022 小鳥谷から金田一      歩行地図
 小鳥谷駅-女鹿口-白子坂-諏訪野-一戸本町-浪打峠-在府小路-二戸町福岡町-長嶺-金田一 20.32km

2021年4月9日
■小鳥谷駅~野中
 昨夜は二戸泊まり。異常気象か、夜中雪が降って二戸積雪3㎝。春雪なので舗装路は消えたけど、山道が心配ですね。二戸から銀河鉄道へ小鳥谷へ戻り、●前回終了地点へ9時過ぎに戻りました。こちらも昨夜の雪がちらほら残っています。 真っ直ぐ北上し、左手に●野中の一里塚跡。塚は残っていない。塚跡に馬頭観世音が祀られている。 ここで雪が少し降ってきて、そのまま北上。●国道4号前は工事中で通行止めなので、左手へ迂回します。大雪気味になってきました。 9:20

■野中~小性堂
 「小鳥谷サンブルグ」というまで来ると、強風、横殴りの雪となって、たまらずカメラにタオル巻いたり、傘さしたりで、軒先に少し避難しました。 その先、●右へ曲がりながら坂を上がります。正面に●御小性神社の鳥居があって、本殿は右奥にあるようだが、雪も降るし、参道がぐちゃぐちゃなので、行く気が起きなかった。 左に曲がると、●桜の大木の根元に壊れた石碑がいくつか置かれている。 9:36

■小性堂~
  ●小性堂集落を抜けると、●日影坂の上りになります。雪もやんできて、舗装路も乾き初めてほっとしました。 ただその先、●山道に入り、ちょっとぬかるんでやな感じ。 左手に●明治天皇御野立所之碑があって、御茶を楽しまれた所になります。9:45

    ~女鹿口
 ●砂利道も雪が残る下り坂になって、滑らないように注意を払いながら下り、左手に●雷電神社があります。道が細いもので、広角レンズでも遠目が撮れず、この写真が精一杯。 隣に「小野寺三太郎碑」というのが建っていた。明治43年に就任した、旧小鳥谷村の村長だそうだ。 その先で●急激に坂を下ると、ここも雪がうっすらと残り、下るのに注意を要した。 下ると、●女鹿川に沿ったT字路にあたる。 正面に奥州街道の案内標識があり、ここは左へ曲がります。 9:57

■女鹿口~老ケ舘
 日が当たるせいか、道も乾いて快適になりました。 ●女鹿川に架かる「女鹿橋」を渡ると、地名は小鳥谷から西法寺に変わる。 女鹿橋を渡り、少し進むと●右側の山道が旧道です。 標識には「ここは荷坂(にさか)、 直進 老ヶ舘、天保7年百姓一揆集結地」と書かれてある。 ●荷坂を登ります。 やがて●老ケ舘分岐に出会い、標識に「ここは老ケ舘」、「↗北西へ0.3K天保七年百姓一揆終結地 ↗北西へ1K関屋大日堂」とあるので、右に曲がって百姓一揆方面へ向かいます。 10:06

■老ケ舘~白子坂入口
 ●白子坂を下ります。 日影になっていて、雪が溶けてないので滑らないように注意してゆっくりと下る。 老ヶ舘から北側の坂道は、白子坂・・「山土尽く白灰なり」と、 寛政11年(1799)、幕府奥詰医師渋江長伯が、 蝦夷探索に赴く旅路に記した「東遊奇勝」の中でも記されている。 道の両側に露出した白土の様子から、白子坂と呼ばれるようになった・・というのは、下り終わった先の説明板でわかったこと。 白子坂を下って行くと、前方が開け、平らな広場になっている所が、●天保7年(1836)の「百姓一揆結集の地」であり、●「百姓一揆結集の地碑」が立っています。説明板。  広場を下ると●白子坂入口で、奥州街道の標識と「白子坂説明板」が設置されています。  10:18

■白子坂~碧橋
 ●IGRいわて銀河鉄道ガードを潜り、●県道274号を左折して馬淵川沿いを進みます。右手の●一戸南小学校校舎が斬新でめずらしく、調べたら、平成16年3月落成で、有名な「安藤忠雄氏設計」だそうだ。 碧橋辺りから●馬淵川が大きく蛇行して、ダイナミックな流れを見せています。 10:30

■碧橋~一戸駅
 碧橋先で右へ曲がり●諏訪野集落へ入るのが旧道。家数は増えたが、道の拡幅は行われなかったので、旧道らしい雰囲気を残します。 中程に盛岡から北へ14番目の●「諏訪野一里塚跡」。看板だけで痕跡は何もない。 その先●一戸駅前あたりで、県道に合流します。 左手に●一戸駅。 「縄文の里」という副題が付いていて、「御所野遺跡」という、日本でも重要な縄文時代の大規模な集落跡が発見され、 国の史跡に指定されている。馬淵川右岸の段丘に存在し、公園として整備されている。 10:46 

