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30 藤田宿 桑折宿から1里9丁(4.9km) 国見宿とも云われ、宿の長さ、5町余。 代官所がなく気楽な宿場だったといわれる。近隣の村人が旅籠屋揚屋に入り込み、農作業や半田銀山の労働者が居続けて、代金を払えない人が続出したとかいいます。 旅籠14 揚屋18(嘉永5 1852)。 |
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2019年6月12日 ■藤田駅~藤田北 画像をクリックすると拡大します JR東北線「藤田駅」に9時12分到着。前回貝田駅まで行く予定のところ、大雪になってしまい、藤田で終わりました。今日は曇りでちょうどいいです。 ●前回終了した交差点にやってきました。 正面に「山田整骨院」というのがありますが、その右手が街道です。 道なりに左に大きく曲がると、●藤田宿に入ります。 国見町の中心地ですが、宿場の雰囲気は感じられず、ごく普通の町並です。 少し先左手、左側が洋風で右側が和風となっている一風変わった建物が目に付きます。大正10年に建築されたという●奥山家住宅で、国登録有形文化財。 和洋両方の接客空間を備えた近代建築といいます。 詳しくは 国見町観光案内 にて 9:45 |
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■藤田北~硯石山 道なりに右に曲がると左手高台に●●鹿島神社・医薬神社があります。 但し医の文字は旧字で表示が困難。 社殿にはそれぞれの賽銭箱、扁額、注連縄と鈴などが架かっています。鹿島神社は奈良時代、鎮守将軍大野東人が蝦夷平定のおり、 常陸国より鹿島明神を勧請したのが最初。 医薬神社は空海が当地の眼病被害を救うため、霊石に薬師如来をを刻んで現在地に祀ったものといわれる。明治時代に合祀されている その先、右手から国道が近づいてきて、●上野台運動公園のあるあたりから上がり坂になってきます。 これが貝田駅先まで延々と続いて、いささかうんざりします。 左手に「←弁慶の硯石」という案内表示があるので、それに従い左に曲がると、左手はこんもりとした硯石山。 山頂に訳なく到着すると●「弁慶の硯石」がありました。 真ん中がくぼんで水まで溜まっているので、いらいかにもそれらしい。 案内板 10:08 |
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■硯石山~笠松 硯石山の正面は●厚樫山。 昔は阿津賀志山と書かれ、奥州合戦の行われた場所にあたります。国の史跡が残り、これから見に行くことになります。 国道4号に下り、「県北中」の先、●「あつかし歴史館」の標柱が立つ所を右手に入るのが旧道。 先に進むと左手に国道4号のガードがあるので、一時街道を離れて、ガードをくぐって、国見神社に向います。 道の右手、石段を上ると大きな鳥居があり、その先に一つ鳥居をくぐると、●国見神社があります。石母田の村社で祭神は大国主命。 真ん中の鳥居の所の道を右に少し進むと●義経腰掛松があります。 案内板 源義経が藤原秀衡を頼って平泉に下向したとき小松の枝に腰かけて休息をとったという伝説が名前の由来といいます。 初代、二代の松は枯れてしまい現在は三代目。 初代の幹が小屋の中に保存されていました。 10:30 |
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★阿津賀志山防塁跡 さて これから阿津賀志山防塁跡を見に行きたいわけですが、 事前にグーグルアースで調べた範囲では、国道4号左手に「阿津賀志山防塁」という大きな看板が設置されているのがわかっていて、国道から向かうのがわかりやすいと思って、国道に戻りました。 案内看板の脇から上に上がると●阿津賀志山防塁跡が広がります。 、 案内看板 文治5年(1189)奥州藤原軍と頼朝軍のいわゆる奥州合戦の火ぶたはここから開かれた。 奥州方はここから南側の阿武隈川にかけて、長さ3.2kmにも及ぶ長大な防塁が築いていた。 ・・・・というわけだこれだけが、これだけだと全貌がわかりにくいのだけど、 国見町のHPにある 「阿津賀志山防塁とその周辺お遺跡」 というPDFが大変わかりやすく それによると国道のあたりは防塁の始点にあたり、ここから国道を横断して、下二重堀地区という所まで続いていたことがわかります。 この長大な防塁にもかかわらず頼朝軍は簡単に突破して、奥州藤原氏は滅亡へ向かうことになるわけです。 街道に戻って先に進むと、上り坂を左にカーブする地点に●「阿津賀志山防塁横断地点」の標識が立って、このあたりで防塁が横断しており、●「国指定史跡 阿津賀志山の古戦場」にあたります。 10:58 |
