024 三戸宿から五戸宿へ歩行地図
 三戸駅-川守田-利康霊田屋-高山峠入口-高山展望台-水無清水-浅水-鳥内沢-ひよだり坂-五戸町

 2021年5月24日
■三戸駅~馬暦神社        画像をクリックすると拡大します。
 今回は三戸からだけど、東京から早朝に来るには夜行バスしか方法はない。夜行バスで盛岡へ。新幹線「はやぶさ93号」で八戸が7時25分。「青い森鉄道」で三戸8時16分到着。という具合。
 早速●三戸駅から馬渕川に架かる住谷橋を渡り、 再び●川守田交差点に戻り、旧奥州街道を北上します。 左手に●馬暦(ばれき)神社がある。馬を祀る珍しい神社で、享保10年(1725) 8代将軍吉宗がオランダ人から献上されたアラブ馬を、南部藩に下付した。南部藩で改良が上手くいかないまま、亡くなったので神社を建立して祀ったという。 傍らに●唐馬の碑があって、「奉新造馬頭観世音」と刻まれている。説明板 唐馬の碑の隣には「紅梅号」という馬の石碑も建つ。1917年にこの地で死んだ軍用馬の顕彰碑という。 8:50

 ■馬暦神社~馬場館跡
 更に北上、馬淵川が街道に●最も寄ってくる地点で、南部氏の発祥地、南部町に入ります。すぐ左に●標柱「地獄沢上橋跡碑」がある。 江戸時代、南部町と三戸町の境辺りに処刑場があったとされるので、その記念碑でしょう。 その先民家脇に、●駅名標の様な●「待合処 馬場の郷 三戸町ー古町」という看板が立っていたけど、どういう意味合いなのかよくわからず。 T字路を右折するが、左の民家前に●標柱「馬場館跡碑」が立つ。向かいに「庚申・廿三夜塔」がある。 馬場地区は、馬淵川と猿辺川に挟まれた天然の要害で、 中世南部氏の馬場館があったという。 痕跡などは何もわからない。  9:08

■馬場館跡~若宮八幡宮
 T路路を右折して「古町」に入ると●道は急激な下り坂になって、県道にぶつかった正面に●天明4年(1784)の 天明飢饉の念仏供養塔が立ちます。この地方は本当に飢餓供養塔が多い。 又 この付近が江戸時代「本三戸」と呼ばれた古町の制札場だったそうです。 県道を右折してすぐ猿辺川に架かる小向橋を渡ると、左手に●奥州街道碑、「南部霊屋700m→」という標柱が立っているので、ここを左折する。進んで行くと左手に、●「若宮八幡宮」の鳥居が立っています。"本殿 "は奥に有り、南部二代藩主實光公により城内守護、 藩中安全の祈祷所として創建されたと伝えられ、聖寿寺館(本三戸城)跡の南側に建っている。 9:20

■若宮八幡宮~南部利康霊屋
 ゆるい坂を上がると突き当たりになり、●T字路になっている。 右へ行くと奥州街道、左へ行くと一帯に●聖寿寺館跡が広がります。 現在、聖寿寺館跡の発掘調査が行われています。 聖寿寺館は南部氏本宗家の室町時代から戦国時代にかけての本拠地にあたるが、天文8年(1539)に家中の内紛によって焼亡したとされ、創建期の記録がほとんどが残っていない。詳細は南部町HPにて
 北側に回ると●「重要文化財 南部利康霊屋」が納まる建物が建っています。 案内板 霊屋自体は方2間(3.6m)の大きさで、単層入母屋造り、杮葺の小建築物。 見学には電話予約が必要で、内部の撮影も禁止なので、面倒なので建物の外観だけですませた。
 9:30