■一戸駅~八坂神社
   駅前を通過して、●野田通りを進みます。結構古いというか、趣のある商店が残ります。 盛岡銀行の前あたり、旧奥州街道の立看板が立つ所を左へ入ります。以前鳥居が立っていたようだが、取り払われてしまっている。 上り坂となっている旧道を進むと、野田地域活性会が設置した「旧奥州街道の案内板」があるのだけど、これが摩滅しているせいもあり、良く読めない。線路の向こう側から来る旧道が2本書かれているが、なにかわからず。 左手石段の上に●●八坂神社が鎮座。元亀2年(1571)疫病流行の時、これを鎮めるため牛頭天王を祀ったのがはじまりという。境内にケヤキの木が多く、その内の一番背の高い木が町の天然記念物。10:58

■八坂神社~萬代橋
 八坂神社から旧坂を下って、●T字路を右折 標識もある 地図を睨んで思ったのは、先ほどの案内図では線路の向こう側から来る旧道もあるが、ひょっとしたら、一戸駅にぶつかった旧道はそのまま駅を越え、右旋回してこのT字路の左へ出てくるのかもしれません。 枡形跡のような角を左に右に抜け、● 突き当たりの馬淵川に「十和田山大権現などの石塔群にぶつかります。往時はここで真っ直ぐ渡河し宿場に入りました。 現在は 右折して、●万代橋を渡る。後方の岡は「一戸城址」です 正面に明治42年、人形芝居小屋として創業し、昭和31年に現代の建物になった●映画館の「萬代館」(国登録文化財)があります。   11:06

69 一戸宿
 沼宮内から6~8里8丁(23.5~32km)各説有。南部行朝の領地で野田城を築く。その後、子の義実が建長年間(1249 ~ 1256)に一戸城を築いて本拠とした。商業の町として発展し,馬産地としても有名。

★一戸宿
 萬代橋を渡り、左へ曲がると●一戸本町で、一戸宿の中心部になります。ここで又雪が降ってきて、風も強くなり、傘をさすと回りが見えずらい。 一戸は南部氏の城下町で、南部藩の一戸代官所が設置され、 宿場として検断制がしかれたり、三斎市が開かれたりで、商業活動がさかんだったようだ。 古い商屋建築が点在して、その面影が残っている。 左手に●醤油醸造会社の久慈本店。その先にも名前はわからないが、●大形の商屋建築が一軒。 中程の「実相寺のイチョウ」看板で右折し、その先は旧街道の宿場らしい堀割が残されている道というのだけど、雪が横なぐりで回りを見る余裕なぞなく、正面の●実相寺に着いた。天然記念物の「イチョウ」で有名だが、雪で入る気がしない。 山門左側に石塔が二基。左は文政10年(1827)の庚申塔。 右側は、「不許五辛酥肉?入門」と刻まれてあった。ニンニクの類を食べた者は入れずだと・・ ここで雪がやんでカンカン照りになる。なんて天気だ!  11:15

■一戸下町~小井田川橋
 実相寺を左に曲がると、ゆるい登り坂で、一戸宿出口の枡形となっている所。 左に「一戸高校が」あり、●国道4号線の下を潜り、 さらに八戸自動車道のガードを潜る。 出口で左に曲がり、再度同じ高速のガードを潜り返します。 県道5号の交差点に出て、右側に●「小井田の千本桂」というのが立っています。樹齢700年、22本の株で1本に見立てている。夏には繁茂して見栄がいいのだろうけど、今は葉っぱの一枚もなく、枯れた感じがする。 「奥州街道 末の松山のみち」という案内板に沿って、国道に沿った道を行くと、前方に●小井田川橋。親柱には末の松山に因む和歌が4面 ・・「いつしかとわが松山に今はこて こゆなる波尓ぬるゝ袖か奈」・・など。中々しゃれている。 この橋を渡り、旧道は●前方右側の砂利道へ。 いよいよ浪打峠です。
 11:40

■小井田川橋~浪打峠一里塚
 ●道は砂利道ながら落ち葉が積もる快適な林間道で、クマがでないように熊ベルを鳴らしながら進む。 ●八戸自動車道の上に掛かっている「大越田橋」を渡る。 ●轍道が続くのだが、普通車が通れるのか、トラクターの類なのかよくわからない。 ●細い切り通し道になってきたけど、改修で大部切り落としているよう。  11:55

★浪打峠一里塚
 「浪打峠一里塚」に着いた。頂上の少し手前に存在。●西塚、●街道部分、●東塚 左右一対が残っている。角度をゆるくするために、周りより切り下げられて、 両側の一里塚が見上げるようになっているので、上手くパノラマ化できなかった。 説明板
 ここも個人所有で道の両側は私有地のようだ 12:00

