせいか咲いてる気はしなかったが。 徳川家康の廟所があるが、理由として面白い話が残る・・・・・参勤交代で奥州街道を南下する仙台藩主は二本松城下の北の入口辺りにさしかかると、鉄砲組の火縄銃に点火させ、二本松城の本丸方向に向けさせたという。 天正13年(1585)伊達氏と争っていた二本松城主畠山義継が政宗の父輝宗を騙して人質に取り、これを盾に和睦に持ち込もうとした。 政宗は心を鬼にして父を犠牲にして畠山氏を滅ぼした。・・・藩主政宗の恨みを忘れずに・・・というわけである。 しかし江戸時代になってから二本松城に入った丹羽氏にしてみれば全く筋違お話。 そこで、丹羽氏は城下北側から見て本丸の方角に当たる竹田町や亀谷町に徳川将軍の廟所を見立ててセットしたのであった。 鏡石寺もそのために別の場所から移築したもので、葵の紋を付けて上野の寛永寺になぞらえたとか。これで仙台藩の嫌がらせはばったり止まり、逆に通行する諸大名が拝礼するようになった・・・・・。という。
 その先、左手に観音堂があり、境内に●芭蕉句碑があります。・・・「人も見ぬ春や鏡のうらの梅」・・・。  亀谷坂を上り詰めた辺り、跨線橋がかかる所に●幸田露伴の句碑・・・「里遠し いざ露と寝ん 草まくら 露伴」・・・とあって、ペンネームゆかりの地とある。 案内板  その先は下り坂となり、●竹田坂といいます。家具の街と書かれた看板が出ていて、家具造りが盛んらしい。 8:35

■竹田坂~根崎
 県道とぶつかる右角に●「竹田見附ポケットパーク」というのがあって、休憩にちょうど良い。案内によると・・・慶安年間(1648~)の街割りにより、旧奥州街道と竹田門へ通じる三叉路が設置された。ここは、城の最も外郭に当たるため見張りをする見附だった・・・という。 すぐ左手に●「天明蔵茶舗伝承館」、「天保蔵蔵品館」というのあります。 二本松藩御用蔵を務めた大内家の蔵を利用して、当時の美術品などを展示しています。
 その向い側の一見風格のある建物は●大七酒造株式会社。清和源氏に連なる太田家がそのルーツで、創業宝暦2年(1752)。 今まで見てきた様な街中の造り酒屋ではなく、相当な規模を持つ醸造場にして、正統的醸造法「生もと造り」の全国随一の担い手だそうです。 ●根崎交差点で左へ曲がります。     8:50

■根崎~油井
 ●鯉川に架かる鯉川橋を渡り、すぐ右折します。  鯉川は先の御用蔵を務めた大内家の裏手を流れ、 阿武隈川を結ぶ 舟運に都合が良かったらしい。 河川改修が進んだせいか、両側がコンクリートで埋められ昔の面影がない。 ここで二本松城下を抜けます。 その先、道なりに左に曲がると●油井宿といわれる所へ入って行くのだろう。 左手に●高村智恵子の生家である造り酒屋が現れます。 裏手には智恵子記念館があるが、時間がないのでここはパス。 平日のせいか人出が見当たらない。高村智恵子は油井宿の育ちといわれるのでこのあたりが、油井宿と思われるのだが、奥州街道の宿場には数えられていません。 が、文化7年(1810)の記録では宿場と数えられている。 次の二本柳宿が小宿だったため油井とワンセットで宿駅の務めを果たしたことがあったらしい。 「八軒」バス停」の先の●坂道を上がって行きます。   9:15

■油井~二本柳
 「油井小学校前」バス停の先の二股は左に進み、街道をみ、油井川を渡り右折して行くと、「長谷観音」の看板現れるので、左へ入り長谷観音に寄りました。 両側に常夜燈が現れ、観音橋を渡ると●石段の前に出ました。 疲れそうな気もしますが、上がって行くと、結構風格のある●長谷観音堂が現れます。丹羽氏の祈願所として明治まで庇護したという寺で、鎌倉の長谷、大和の長谷と並んで日本三大長谷観音の一つに数えられるそうだ(ホントかな?)。 本尊は高さ106㎝の十一面観世音立像だが、見ることかなわず。 コメリの先の●酒店の所の二股は左へ行くと、水田の間を進むようになる。 住宅地に入り、 ●右手奥に信号のある十字路を左に曲がると二本柳宿です。   9:56