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■笠松~大木戸 この先●「大木戸」という地名になり、両側はりんご園。 「JA伊達みらい大木戸支店」の先を左折して、国道4号に出ました。 4号に出てみると、向こう側に 「町史跡 旧奥州道中長坂跡 これより200m」という案内看板がある。 標識に従い坂道を登って行くと、「←奥州道中国見峠長坂跡」の案内表示があるので、 左に曲がって行くと、右手に「町指定史跡 旧奥州道中国見峠長坂跡」と題する大きな案内板が掛けてあります。 これによると、奥州街道はこの国見峠を越えて北へ走っていたとあります。 してみると旧道は防塁の横断地点あたりから真っ直ぐ厚樫山へ伸びて、このあたりを越えて北へ向かっていたのではないか思います。 看板の先に●旧道の入口があるので、入って見ました。 両側樹木で幅は結構広く、趣のある草道で歩きやすい。 但し距離はわずかで、終りの地点に●奥の細道の「芭蕉翁碑」や筆塚などがある。 またこのあたり●経ケ岡といって、奥州合戦の際、藤原泰衡の郎従「佐藤基治」一族の首が晒された場所と云われます。 この先はヤブで行けそうもないので元のJAの所まで戻りました。 11:15 |
31 貝田宿 藤田宿から1里7丁(4.7km) 福島県最北の宿場にあたる。長さ4町。戸数60前後で推移。度々の大火に見舞われている。 |
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■大木戸~貝田宿 右手にサクランボ園があり、赤い実が真っ赤でちょうど食べ頃という感じ。左手に茅葺きを赤いトタンで覆った古民家があったりします。 その先で●国道4号とぶつかり、横断してその先が貝田宿。 ●「奥州街道貝田宿」の表示がある緩やかな上り坂を進みます。 宿の中程に大きな旧家があり、その前に「貝田宿の案内図」が掛けてありました。 宿の終わり頃に立つ案内板に沿って左へ少し入ると●「貝田番所跡」の案内表示がある。 さらに奥に●最禅寺があります。 旧道は最禅寺の前を右折しています。 11:55 |
32 越河宿 貝田宿から18丁(2.0km) 仙台藩領の南端にあたり、越川番所がおかれ、境目足軽が配置され、藩領を越える人や物をチェックしていた。仙台藩主の参勤交代には重臣がここまで送り迎えしたという。 |
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★越河宿 左折する手前左手、石段の上に鳥居が見え、石段下に●庚申供養碑などの石塔群があります。ここに「史跡・歌枕・伝説ルート」と題する案内地図がありました。 ●宿内に入ります。 人がいません。 左手に●明治天皇御駐蹕之碑があります。向い側の郵便局は廃止されていました。 左手に●茅葺をトタンで覆った古民家が2軒並んでいる。 右手、越河小学校を通過。 お昼時なのだがあんまり子供の声が聞こえてこない感じ。 その先で、東北本線のガード下をくぐってすぐ右折します。 左手の越河公民館に「越河地区宝物まっぷ」という案内図がありました。 12:50 |
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■越河宿~越河駅 その先、●NTTの交換機の置いてある所を左折するのが旧道なので左へ折れます。 細道を上がって行くとすぐ左手に●白鳥神社があります。 社殿前に弁当中の人がいたので、動き回るのは少々遠慮。 本殿の方は鰹木が乗り、端正な形で好ましい。 その先、●左右の田畑の間ののどかな道を進みます。 右手に墓地が続くようになり、左手に「覚永寺」というお寺がある。 覚永寺といってもお寺っぽくなく普通の民家というような感じでした。 右手前方に●越河駅が見下せます。 13:20 |