★南部利康霊屋回り
 その右隣が●三光寺。 創建は建長6年(1254)南部家2代実光が三光国師を招き開山したのが始まりと伝えられている。南部氏の菩提寺であり、往時は菩提寺として聖寿寺、三光寺(当時三光庵)が隣接していたが、 聖寿寺が盛岡に移り、三光寺が菩提寺として残った。 境内には利康霊屋の外、南部26代信直夫妻の墓所、南部27代利直の霊屋、● 南部2代実光の墓所等が残されている。 只墓所を守るためか、境内に「立入禁止」の札がが貼られ、一般人は立ち入れない様です。 寺東側に●「聖寿寺館案内所」がオープンしており、南部氏の歴史を解説したパネルや、聖寿寺館跡から発掘された当時の食器や茶器、武具、食べ物などが展示されており、無料。ちょっと見学しておいた。旧道に復帰して、●果樹園の脇を左折します。 9:45

■利康霊屋~北沢2号橋
 暫く進むと●正寿寺の集落に入ります。聖寿寺館のある地名が 正寿寺で少しややこしい。 ●集落の奥から草道になるが、右手石垣の上に「奥州街道」の標識がある。 しばらくの間●草道となります。識聖寿寺館の北の木戸があったところのようだけど、標識なぞは見なかった。少し下っていくと、正面に真新しい橋があり、●「北沢2号橋」という。 この橋を渡ると、県道233号に合流します。 9:58

■北沢2号橋~五戸町境
 しばらく北上すると右手に●高山峠へ至る山道の入口が待ってます。この分岐には「南部藩発祥の地 ←奥州街道→」の標識があり、間違えることはありません。 前日までの雨で道がグチャグチャだと思うので、100均で買った靴カバーを装着。これは有壁-一関でも使ったけど、結構役に立ちます、 轍が残るので、車も入るのだろうけど、一応クマベルも鳴らしておきます。 道は砂利道で、10分程で●コンクリート製の門柱の様なものがある分岐に出て、奥州街道の標識に従い、左へ行きます。 その先、切り通しのV字状の山道を上がって行き(長坂らしい)、段々左へ曲がって行き、やがて周りが開け、右に●「南部藩発祥の地 ←奥州街道→」の標識が立つ所へ出た。五戸町との境らしい。 10:35

■五戸町境~高山一里塚
 数分進むと●前方に丸太が積んである分岐に出て、左手に「奥州街道 隧道」の標識。隧道とはというと、地図を見ると、左へ下りた先は県道355号にある隧道へぶつかっている。 街道は直進します。 分岐の先、一里塚跡が残るというので、注意しながら進むと、かなり●明瞭な塚が両側に見られます。名前はわからない。切り通しで道面が深く掘られている。 この先100m先にもあるというので、注意していると、こちらは一里塚の標柱が立っていて、両側がはっきり残る。●高山一里塚でしょう。 後で見た、浅水手前の案内図にはこの地点に塚が4基書かれている。右側が左よりかなり大きい。 なぜ4基残るのかというと、道の改修などで塚の作り直しが行われ、古い方は崩されるのに、ここは山間部で崩すのが大変だったということが考えられる・・・と調査書の説明にある。  10:45

■高山一里塚~十和田山碑
 その先、10分ほどで、突然前方が開け、●伐採されて山肌が平になり、山道がジグザグに切られている。左後方に●雪を被った八甲田山が見える。 この時、空にエンジンの爆音が聞こえ、三沢基地の戦闘機だろうか、2機飛んできた。民間機と違いかなり甲高い音で、気味が悪いくらい。 気を取り直して●左手が伐採されて崖の様になった道を先に進む。 すぐ先、左手に●「十和田山碑」の標柱。後方にあるはずの嘉永6年(1853)建立の「十和田山碑」はみあたらない。 真西には十和田湖があり、十和田神社は
古くからの修験場だったので、このあたりに遙拝場があったのだろう。 10:59

■十和田山碑~高山展望台
 次の目標は「駕籠立場」だけど、街道の右脇にあるもの思い込んでいて、下り坂になってきて、おかしいなと思っていたら、「水無坂」まで来てしまい、これは通り過ぎたと、あわてて戻ったら、「駕籠立場」の標柱を確認し、●右手へ上る坂を見つけた。そこを上がると●展望台を発見。6分程のロスですんだ。高山駕籠立場跡です。東屋、「展望台」、●明治天皇御駐蹕之碑が立っています。 説明板 明治9年(1876)の巡幸に同行した岸田吟香は、・・「西南の方を見渡せば岩手山、・・・実に千里を一望に極めたる絶景なり」と記している。 本来なら360°の絶景が見渡せる所なのだが、現在は●樹木が繁茂し、回りが見えず、その面影は全くありません。 11:25

