021 御堂から小鳥谷へ      歩行地図
 御堂駅-御堂御堂一里塚-馬羽松-摺糠-中山-ヨノ坂-小繋-笹目子-高屋敷-小鳥谷 21.95km 

2021年4月8日  ■御堂駅~水堀小先  画像をクリックすると拡大します
 4月に入り、東北も雪が溶け、新型コロナのまん延防止発令中ではあるけど、一人歩きだし、まあいいかと出かけた次第。新宿から高速夜行バスで発ち、6時20分頃盛岡着。 朝飯を取り、8時過ぎ、●御堂駅に到着しました。
 前回終了した●分岐地点へ来ました。右へ行くと塩の道で、岩手町と太平洋岸にある野田村の十府ヶ浦海岸を結び、 塩は牛の背に乗せて運んだといいます。奥州街道は左手、国道を進みます。 ●水堀小学校から500mほど北へ進んだ地点。尾呂部一里塚跡といわれる所だが、痕跡は何もない。 右手土手上に●地蔵と念仏供養塔。  8:35

■水堀小先~御堂
 30分程ひたすら歩くと、「北上川源流公園」看板を掲げた建物までやって来て、●旧道との分岐点です。ここは右前方へ入ります。 御堂集落センターへ架かる●木橋と下を流れるのは北上川支流の「朽木川」。左手に大層な●唐門を構えた旧家があります。
 道は●上り坂になるが、ここは、御堂から一戸町小繁まで、全長13.3kmの「新奥の細道」コースとなっていて、「御堂観音0.4K」という道標が立っています。 9:10

★御堂観音
 その先、分岐点の所に●道標「←いわてまち川の駅 御堂観音 北上川源泉弓弭の泉」、「御堂新田の滝2K→」という案内にに従い、左へ曲がります。●すぐ先の左手に、●御堂観音があります。正式名称を「天台宗 北上山新通法寺正覚院」といって、大同2年 (807)坂上田村麻呂が祈願所としたのが起源。案内板 
 石段を上がって本堂右奥に●北上川の源泉といわれる「弓弭の泉」がある。前九年の役の際、源義家が弓弭(ゆはず=弓の弦を掛ける先端の所)で岩を穿つと泉が湧き出し、兵馬の喉を潤すことが出来たという伝説に由来します。9:20

■御堂観音~御堂馬羽松一里塚
 御堂観音の向かい側一帯が、●「いわてまち川の駅 北上川源流公園」。北上川源泉にちなんで造られた公園。特に変わった設備があるわけでなく、休憩所、駐車場などがあるだけ。 ●冬期で赤茶けた樹木間を10分も進むと●御堂・馬羽松(まはまつ)一里塚跡へ来ます。 案内板 岩手町と一戸町との境に東西2対とも残っている。奥州街道は明治中期の国道工事で、西側の小繋川沿いルートに切り替えられた為、旧街道には多くの一里塚が当時の姿で残されたというので、かえって良いことでした。右側が一戸町で「馬羽松塚」といい、左側が岩手町側で「御堂塚」というようだが、別に名前を分けなくても良いように思うけど。 9:40

馬羽松一里塚~摺糠
  一里塚の先、黒羽松集落に向かって●急激に落ち込むようになる。 集落を過ぎると再び上り坂になり右手に、●広大な農地が広がります。最初牧草地かと思ったが、家畜が見当たらず、茶色の農地が広がるだけで、なにも植わっていない。一戸町のサイトを見ると、特産はレタス チーズ ハムというので、レタスなどの高原野菜の植え付け前かと思うし、牧畜もやっているのだろう思います。 下り坂の両側●摺糠集落を通過して行きます。 10:00

■摺糠~摺糠山道
 ●県道30号との交差点に出ます。左手は火の見を備えた「一戸町消防団」の建物。 交差点を左折して県道を行けば、「奥中山高原駅」へ出て、更に行けば、「奥中山高原温泉」がある。 交差点右角に「「明治天皇記念碑まで1.2K」の東北自然歩道道標が立っています。 平糖川を渡ると、●石垣に突き当たり、正面高台に神社があって、案内板が架かっていたけど、摩滅して読めないので、ここはパス。 右角の道標に従い右へ曲がります。 ちょっと進むと、「←天皇記念碑0.9km}の標識が立っているので、●左の坂道を上ります。 ●旧道らしい雰囲気を残す山道で、数分先、左手に「→明治天皇巡幸碑」の標柱が立っています。10:10