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■馬牛沼~ 600mも進むと、左手に●馬牛沼が見えてきます。 案内板、 蝦夷征伐に進んで来た「征夷大将軍坂上田村麻呂」の乗馬が沼に落ちて死んだことなどに因むものという。 明治30年頃から養鯉場となり、湖中に大きな鯉供養碑が建っています。 国道の向い側に●「明治天皇御駐蹕之碑」がありますが、 樹木の中に埋もれように立っているので、見逃し安い。 少し先、左手湖面を背に●「大正五年 師畑中勝英碑」など3基の石碑がありますが、調べたけどわからなかった。 多分沼の開発に功労のある人達でしょう。 沼の先、左手に●「奥州斎川孫太郎餅」という食堂があります。 斎川の名物で、「孫太郎虫」というヘビトンボの幼虫を乾燥させた漢方薬で、「かんの虫」の薬としてだったそうだが、その粉末を混ぜた餅のことだと思う。 ま 通過するだけだったけど。 14:11 |
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~甲冑堂 その先、●右手へ曲がっていきます。 入って行くと下り坂で、鐙摺坂(あぶみすりざか)という標柱が立っています。岩がせり出して馬1頭がやっと通れる難所で、義経が鐙を摺ながら通ったという伝説の坂だが、今は面影がない。 右手、山の斜面に●庚申塚などの石仏石塔群がある。その中に孫太郎虫供養碑というのもありました。先ほどの食堂の看板にもあった「孫太郎虫」を供養する碑でありましょう。かっては斎川宿の大きな財源だったと云われます。 先に進むと、右手に「甲冑堂 ・・・・・ の像」と書かれた大きな看板と、「奥の細道」、「田村神社」の標柱があります。 ここが●田村神社で、祭神は坂上田村麻呂。 延暦年間、田村麻呂が夷酋を討った徳を慕って建てられたという。 脇にある●甲冑堂には内部に佐藤継信・忠信兄弟の妻の木像が安置されているという。 義経を守るため壮絶な討ち死を遂げた兄弟を、嘆き悲しむ老婆を慰めるため、夫の遺した甲冑を身につけて凱旋報告をしてみせたという故事に基づくという。 明治期に消失して、昭和14年に再建されています。 その先は斎川宿に入ります。 14:25 |
33 斎川宿 越河宿から1里16丁(5.7km) 宿場の長さは3丁10間(345m)程。 中程に検断屋敷があった。 名物は「孫太虫」。 ブルーノ・タクトも、 昭和9年に斎川を訪れ、古い家並みや家屋についての記録を残しているという。 元禄5年で戸数58 |
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■甲冑堂~斎川宿 斎川大橋を渡ると斎川宿で、●「斎川宿」と書かれた案内標識があります。 町並は静かで、古い土塀など残り、趣のある風情で感じが良い。医院の看板の立つ左手に石塔群があり、●古そうな常夜燈が小川の上に渡した石板の上に立っている その先左手の長い古びた土塀と門がある所が●検断屋敷なのだが、残念ながら作業車が何台か停まり、取り壊しの最中だった。作業長らしき人が「普段立ち入り禁止なのだけど・・・・・といいいながら」中に入れてくれ、 中の屋敷をを見たが、廃墟そのもの。 ●検断屋敷の標柱だけ立っていました。 14:36 |
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■新館町~中町 旧道に戻って先に進み、大きな交差点を通過します。 その先の●田町の交差点を右折すると、その先は白石宿に入ります。 交差点角に東京道標というのが、左手先の白石中学校正門前に移転されているのを見落としました。 明治初期のころには奥州街道は東京街道と呼ばれていたらしいです。 その先はすぐ信号のある交差点に出る。ここを左折しますが、 枡形というべき所でしょうか。 曲がってすぐ右手に●当信寺があります。ここの山門は白石城の東門だったものという。 境内に●真田幸村の娘、阿梅の墓と次男の大八の墓がありました。 説明板 その先●中町交差点でこの頁は終ります 。16:35 これから市内に入っていきますが、次の頁に回し、時間があるので白石大橋脇の世羅修蔵の墓まで行くことにしました。 宿は駅前のパシフィックホテルです。 明日は30km以上あるので、白石市内の旧跡は残念ながら大半カットせざるをえません |
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005 福島-藤田 | 007 白石宿-岩沼 |