■高山展望台~相内分岐
 高山展望台から●雨宮坂と称する坂を下る。このあたりが「安達ヶ原鬼婆伝説」の舞台なのだが、標識が見当たらない。鬼婆伝説は福島、二本松の「黒塚伝説」が有名だけど、こちらの伝説は (日本の道100選 奥州街道、高山の説明欄を参照)  その先、開けた場所に出て、右に●水無坂碑標柱と東屋がある。山道をさらに下って行くと、6分程で●相内追分となる。●「↑相内 奥州街道→」の標識がある。 ここを右に曲がると、八戸街道相内へ通じる。 奥州街道は左の道へ行きます。 11:48

■相内分岐~水梨清水
  右側に●東屋があったので、 ここで、少し休憩。サンドイッチを一つぱくつく。反対側に「高山まで1.3km 浅水まで3.0km」とある標識が立っている。東屋の先に●稲荷神社の小社がある。 すぐ先、右下に湧き水●「水無清水」という案内看板が立ち、下へ下りて行くと●清水が涌いていた。水はきれいで飲めるらしく、往時の旅人には貴重だっただろう。 12:03

■水梨清水~浅水
 ●北向追分に着いた。「↑北向 奥州街道→」の標識が立っている。 左へは北上して浅水「北向バス停」付近へ通じる。街道は右というか、真っ直ぐ進む。 その先、一里塚の遺構があるというので、ここでも注意深く進むと●一里塚 ぽい塚が現れた。ここも右側の塚の方が大きく残る。名前がないので、一里塚の確証はありません。 やがて、前方に舗装路の二股になり、民家が現れた。 左へ進むと、急な下り道となって、 坂の途中に、「佐野坂」と書かれた道標があったので、その●佐野坂を下り、浅水川に架かる新橋を渡る。 その先は突き当たりで、右に曲がると●浅水の集落に入りました。やっと「高山峠越し」の山坂道の終わりです。突き当たり角に、奥州街道案内図と道標がある。 峠入口からここまで2時間45分程の行程でした。 12:50

★浅 水
 浅水は「無明舎本」では宿駅の扱いをしておらず、「小繋」同様、間宿の扱いをしている。歴史の道調査書では宿駅として、「幕末では商人宿2軒、往来宿1軒があった」と記す。 きつい高山峠道を下ってきた旅人にとって、ここ浅水が宿場であっても不思議ではないので、宿場であるとは思いたいが、無明舎本の説を取ります。又、「一戸」から「九戸」までの地域が存在しているが、「四戸」のみがない。 「四戸」にあたる現在の地域は、八戸市の「櫛引」あたり説が有力だが、浅水も候補地の一つで、根拠として、三戸と五戸の間に位置することと、「四=死=朝見ず=浅水」ということが上げられている。
 浅水は普通の町並だが、さすがにというか、民家で●特徴ある玄関を持ち、ガラスに家紋を描いている家が何軒か見られた。中程の●鳥居は「八幡神社」の鳥居で、ジグザグに参道を上がって行くと●拝殿が建つ。ここは浅水城の跡でもあり、説明板が立っている。 先に進んだ左手の小泉商会前に●「明治天皇御休所跡碑」が立ってます。  13:20

■浅水~十海庵
 ●枠だけのビニールハウスの所を左折する。 枡形になっているところで、この辺が浅水宿の出口付近なのでしょう。 奥州街道の標識がある。上平地区となり、● 地蔵坂と呼ばれる坂道を上る。途中、左側に●、宝暦14年(1764)の庚申塔、安政4年(1857)の二十三夜塔がある。 共に深く彫られて見栄えが良い。  周囲が開け、りんご畑等が続く道を上がって行くと、 右手段上に●「十海庵」という東屋が立っている。何かの旧蹟かと思ったら、そうでもなく、奥州街道の案内板が立っていただけだった。 13:38