■一里塚から山下水
 5分も行くと●浪打峠頂上に着く。 写真の真ん中が街道で、両側の堆積層が「浪打峠の交叉層」といって、国の天然記念物
説明板 海水の中で軽石、砂、ホタテ貝のカケラ等が堆積し、水中の流れで交差し、それが陸上に現れてきたもの。約1500万年前の地層という。 峠で明治天皇が休憩されたようで、●「明治天皇御野立之碑」、「北白川宮能久親王御休憩之碑」と東屋もあるのでしばし休憩。 その後、真ん中のへこんだ街道を抜けると、二戸市に入ります。 雪の残る轍道を下っていく。 車の通れる道だが、ここまで一人の人も、一台の車も見ない。 左側に●「名水・山下水」というのがある。明治9年に明治天皇が東北巡幸の折り、浪打峠で行なわれた野立てに この山下水が用いられ、大変喜ばれたことから、この山下水は御膳水とも呼ばれるようになった。「山下水」と彫られた記念石碑に、天皇が詠まれた和歌も刻まれている。 ●湧水口から未だ水が滴っているが、大部埋もれてしまっている。 12:25

■山下水~桜清水
 山下水の先で●車道に合流。 右手に「クリーンセンター」がある。 車道に出て、●振り返って見ると、写真の左が今通って来た街道、正面の黒い半円が「末の松山トンネル」出入口。 車道を下って行きます。結構長い。 右手に●桜清水地蔵尊が見えてくる。天保4年(1833)、日向国臼杵郡岩戸村(現宮崎県臼杵郡高千穂町)の新作と言う人が、 旅行者の安全を祈願して建立したもの。 道の左側には●桜清水という湧水が出ている。 当時から旅人の喉を潤してきた水で、 古書にも「三伏の間旅客渇き凌ぐ也」と記されているとか。三伏とは、夏の間の3回の庚の日を指し、要は夏の暑い時期、喉の渇きをいやしてきたという意味だろう。 ●湧水口からは幾らか水が湧き出しており、飲めそうな感じがします。 12:40 

■桜清水~久府坂
 清水の先で●左手の細い山道に入ります。 ●村松集落を通過、右手に「馬頭観世音」。慶應元年(1865)と刻まれてある左の消防小屋の後方に、●村松八幡宮、参道口左手に井戸もありました。社殿は高台奥にあるので、遠慮させていただく。
 村松の集落を抜けると、馬作目、在府小路となり、右手一帯は九戸城跡が広がる。 在府小路は九戸城の家臣達が住んでいた所。やがて●久府(くふ)坂入口へ来ました。 右手へ入って行くと、九戸城、松ノ丸地区になり、大作神社、九戸政実神社、呑香稲荷神社が鎮座しているのだが、後で訪れるので、このまま急坂を下ります。 13:00

■久府坂~二戸五日町
  坂を下ると●T字路となり、 浄法寺街道との追分にあたる。左側に●「右 浄法寺 左 一戸道」と刻む「追分道標」(左の小さい方)、案内標柱、「末の松山浪打峠従是三丁」と刻む道標があります。 ここを右折すると、●福岡宿に入ります。現在の地名は二戸市福岡五日町で、二戸市は元の二戸郡福岡町と近隣の4村、 昭和57年に金田一村と合併し市となった。宿場は旧福岡町に存在したので「福岡宿」と呼ばれる。 左手に●田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)ゆかりの家がある。説明板 田中舘愛橘は日本物理学の創始者で、 日本式ローマ字の創始者という。  13:10

70 福岡宿(二戸
 一戸宿から2里30丁(11.21km)。二戸市の中心部、福岡町に置かれたので「福岡宿」と称する。天正19年(1591)の九戸の乱の後、九戸城は蒲生氏郷が修築し、 三戸の南部信直の居城として払い下げられ、 地名「福岡」に改めた。以後城下町を形成し、高札場 検断 代官所が設けられ、一戸宿と共に郡内二大宿場町として栄え

★呑香稲荷神社
 街道右手に●呑香(とんこう)稲荷神社の鳥居が立つ。社殿は石段の上に鎮座。参道左の茅葺きの建物は●「規蔭舎」(会輔社学舎)と呼ばれる、和漢学を学ぶことを目的とした講学所跡。説明板  石段を上がると●本殿がある。「とんこう」とはアイヌ語で「かがやける丘」を意味するそうで、九戸城の松ノ丸跡に位置し、代々南部藩主に厚く信仰されてきた。境内に九戸の乱で滅ぼされて、「九戸政実」の霊を祀る「九戸政実神社」、相馬大作事件で知られる。相馬大作を祀る●「大作神社」がある。 13:15