■摺糠山道~中山
 一度、右手には広大な畑が広がる●平坦な所に出ます。農機が通る轍道。 ●良く手入れされた広めの山道に入り、左手、高台に●明治9、14年の巡幸で休憩された●「明治天皇御休憩之跡碑」が立つ。 やがて●舗装路の分岐に出ました。正面に「新奥の細道」の案内看板が立つのだけど、摩滅して半分読めません。 10:35

■中山~中山一里塚
 5分程進むと●旧奥州道最高地点となり、案内標柱に「ここは旧奥州街道の最高地点484m」とあります。 ●左手が牧草地の平らな道を進むと、東屋が見えてきて、ここで少し休憩。 西側に印象的な●西岳が見えます(PeakLensというアプリで確認)
 
東屋の左前方に●「中山一里塚(西塚)」があるけど、街道から少しずれているので、天皇行幸道の改修で少し道の方がずれたみたいです。それと一里塚の所有者が一戸町在住の個人でした。 説明板  10:55

■中山一里塚~旧中山
 左手に鮮やかな朱の鳥居を持った●蒼前神社。但し石段の上の●社は小さな石造りで、馬の彫刻が守護神のように祀られている。 その先は●旧中山の十字路。 「火行まで2.3K」の地点。 左角の石段の上に●青面金剛像塔外がある。真ん中に安永4年(1775)造立の「舟形光背6臂合掌青面金剛」。右側に「地蔵菩薩立像」、左側は「~信士」の戒名のあるお墓。 11:08

■旧中山~ヨノ坂入口
 ●旧中山地区集落を通過。 人の気配がない。 2kmあまり進むと●火行(ひぎょう)伝馬所跡に来る。案内板(読みにくい 
 伝馬所というのは、宿駅の荷物の中継所のことだけど、ここは宿駅ではない。「沼宮内」の次の宿場は「一戸」で、その間6里。(別説有) 沼宮内から一戸まで難所が続く割に、距離が長いので、このあたりに「宿場」が置かれても不思議はない。宿場が置かれない代わりに、荷物の継ぎ所だけが旅人の便利の為に置かれたのでしょうか。
 街道左手に寂れた●木製鳥居の小社があり、すぐ先の●十字路で小繁に入ります。十字路の左右は「開拓農道小繁線」といって、左へ行くと「IGR小繋駅」へ通じます。 更に左へ500m程行くと、「塚平一里塚」があって、奥州街道の古道が小繋まで通じていたらしい。「塚平一里塚」は現存しているというが、見に行くの忘れた。 正面を下るのが難所といわれる「ヨノ坂」です。    11:50

★ヨノ坂と小繋一里塚
 ヨノ坂説明板  いよいよ「ヨノ坂」を下る訳だが、見たところ道も広いし、良く手入れされていて難所という感じはしない。
 水が流れ、湿地状態という事前情報で。100均の靴カバー持ってきたのだけど、●入口は乾いていて、必要ないかと思ったら、これが間違いで、すぐ先で●中央が水路の様になり、道がブカブカになって靴がめり込むようになってきた。乾燥して堅そうな所をあちこち探して右往左往するのだけど、うまく通るのはなかなか難しい。そのうち●小繋一里塚に到着する。西塚だけが残っており、 盛岡から北に12番目にあたる。ここは6人の共同所有になっている。ここで靴カバー付けて進んだ。入口から30分 12:20

■一里塚~小繋集落
 一里塚でしばしの休憩後、ヨノ坂を出ると乾燥した、轍の残る農道に出て、小繋の集落に出ます。左手に御番所の看板が立つ所が●「小繋御番所跡」で、説明板 小繋は巡見使が利用した巡見道の分岐点に位置し、交通の要所だった為、盛岡以北で初めての御番所が置かれた。 小繋は「無明舎版 奥州街道全ガイド」では宿場に入れていないが、宿場に数える説もある(新修五街道細見では小繋が宿駅で沼宮内から4里34丁、泊まり宿なし。小繋から一戸まで3里10丁) 沼宮内~一戸間が長すぎるので、小繋を宿場とか間宿に数えた方が妥当かなとは思いますが、細見では(泊まり宿なし・・)とあるので、宿のない宿場って成立するのか疑問だけど・・。
 ●突き当りの丁字路を右折、●小繋川が流れ、橋の向こう側、左手に自然石に日・月を刻んだした●「庚申塚」が祀られています。  12:55