■十海庵~高屋敷分岐
 その先、右手に●「十海塚碑」の標柱があり、右下へ下りて行くと、正面、柵で囲った杉林に鳥居が立ち、中に説明板と、●無縫塔が数基立つ塚が あった。戦国期の大永7年(1527)、初代浅水城主南長義が、浅水竹花に古義真言宗「来福院」を創建・・・と説明してある。 街道に戻ると、●鞍越坂の上りとなり、 やがて視界が開け、前方に●「鳥内清水」の標柱が立つ。後方下段へ回り込むと湧き水が流れている。 水量もチョロチョロで、"深めで水に手が届かず "、味見は出来ずじまい。 14:05

■高屋敷分岐~鳥内沢一里塚
 すぐ先が●高屋敷分岐で、右側から舗装路がやってきて、ここが終点。 街道は標識に従い。真っ直ぐの砂利道となる。真っ直ぐ進むと●「鳥内坂(とりないさか)」を上がります。ここはかなりの急坂で、結構疲れた。 ピークに●「鳥内沢一里塚」がある。 両塚が残され、西塚の方がはっきりしている感じ。 14:20

■鳥内沢一里塚~明治天皇聖蹟碑
 その先は●気持ちの良い林道で、野草取りの夫婦で出会った。 その先、左右が開け先で●果樹園や広大な畑が広がります。 ちょと太めの大木が立つ●薄暗くなった林道の手前右手に、●「明治天皇八戸疑景天覧聖蹟碑」説明板  長ったらしい名前の訳は・・明治9年巡幸の際、八戸村士族・神官達が八戸村を通らないのを残念に思い、大パノラマの八戸風景をこしらえて、供覧に供したという。 大まじめで説明にあたったのだろうけど、どんな風景だったのか、想像がつきませんね。 14:30

■明治天皇聖蹟碑~ひよどり坂
 更に上り、下ると、やっと市街地へ出た。 左からの道に合流する●分岐左手●御大典記念と彫られた記念碑がある。道標を兼ねていて、「右 槍澤」と刻む。左側は読めない。 その先で、五戸台地グリーンロードを横断すると、街道左は塚無岱(つかなしたい)、右はウルエ長根下(うるえながねした)という、変わったというか。由緒ありそうな地名になります。 ●ひよどり坂を上ると、左に●「ひよどり坂、←奥州街道 ↑町立公民館」という標識がある。公民館の方(街道の左手)へ下る道は「旧道の旧道」と説明され、五戸へ向かう道筋だったという。地名も「字治郎左ェ門長根」という新田開発でもした人物に由来するような名前です。
14:55

ひよどり坂~神明宮
 下り坂になり、●国道4号に架かる跨道橋「二本柳橋」を越える。県道15号に変わり、100m先を左折して、●愛宕丁という長い坂を下って行きます。 途中、右手に●神明宮の鳥居がある。参道の奥が急な石段をで、上がった上に●神明宮がある。 宝永2年 (1705)、当地の開拓者、 木村與市が社殿を建立したといわれる。 以後 消失し、享保3年に再建したが、明治17年の五戸大火により類焼し、 明治41年再々建立し今日に至る。 五戸市街を見下ろす高台に建っており、五戸市街が見渡せる。  15:20

■神明宮~五戸町
 神明宮から街道に復帰し、さらに坂を下って行くと、新町交差点を過ぎ、町中に入って来た。 左手に●慶長2年(1597)創建になるの浄土宗「高雲寺」がある。 文禄4年(1595)三戸城主南部信直の命により、木村杢之介秀勝が五戸館を築き、城下町を整備した際、木村家菩提寺として創建したと伝わる。 ●本堂は入母屋一間軒唐破風、何より向拝の欄間などの"龍、獅子の彫刻が精密 "なことのは驚かされます。 新町交差点の先、●突き当たりに「青森銀行」ある交差点が五戸宿の枡形になり、五戸宿に入ります。 今日はここで終わり、宿が「さ・くら屋」という、20分位街道を戻った所にあるので、付近を撮りながら向かいました。 15:30 

 023 金田一-三戸 025 五戸-十和田中央