23 二本柳宿
 二本松宿から1里(3.9km)。  慶長3年(1598)二本柳驛として形成。江戸期建物は、明治になってからの大火で殆ど消失したが、昭和の後半まで道の真ん中い堀が残り、最も街道の宿場らしい景観が残っていた。

★二本柳宿
 十字路を曲がらず、真っ直ぐ進むと県道との合流点に、二本柳の名前の由来になった柳の木が立っているはず。・・のところ●「二本柳之由来」という石碑が2基立っているだけで、柳は枯れてしまったか、消失していた。
 十字路に戻って、左手に進み●宿場内に入る。 両側に枡形の跡もわかり、宿場らしい風情ではあるが、建物などは新しくなっています。 すぐ右手に観音堂がある。 宿場内を進むと左手には●門構えを構えた旧家が現れ、名主らしい風情。 昔の屋号を書いた看板がチラチラと見られます。 左手に●問屋だったという建物があった。    10:10

■二本柳宿~払川
 宿の突き当たりに徳一上人が開基したと伝わる●円東寺があり、本来の二本柳は寺の前にあったという。 左手には●疱瘡神社という神社がある。  街道は門前を右折して坂道を下ると、途中左手に「円東寺清水」があり、弘法清水とも柳清水とも呼ばれ、弘法大師が円東寺寺前に柳の杖を突き立てると清水が湧き出したとの伝説が残る。
 ●下り坂を過ぎて進み、上り坂にかかった、左手に●「鹿の鳴石」というのがある。・・・「昔、二本柳と長谷堂の間に大きな沼があり、竜神が住んでいた。沼が決壊したとき水がなくなり、自分の相手とはぐれてしまった。竜神は鹿に化身しこの石の上で鳴き、相手を呼んだが見つからず、山を越えて土湯の女沼に移り住んだといわれる。この「鹿の鳴き石」の周囲を左に3回廻ると、鹿の鳴き声がきかれるという。」・・・・と案内にあります。  10:22

■払川~境川
 その先、●下り坂になった所。左手に●「戦死七人之碑」がある。戊辰戦争の取揚坂の戦いで戦死した七人を弔った碑が立つ。 尚、この坂を小取場坂というようです。 このあたりは丘陵地帯でアップダウンを繰り返します。 日向集会所の前に馬頭観世音や庚申塔などが立っています。  大取場坂に入り、坂を上り下がりした先、右手奥に諏訪神社が見える所、右手に●「諏訪神社」の石碑と●「石橋碑」がある。石橋碑は、大正4年の建立で、橋改修を記念するものだろうけど、あたりに川らしきものが見当たらないのでなんでこの場所にという疑問が・・・ その先、真っ直ぐ進むと●境川橋に出ます。 ここから先は福島市。 先ほどの石橋碑はここに架橋した記念碑で移転したのかもしれない。  10:55

■境川~天明橋
 境橋を渡ってすぐ左手の●立正院山門脇●橋供養碑と●信夫隠の歌碑がまとめて置いてあります。 供養碑説明板   信夫隠の歌碑は慶応2年の建立、万葉かな風な漢字で詠まれている。 説明板  
 その先、三叉路付近、左手に●「奥洲八丁目天満宮」がある。 元々、浄土宗長福寺境内にあったもので、花頭窓が取り付けてあったして神仏習合時代の様式を残す珍しい社殿となっています。 この辺りから●八丁目宿に入ります。  11:15

24 八丁目宿
 二本柳宿から31丁(3.4km)。 境川から八丁目の所に宿場があったからと云われる八丁目、天明根、鼓ケ岡の三村が宿を構成した。米沢街道、相馬街道の合流店にあたり、重要な宿の一つであった。本陣、検断、口留番屋、馬宿も設けられた。

■天明葉橋~松川本町
 水原川に架かる●「松川橋」は水面に映る形から「めがね橋」と呼ばれます。明治18年に完成した小さなアーチ形の石橋。 橋を渡ってすぐ左手に西光寺があり、裏の墓地の一画に天明飢饉の供養塔があるそうだが、わからず。
 右手に●「奥州街道八丁目宿場ますや旅館」というのがあった。 元旅籠だったりすると面白いのだけど、建物は新しい。 その左手に●稲荷神社がある。 境内に「明治天皇御駐輦之地」碑がある。 由緒ある神社のようだ
 ●次の角を右折するが、米沢街道との追分で左へ行くのが米沢街道。   11:30

