005 福島宿から藤田宿へ      歩行地図
 福島駅-北町-岩谷-館-古館-瀬上-幸橋-万正寺桑折-本町-追分-藤田          16.26km

27 福島宿
 浅川新町宿から1里25丁(6.7km)。福島城下に形成。阿武隈川水運の要地であった。柳町の江戸口の枡形から馬喰町(現豊田町)の仙台口まで17町19間に及ぶ。  本陣1 脇本陣2 

2019年3月30日
■福島栄町~上町  画像をクリックすると拡大します
 7時50分出発 貝田まで行こうと思うところ、午後から雨の予報で行けないかもしれません。
●「ウイズもとまち」角から出発。 黒沢本陣の屋敷があった所で、昔はここは十字路ではなく、右折のみの道だったという。正面右手の常陽銀行一帯が脇本陣の寺島家跡と云われます。 右折して先に進んでいくと、日銀福島支店の右角には米沢口の案内板があって、●ここは米沢街道の追分で、上杉藩の参勤交代に使われていたとの説明がある。 さらにその先の●安斎ビルがもう一つの脇本陣だった安斎家の跡という。 その安斎ビルの向かいに,●「古関裕而生誕の地」記念碑がある。 古関裕而はここで生まれている。 高校野球のテーマ 「栄冠は君に輝く」などで有名ですね。 7:56

■上町~北町
 その先付き合った左手角に●福島市里程元標と書かれた木標道路元標があります。ここは元は高札場だったとの解説がある。
ここを左折して、すぐ先を右折すると左奥に●稲荷神社の鳥居が見えます。 結構立派な社殿で、平安時代にあの安倍晴明が創建したという由緒を持ち、江戸時代には福島藩藩主に崇敬されてきたそうだ。 神社境内の北東の角に●世良修蔵霊神碑というのがあります。長州藩士、世良修蔵は奥州鎮撫総督府下参謀として奥州に乗り込んできたが、奥州諸藩を賊扱いにして高圧的態度を取ったので、慶応4年(1868)仙台藩士に暗殺された。墓は白石市にあるようです。 その先、「北町」交差点で国道4号を横切って、●一つ先の角を左折して進みます。     8:20

■北町~岩谷下
 左へ曲がった道は●真っ直ぐで結構広い。 かってここを電車が通っていたそうです。 明治41年(1908)福島駅前から長岡を経て飯坂に至る軽便鉄道が発祥で、その後福島電鉄による市電が走り、「福島飯坂東線」と呼んで昭和45年まで続いたそうな。 ●国道114号の交差点に出ますが、ここが福島宿の北の入口(仙台口)だった所で、枡形と用水堀に囲まれた広場があった。 その前を通過して進むとやがて●福島競馬場が右手に現れます。 土曜日の開催日のせいか、警備員が大勢出ていました。
 やがて●岩谷下の交差点に出ます。    9:05

★岩屋観音
 街道は岩谷交差点を斜めに過ぎて、信夫山裾を北上していますが、松川橋まではあまり残っていない。 左手奥の信夫山の中腹に●岩屋観音堂が見えるので、ここは登って見るしかないでしょう。  正面の石段は昔ながらの急な石段で、手すりは付いているものの、踏み外しそうになり、踏み外すと一気に下まで滑落・・・・やっと上がることができた。 あとで案内図を見ると、左手観音寺の階段を上がると簡単でした。 ●岩屋観音堂 説明板
 観音堂の周りに●磨崖仏が広がります。 宝永2年(1705)の聖観音が古いもので、西国33観音などの他に60体にも及ぶ石仏が彫られています。   帰りは観音寺の階段をユルユルと下りました。 
 ・・・・信夫山について・・・信夫山は東から熊野山、羽黒山、羽山の3峯で構成され、「信夫三山」と呼ばれる。 山岳信仰と結びつき、山形の出羽三山信仰と同じように、 熊野山には湯殿神社、羽黒山には羽黒神社、羽山には月山神社と、 出羽三山が勧請され祀られている。(Wikipedia) 岩屋観音のあたりも山岳信仰が盛んになっていたのだと思います。    9:15

■岩屋観音~舘
 信夫山の裾を通っていたという旧道は松川橋までほとんど残っていないので、国道を進み、松川橋を渡ります。渡ってすぐ左へ入ると●旧道が復活しています。 ここも広めの道で、先ほどの市電が走っていた道だそうです。
 右手に●大日堂があります。この先の正福寺の離れ境内と呼ぶようです。  ●正福寺がありますが、中世の「本内館跡」と云われ、本内館は永正年間(1046~)に源頼義が、安倍頼時・貞任父子を攻める際に創築されたと伝えら、室町時代に本内氏が館主となり、伊達政宗により敗れている。  墓地奥に●土塁跡と思われる痕跡が見られます。   9:50  