★九戸城址 
  街道に戻って、更に進み、「九戸城跡→」と書かれた案内標識に従い、九戸城に向かいます。 ここで雪がまたチラチラと降ってくる。 左手一帯が●九戸城址で、崖の上に本丸跡が存在する 案内図 広すぎて一口で説明するのが難しい。 九戸政実の乱後、南部信直が三戸城(三戸郡)から移り、福岡城と改め南部宗家の本城とした。 寛永13年(1636)、廃城・破却となっている。 ●本丸跡へやって来たが、ここで本降りの雪となり、横なぐりに吹き付け、ほうほうの体で退却しました。おかげで堀跡、「土井晩翠歌碑」、田中館愛橘博士の漢詩など旧蹟ほとんど見れず仕舞い。尚福岡城と改まったのに、九戸城の名前が残っているのは、領民が九戸氏への思いから九戸城と呼び続けたということらしい。 13:45

■九戸城址~岩谷橋
 街道へ戻ると、雪が止み、快晴となった。ほんと変な天気だ。●岩谷橋の手前で左折。 曲がる理由は九戸城三の丸の一角が張り出している為といわれます。 曲がった先の坂は●「馬助坂」という。人が馬を助けながら上がり下がりしたという急坂です。
 尚「岩手県歴史の道調査報告書」地図ではこのあたりに一里塚の印を記す。あったとすると浪打峠から次の一里塚にあたります。
 白鳥川に架かる●岩谷橋の下をくぐる。往時の岩谷橋は手前の短い橋で板橋だったという。街道は板橋を渡って、現在の岩谷橋の右側へ上がっていったようです。 右手、岩壁の洞窟まで橋が架かり、●岩谷観音堂がある説明板 十一面観音像、阿弥陀如来の2体を納める。ご開帳は100年に一度だという。 現在は橋が老朽化して参拝できない。 14:02

■福岡宿中心部~
 岩谷橋は架け替え工事中で、付近を自由に通れない。 岩谷橋下をくぐり県道274号に上り返したいが、通行止めで上がれないので、迂回して、県道24号から岩谷橋交差点へ戻る。●追分石があるのだが、案内板共工事で倒されている。本来は「右もり岡 左白とり」と刻む「追分石が立っている場所です。 ●県道274を北上して行きます。福岡宿の中心部旧福岡町です。交差点からすぐ右奥が●福岡代官所跡。左手の「ホテル村井」が●明治天皇の行幸小休憩所跡で、「明治天皇御駐輦碑」が立つ。 14:26

 ホテルの向かいに●明治35年創業の蔵元「(株)南部美人」、同名の「南部美人」という酒を造っている。門前に「愛宕の清水」という湧水が流れているが、飲んではみなかった。 その隣の「福新ストアー」横に●一里番所跡と御高札場跡碑。 一里番所とは現代の郵便局の役目をしていたもので、公文書は宿駅の一里番所へ送り、次宿駅まで遁送していたが、これを駅伝、一里状と称したという。又高札場もあった。 その先右手に●「阿部繁高商店」。昭和初期の商屋建築。 あべはんグループという鶏肉販売業の会社。会社は後方に広がっている。 その先右手に、蔵を備えた重厚な建築の●「黒沢治助商店」。大正の建築で国登録文化財。切妻造瓦葺の町屋で、治助氏一代で豪商となり、山林経営やそれに関連する木材商を営んだ。  14:35

   ~水晶川
 街道の西側には●龍岩寺があります。元々岩谷観音堂の近くにあったが、天保6年(1835)に洪水で流失し、南部信直公の葬礼場の隣地である現在地に移された。 境内に、南部家中興の祖と称された26代、●南部信直公葬礼場の碑と、相馬大作事件で知られる●南部藩士「下斗米秀之進(相馬大作)墓、隣に秀之進と行を共にし、小塚原刑場で刑死した門弟●「関良助墓」がある。
 街道に戻って北進。「ロイヤルパレス」あたり、水晶川(暗渠)の付近が●福岡宿出口と云われます。 15:10

■水晶川~斗米橋
 右側に「歴史民族資料館」があるが、時間が無いので入らず。 道がゆるく右へ曲がる先、右手奥に●竹内神社がある。仁徳天皇の時代の創建と伝わり、蝦夷を鎮圧するため「武内宿彌」を祀るという。 その先に、●八戸街道との追分石がある。「八戸道 三戸道」と刻まれている。安永元年(1772)の建立。注意看板がじゃまだが仕方がない。 旧道は左への「斗米橋」に通じる交差点の●左斜めへ向かい、馬淵川を長瀬橋で渡っていたそうです。 現在は消滅しているので、●「斗米橋」を渡り、迂回して金田一へ向かいます。橋は工事中で人だけ通れました。 ここでページが長くなるので 次ページへ回します。
 15:35  ●金田一-三戸へ

 021御堂-小鳥谷 023金田一-三戸