■松川本町~松川駅入口
 追分の突き当たり左に●常念寺がある。焼失して無くなったということだが、千手観音などの石仏碑が残っています。 街道に入って突き当たりのガソリンスタンドが●本陣跡で、「八丁目本陣跡」「大名家専用の休泊所」と書かれた白い標柱が立っています。 ここを左折する。  左手●「植木農場」という家は古い蔵造りの家で、名主の様な感じだが、情報がありません。
 次の●信号を右折するが、左へ行くと諏訪神社があります。    11:55

■松川駅入口~金谷川
 石合(いしあい)町に入ります。 ●大日堂の先の信号のある十字路を左へ曲がりますが、右手角に相馬道との追分道標を兼ねるという●「石の六地蔵」が立っている。 6体あるのではなく、六角面に1体ずつの地蔵が浮き彫りにされている。
 その先は緩やかな下り坂になり、●「美郷ガーデンシティ」という住宅地の中を北上して行きます。 途中で右へ1km程行くと、東北本線にぶつかり、「松川記念塔公園」というのがある。 ここは有名な「松川事件」の発生した場所で、行きたい気もするけど、少々遠くパスすることに。 下った先に街道が消滅する地点があるようで、道なりに右へ蛇行して行くと浅川踏切を渡る。松川事件の現場はこの踏切の右方向の線路がカーブしている所になる。
  そのまま緩やかな上り坂を進むと、県道114号に合流します。 やがて又●東北線高架をくぐりますが、ここで大きなミスをしました。 旧道は高架手前で右手に入り、そのまま進んで「南体育館」脇に出ないといけなかった。 出口に常夜燈などあったようです。  次は浅川新町宿です     12:30  

25 浅川新町宿
 八丁目宿から1里2丁(4.1km)。 若宮八幡に由来し、若宮宿とも呼ばれる。 慶長9年(1604)浅川村から32軒が移転して新しい町を作り形成。八丁目宿、福島宿との間宿の役目を果たしていた。

■金谷川~国道4号
 ●福島大学を左手に見ながら県道を進んで行くと、道路が右に大きくカーブしているのが見えてくる。枡形でしょうか。 入口右手に●若宮八幡神社があります。 宿を新しく造った時に祀った神社なので、それ以来、浅川新町宿は若宮宿とも呼ばれます。 神社本殿裏側に「浅河村長長南要助、越後村上藤原信光彫之」の銘のある「中国の故事」を彫ったという彫刻があります。
 ●宿場内の道路は家々の地盤よりかなり高いといわれ、改修の度に路面がかさ上げされたのだそうです。 やがて●国道4号との大きなICに出ました。  ここを越えると清水町宿です。  13:15

26 清水町宿
 浅川新町宿から11丁(1.2km)。 天正18年(1590)に作られたとみられる。 伊達政宗が普請の際木の根が多くて難儀した為、根古宿と命名したとも伝えられている。


■国道4号~清水町
  国道4号は地下通路で横切る。くぐると脇にコンビニがあるので少々の休憩。 その先を真っ直ぐ北上。 この辺りは旧道ではなく、右手の丘の近くを通っていたという。●右にカーブを取ると、清水町宿。 清水町宿は旧愛宕堂の参道入口にあった藤清水(水神)が地名の由来とか。 宿に入ると、左側に●●出雲大神宮がある。 もともとは炭焼藤太(すみやきとうた)を氏神として祀ったと伝えられている。 藤太の子の中に有名な金売吉次がいる。 案内板  宿内を進むと、仲興寺の前で街道は鋭角に左に曲がっている。曲がった角にあるのが、●旧旅籠仙台屋であったが残念ながら取り壊されて跡形もあらず・・・・・・。    13:50

■清水町~伏拝
 街道は杉妻自動車学校の横を通って行くと、●清水町一里塚の案内が掲示してあった。 やがて国道4号を跨線橋で渡ります。 この橋を渡り、前方のホテルの横の細い道を通過して行く。 ●高台上の雑木林の中を進むと、 共楽公園手前で●「ちゅうい クマが出ることがあります」との注意書き出現。 公園でクマとは・・・ 一応クマ除けベルを鳴らすことにしました。 最近のクマは人慣れしてかえってベルは逆効果という説もあるので、どうかと思うのですが・・。  ●共楽公園に入ります。 公園らしく、遊具が置いてあるけど人気がありません。   14:20