■館~古舘
 正福寺隣に●八幡神社があり、本内館より古く、南古館というのがあって、120m×170mの規模で土塁、堀などを巡らせた館だと云われます。 その先左手奥に●鎌秀院がある。ここも●墓地の回りが土塁状に囲われており、入口に「鎌田館」と刻む石碑があります。 境内に●寛延三義民の一人、猪狩源七の墓があります。  寛延2年の百姓一揆と源七の墓案内板  この先でこの三義民の碑があちこちで見られるようになります。  10:15

■古館~瀬上
 しばらく進み、●阿武隈急行、福島学院前駅をくぐります。ここを過ぎると●瀬上(せのうえ)宿入口の枡形で、右へ曲がってすぐ左へ曲がります。  ●瀬上宿内に入ります。いくらか旧家らしい雰囲気も残るものの、普通の家並みが続いている。それでも昔は近隣の人で賑わい、「瀬上花街」と呼ばれる歓楽の町としても知られたとのこと。
 中でも角の●「瀬上嶋貫本家」という建物は堂々たる風格を持ち、国の登録文化財である。 先祖は上杉家の家臣であり、上杉と共に、新潟、会津、米沢へと歩んできたと伝えられている。  江戸時代に武士を捨て、現在の瀬上に居をかまえ、「穀屋」という屋号で金貸業、酒造業、質屋等を営んでいた。 米騒動が頻繁となり、米屋と間違われることを恐れて、「大國屋」と屋号を改めた。 大地主となっていくが、戦後の農地開放により多くの土地を失ってしまう。  母屋は明治に建てられ、11代当主によって復元され、現在も当時の趣きを受け継いでいる。 10:45

28 瀬上宿
 福島宿から2里 8丁(8.7km)。 寛永19年(1642)には宿として記録に登場。福島宿と桑折宿の間の宿の様な立場だった。山形道や中村街道などが分岐し、阿武隈川の舟運の瀬上河岸もあって賑わった。寛永12年(1800)以降、備中足守藩(現岡山県岡山市)の領有地となり、 宿場の中ほどに瀬上陣屋が設けられていた

■瀬上~幸橋
 ●用品店の角を左に曲がり、「足守藩 陣屋跡」に向かいます。右手に●雷(いかずち)神社があり、 「宍戸医院」の先を右に入っていくと●史跡 足守藩陣屋入口」の案内木標が立っている。 ここを入ると●樹齢300~350年の「宮代の大カヤ」が立っており、ここが陣屋跡で、大きな●陣屋跡の石碑が立っていました。  説明板  足守藩は秀吉の妻「ねね」の実兄「木下家定」を藩祖とする2万5千石の外様大名であった。 岡山から遙かに遠いこの地に分領させるとは秀吉方へのいやがらせではないかと思いますね。  11:00 

■幸橋~福源寺
 瀬上を抜け、●幸橋を渡ると「伊達市」に入ります。 左手に「西念法師塚 0.1km」と矢印があるので寄ってみた。 ケヤキの下に●西念塚というのがある。 西念上人は寛文8年(1668)、度重なる摺上川の洪水から里人を救うため自ら堤防の人柱となって、洪水をくいとめようと捨身入定したことを記念した塚だそうだ。 ケヤキは樹齢300年という。
 新町の交差点の角に「義民斉藤彦内の墓(福源寺) 320m」の案内があるので、足が痛み出したけど入ってみた。  ●福源寺の山門に2本の見事な赤松が架かり、早速彦内の墓を探すことにしました。  彦内霊堂の壁に「寛延三義民の話」が絵入りで紹介されている。 また、義民彦内百ヶ日供養の碑があり、裏面に事件の顛末を記述したが、代官に削られたとのことで、裏面は真っ平。
 ●「義民彦内之墓所」は本堂裏にありました。 ここにある案内板が今までの義民の歴史、背景が詳しく一番参考になりました。 11:45