■小繋~笹目子トンネル
 左手奥にある●地蔵堂は「天台宗長楽寺」という寺の跡で、征夷大将軍坂上田村麻呂が、大同2年(807)東夷鎮撫祈願で当地に地蔵堂を建立したのが起源という由緒を持つ。南部藩主の篤い崇敬を受け、江戸勤番の往路では本陣となったという。大正4年の小繁の大火で寺は全焼し、今では地蔵堂を残すのみ。 ・・幕府巡見使の使用する「巡見道」は長楽寺の脇から北に進み、IGR線、国道4号を超えた先で、山道に入り、上女鹿沢一里塚等を経て、尾根道を進み、女鹿口で奥州街道に合流します。・・ 街道はIGR線路を越え、●国道4号を右折、このあたりは難所で、川沿いは岩壁が迫って通れず、屈折と上がり下がりを繰り返す険しい山道だったといわれます。左手に●一部旧道が残るというので、入って見ますが、すぐ国道に合流します。 前方に●全長600mの「笹目子トンネル」。旧道はトンネルの右手に入り、川沿いに進み、トンネルの上方に出るのだけど、廃道になって、通行不能だというのでトンネルを通ります。  13:40 

■笹目子トンネル~川底一里塚
 ●トンネルの中。 歩道も付いて別に危険ではない。ただトラックのエンジン、タイヤなどの反響音がものすごく、かなりの恐怖感がありました。 トンネルを出てすぐ右手へ曲がり、●入口脇に「←奥州街道 川底一里塚」の案内板が立っている。 案内に従い、山道へ入ります。 右手の●細い急斜面の方を上って行くと、「←この先通行止め、→川底一里塚」の標識が立って、左へ行く道はトンネル手前の右手から上がって来る旧道に通じているようだが、通行止め。 ●右へ曲がる道をしばらく進むと、右側の視界が開けてきます 14:00

■川底一里塚~高屋敷
 ●川底一里塚に出ました。説明板 盛岡から北に13番目。両塚が残っている。 ここも個人の所有。ここから高屋敷まで700m。途中右手に●庚申塚(二十三夜)が置かれ、やがて●舗装路に合流します。  14:15

★高屋敷集落
 舗装路を上がると「高屋敷」の集落に出ます。 説明板 集落に入って、すぐ左手に●上の井戸というのが左段上にある。 高屋敷は北流する平糖川を見下ろす高台に位置するため、水の確保に苦労してきたらしく、地区に6本もの共同井戸があったといいます。現在3ヵ所が復元され、その一つ。 その先●中の井戸。●下の井戸があります。 又ここには馬を利用した運搬の中継施設である「馬継所」が置かれていたり、幕府の巡見道に通じていたりして、結構交通の要衝でした。 14:25

■高屋敷~小鳥谷八幡
 集落を抜けると又山道へ入ります。 やがて左手後方から坂道が下りてきて、●合流してきます。「五月舘の追分」というようだが、 振り返って撮っているので、左手が歩いて来た奥州街道。奥が盛岡方面。右手が山道。 山道の方に●五月舘の追分石というのが置かれている。手前から盛岡方面に向かう旅人が、街道と山道を間違えないよう建立されて、「右ハ山道 左ハもり岡」と刻まれている  その先は下り坂で●国道4号の下をくぐります。 くぐると右手高台に●「小鳥谷八幡神社」鎮座している。創建などは不明で小鳥谷の鎮守でしょう。 15:00

■小鳥谷内~
 ●小鳥谷集落に入ります。道は真っ直ぐ続いている。左手の立派な屋敷は●「明治天皇御小休所跡」が標柱の立つ、旧庄屋宅だそうだ。 この後は一戸までは遠くて行かれないので「小鳥谷」で終わる予定で、小鳥谷小学校の北側にある●藤島のフジ」を見に行きました。 説明板 ここは古くから仁昌寺の境内に相当し、天正19年(1591)九戸政実の乱で、豊臣方・蒲生氏郷軍が姉帯城(一戸町姉帯字館)攻略の際の陣跡とされています。名前は往時三方に堀が巡らされフジが島に見えたことに由来するという。五月頃には鮮やかなフジ色になるのだろうけど、季節が早く、味も素っ気もない感じ。   15:10

   ~小鳥谷駅
 フジの右隣一帯が●「観音堂」。ここも「仁昌寺の境内跡」に含まれる。両部鳥居があるのだけど、神社ではなくお寺跡。
 ●小鳥谷の真っ直ぐな道をしばらく進んで、●小鳥谷駅に到着。 銀河鉄道で二戸に向かい、「パークホテル」に泊まりました。ここまで、一戸町の奥州街道は国道4号が奥州街道と別ルートに設置された為、旧街道や一里塚が比較的多く残り、平成22年に国の史跡に指定されている・・ということで、大変気分良く歩けました。 15:30終了

 020 好摩-御堂 022 小鳥谷-金田一