★共楽公園
 左手の方へ進んで行くと●明治天皇伏拝御野立所の碑の立つお堂があり、脇に●お拝石・・・標柱には「むかし、信達(福島)平野が湖水であった頃、信夫三山、羽黒山、月山、湯殿山の参拝は湖水を渡ることができず、ここより伏し拝んだといわれる」とあり、外に●羽山嶽の碑群などがあります。 ●共楽公園から眺めが良く、福島市街が一望できます。 パノラマにして見ました。
  14:25

■共楽公園~太平寺
  共楽公園から右手の街道筋に下った所に●馬頭観世音碑がある。文化2年(1805年)に福島にあった飛脚問屋の島屋が道中安全を願って建立したもの。 ここから急な下り坂なり、途中の右手民家の脇に●伏拝舟繋ぎ石なる平べったい石がある。 案内標柱に「むかし、ヤマトタケルノミコト、東夷征伐のとき、この石に舟を繋いだという。土地の人はビッタラ石といっている。」・・・とある。 市街が見渡せるこんな高台も、古代は湖だったというからすごい事だと思います。
 急坂を下ると、●旧国道4号と合流します(逆から見る)。合流地点に坂道が旧奥州街道であることを示す案内標識が立っています。
 旧道は4号線に遮断され、少し先から復活しています。復活した旧道を行くと、濁川に架かる●畑田橋を渡り、一部消滅した部分があるものの、●旧の国道(現在の県道)に合流して進みます。    14:50

■太平寺~県庁前通
 その先の奥州街道はほとんど旧国道に重なっているというので、このまま北上します。 合流してから1.1km程の左手に●白猿壇(常徳寺跡地)という公園になっている場所がある。坂上田村麻呂蝦夷征討の折、当地の豪族阿坐丸が放った矢を白猿が身代わりで受け、助けたためこの地に手厚く葬ったと伝わる。
 ●信夫橋を渡ります。 奥州街道の渡河地点で、渡ると福島城下。 下を流れる川は現在は「荒川」、昔は須川といった。 橋の袂に説明板がある。 初代の信夫橋は木橋で、明治7年完成。 それが明治16年の洪水で流され、翌17年に重厚な石橋に生まれ変わった。その後何度か流されて現在に至っている。  橋を渡ると右手袂に「柳稲荷」がある。 ここは昔、近くに枡形と番所があり、城下の玄関口だったといいます。  その先、県道は微妙に曲がり、かぎ形だったという案内板が立っています。 
 その先左手の旧家は●す枡屋といって、市内の代表的な老舗であり、徳川末期から続いている。 農村向けの雑貨を販売して、百余年、他では見られない細工物などが売られている。 建物は文久3年 (1863)の建築という。 その先の●交差点を右に曲がり、天神橋の袂から阿武隈河岸へ出ました。  15:50

■阿武隈川と福島城跡(県庁)
 天神橋北側は福島城が築かれていた場所で、現在福島県庁の敷地になっています。 福島城下には阿武隈川舟運の福島河岸や船場河岸か開かれ、米沢街道(板谷峠越え)、会津街道、中村街道などもあって水陸交通の要衝であった。 ●旧日銀福島支店長宅の裏手の河岸も舟着き場の一つだった。  川岸を回って県庁に上がります。 時間がないので要所のみチラチラと見て回ることに。 敷地の南西側に●土塁の一部が残ります。 案内図  東側の紅葉山公園一帯は●二ノ丸御外庭で池、茶屋、築山などが設けられた。 ●板倉神社には藩祖の板倉重昌、重矩父子が祀られている。 板倉重昌は島原の乱で戦死したことで有名。  16:10

■県庁前通~栄町
 別れた交差点へ戻る途中の左手に旧日銀福島支店長宅で、現在は●御倉町地区公園として整備し、名称は「御倉邸」としてそのまま残し、イベント会場として開放されている。 
 交差点から北上します。 左手●旅館藤金が建っていた所は取り壊し中でした。明治元年開業の歴史があり、明治天皇巡幸の時は木戸孝允が宿泊。大正時代には竹久夢二も泊まったという由緒ある旅館だったが、どうなるのだろう。  右手に●菊屋という和菓子店があります。  その先大通を渡り、左手の●「福島市男女共同参画センター ウイズ もとまち」ビルの所が福島宿本陣があった場所で、街道はここを右に曲がって進みます。  本日はここまでで終わります。  16:30 
 宿は駅前のリッチホテルでした。

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