■福源寺~万正寺
  街道に戻った先、左に薬師堂があり、境内に三義民の記念碑が立っています。  やがて●桑折町に入ります。 雪交じりの雨が降ってきました。 全く季節外れで笠しか持っていない。 傘を差して歩きます。 桑折町に入ると街道右手にキッコーゲン醤油という工場、左手に曙ブレーキや吉川紙業等の工場が続いている。  
 産ヶ沢橋を渡ると、左手に●寛延義民顕彰碑がある。 これが福源寺の案内板にあった記念碑になります。
この先左へ入った所に●伊達氏の始祖伊達朝宗の墓所がある。 説明板  伊達朝宗(だてともむね)は常陸国伊佐荘(茨城県下館市)を領地としていたが、源頼朝の奥州攻めに従い、戦功により伊達の地を賜わり伊達の姓に改め、伊達氏の初代となりました。
 手前の五輪の石塔は江戸時代にに伊達家が建立したものだが、●墓そのものは背後にある小さな丸石で何の飾りもないものです。  すぐ先は桑折宿(こおりしゅく)です。   12:55

29 桑折宿
 福島宿から1里(3.9km)。 近世以前に見阿見の成田地区にあった集落を移して慶長年間(1596~)には作られたと云われる。 貞享4年(1687)には桑折に代官が置かれた。宿は近くに半田銀山があり、奥州街道と羽州街道が分岐し、阿武隈川の舟運の桑折河岸もあって賑わった。

★桑折宿
  朝宗の墓所から街道に戻ると、右に左に曲がって枡形の様な感じで進み、右手奥に「諏訪神社」があります。御柱を備えていたのは地方の諏訪神社にしては珍しいと思った。 
 道はその先、●直角に右に曲がります。その左角に●桑折寺がある。寺の山門は西山城門の一つをを移したもので、向唐門という形式のもの。 福島県の重要文化財。 西山城は伊達氏の居城で、城跡は町の北西にあります。 ●宿内を進みます。 特に特徴もなく、人出が見当たらず、時折車が通るだけの静かな町でした。 真っ直ぐ東へ進むと、右手に桑折陣屋跡に建つ●旧伊達郡役所が現れます。 明治時代に洋館を模して、大工が建てたという建物で、姿が良い。 正面が北向きだったり、県令三島通庸が設計に参加したりで色々エピソードがあるという。 13:20

 ■本町~
 街道は郡役所の前で直角に左に曲がる。左折してすぐ右手の空き地の前に「桑折宿本陣跡」の木標があるので●この空き地が本陣跡●本町に入ります。 ここあたりが宿の中心でしょう。 蔵造りや旧家らしい家がチラチラと見られます。
 右手に●大安寺がある。 浄土宗によく見られる「竜宮門」で、境内には大安寺開基の桑折本陣初代・佐藤新右衛門家忠や文化人、代官などの墓があり、また何故か「聖徳太子碑」などというものもあります。 ここでは太子は大工の神様になっている。  由来記         案内板の裏に●万葉歌人の安藤野雁の墓と共に太子碑もありました。    13:25

   ~追分
 左手に●蔵造りの家があった。 ●法円寺境内に●「桑折町指定文化財 史跡 芭蕉の田植塚」があります。桑折本陣4代目の佐藤馬耳が芭蕉の・・・「風流の初めや奥の田植え歌」・・・という句を書いた短冊を埋めて句碑としたもので、享保4年(1719)の建立。 左手に無能寺があり、門前に大きな「明治天皇桑折御小休所」碑が立っていました。 無能寺の先は二手に分かれ、左へ行くと「桑折駅」へ出、街道は右へ進み、 すぐまた二手に分かれ、 正面に●桑折追分があります。 奥州街道と羽州街道の追分となっていて、羽州街道は左へ、奥州街道は右へ進みます。 説明板   地図を見ると羽州街道は東北線や東北自動車などにより寸断され、半田銀山を通った先で合流する、県道46号が羽州街道の様です。   13:50

■追分~藤田駅
 追分けから数分の所に●「奥州街道谷地一里塚跡」の木標があるので、ここが一里塚跡。 地図を見ると、東北自動車道を越えた先に、半田銀山跡とか、抗口跡とかの表示があるので、一帯が半田銀山があったのでしょう。 佐渡の相川、但馬の生野とともに三大銀山に数えられ最盛期に8万人もいたというから現在では想像もつきません。 銀の外に錫や鉛も産出し、「はんだ付け」の名前の由来にもなったという。 その後、雪が本降りになったり、足が痛くなったりで、貝田の手前「藤田」で止めにすることにして、ひたすら歩きました。●県道46号の交差点が「藤田宿」の入口で、真っ直ぐ進むようになります。 ここを左へ折れ、●JR藤田駅へ向かいました。14:40終了

 004 二本松~福島へ 006 藤田-白石