025 五戸から十和田中央へ      歩行地図
 五戸宿-五戸橋-五戸八幡-国道4号-十和田市-伝法寺-上ミ沢-野月-藤島-御幸橋-一本木-稲生町 14.82km
73 五戸宿
 三戸宿から浅水へ3里15丁4間、浅水から五戸1里7丁 計4里22丁4間(17.09km)。新丁、新町、荒町、馬町、上大町、下大町、川原町の7つの町からなり、下大町が五戸宿の中心地として代官所があった。明治の一時期、斗南藩の藩庁が五戸代官所に設けられいる。戸数296軒

 2021年5月25日
★五戸町界隈 写真をクリックすると、拡大します)
 今日は十和田中央まで、15km位なので、ゆっくり出発。 8時40分●さ・くら屋旅館を出発。宿賃も安く、気持ちの良い旅館でした。 五戸町界隈を見ておきます。 新町交差点を左に折れると、右手に豪華な茅葺きの旧家が眼に入ります。●江渡(えと)家住宅で、豪農にして、南部藩五戸代官所下役の給人を務めた家柄です。住宅は江戸時代後期の天明年間(1781~)の建築と言われています。周囲を生け垣に囲まれ、門を少しだけ入れるようで、この写真が精一杯のアングル。居住中なので外観のみ。 県道に出て、左折し行くと、右手に●五戸町消防団第一分団屯所というのがある。大正11年に落成。木造5層建、間口3間半、奥行き3間、鐘楼付き火の見櫓です。 その隣に●稲荷神社。江戸中期創建と伝わる。

 「上大町バス停」の所の細道を左に入ると、●明治天皇五戸行在所碑の立つ旧家があります。明治9、14年の東北巡幸の際、昼食の行在所として使われた。又、明治4年、会津藩主、松平慶三郎(容大)が、斗南藩仮藩庁宿舎として3か月仮住まいされた部屋が当時のままに保存されているそうです。 県道左手の図書館前一帯が「歴史未来パーク」となっており、そのままパークに入ると、●盛岡藩五戸代官所が復元されている。 会津藩23万石が戊辰戦争後、斗南藩として3万石に減封の上、陸奥の北郡・三戸郡・二戸郡に移封となった。明治3年、五戸移住の第1陣が入り、五戸代官所が最初の藩庁となり、翌年にむつ市田名部へ移転している。代官所の後側に、●舘稲荷神社がある。裏手は南部藩の藩吏で、代々代官を務めた木村氏の屋敷(館)があった所で、その館にちなむ。 代官所か廃止になった以後、代々住民により管理されてきたという。 五戸市で特徴的なのは●図書館付属の展望塔で、上って見たかったが、コロナの影響で閉鎖されていたし、図書館には日本国産飛行機の生みの親という「木村秀正博士記念コーナー」もあるのだけど、10時開館ということで断念しました。 9:11

■未来パーク~サイトウ坂
 街道に戻り●五戸町を進みます。商店は多いが、町全体が古めかしく、シャッターが下りている店も多い。 左手、三信金物店の先、階段を下りるようになっているが、昔は●サイトウ坂といって、台地上の上町と低地の川原町をつなぐ坂道でした。 急坂を下って行くと、正面の架かる橋が●五戸橋という。江戸初期から橋が架けられていたう。●五戸川を渡ります。五戸川は十和田湖の戸来岳を源流として、 五戸を通り、八戸で太平洋に流入している、延長50,7kmの河川です。 9:20 

■サイトウ坂~川原町
 五戸橋を渡ると、川原町へ入ります。往時は高札場が置かれた所です。 ●鈎形に左へ曲がり、五戸の町並を抜けます。 北西に真っ直ぐ進んで行き、左手に●明治43年創業の蔵元「菊駒酒造」。「菊駒」というお酒を造る。 その先を●右折。ここを宿の出口とする説もあるが、調査書では五戸橋を渡った先を出口としている。 曲がったすぐ先、左手の段上に両部鳥居を備えた●稲荷神社?」があります。 9:30

■川原町~八幡坂
 道は●八幡坂に向かって、真っ直ぐ進み、途中右手に●明治天皇田の草取天覧御聖蹟と刻まれた記念碑があります。何でも、行幸の際、明治天皇がこのあたりで、農民が田の草取りをしているを見たという、記念碑だけど、草取りを見ただけで、このような立派な記念碑が立つとは、うかつに回りを見ることも出来ないのではないかと感じる。 その先に用水が流れ、●「中市筒口用水路」と橋の親柱に書いてあり、江戸時代に開削されたもののようです。 続いて、右手に「五戸ロータリークラブ」の立てた「桜並木記念植樹」の標柱が立っており、●桜並木が続いています。 9:40

■八幡坂~大学沢
 県立五戸高等学校裏手を右折、置くに根岸八幡宮の一の鳥居がある。 この鳥居をくぐり、石段を上がると●根岸八幡宮の社殿があります。拝殿の龍の彫刻"拝殿の龍の彫刻 "が精緻ですばらしい。永正3年(1506)、五戸城の城代木村杢氏が主家である南部家の武運長久と領内鎮護を祈願して八幡神の分霊を勧請、以後、南部氏の崇敬を受けてきた。説明板  身勝手な五戸代官に殺された愛人の菊女の供養塔があると説明板にあるが、どこだかわからなかった。 さらに進むと●Y字路にぶつかり、街道は右へ進み、正面に"追分石 "が置いてあった。 右手を進むと、左手が「五戸斎場」で突き当たりになり、左に曲がると国道4号に合流する。 街道は真っ直ぐ行かないといけなく、カーブミラーが立つ所が、草むらで一見、道があるように見えないが、●草道になっており、あえて進入します。 10:02

■大学沢~伝法寺
 草道は倉庫の様な建物の裏を通り、喫茶「ローラン」前で●国道4号に合流します。但しこの道は短すぎ、グーグルアースで見ると、この草道の右手に1本長めの道が描かれている。もしかするとこちらの道では無いかと思うけど、樹木の中に消えており、歩けるかどうかわかりません。  国道を進みますが、旧道は改修によりかなり、切り下げられ、昔は山道で難所だったという。
「後藤川」西側で川を渡っていたようだし、その先では右側へ曲がりしている様に、国道をジグサグに巻いているのだけど、歩けないので、しばらく国道を進むしかありません。途中で歩道が無くなり危険な感じがします。 やがて"「道の駅 十和田 4km」"の看板が立ち、●十和田市へ入ります。「小学校前バス停」先で、●跨道橋を潜り、その先、左手は「伝法寺小学校跡地」で小学校東端に残る「金比羅碑」が旧道のかすかな名残だというが、草に覆われ探す気がが起きなかった。 その先●分岐を右手に入って行くと、「伝法寺宿」になります。 10:55

74 伝法寺宿
 五戸宿から1里7(4,68km)。貧村であり、隣の藤島宿と半月交替で継立を行っていた。宿駅の費用は五戸通の広範囲の村に課され、旅宿は商人宿、往来宿各1軒あった。

★伝法寺宿
 ●伝法寺宿に入ります。宿の面影は残っていない。人影も見ません。 貧村ゆえ宿駅に数えていない資料もあるようです。入口から100m右手に「馬立場跡」と伝えられる場所があるというけど、わからなかった。 左手に●八幡宮の鳥居がある。参道奥に国道が通っているので、社殿は国道を渡った先にあるようです。 その先、右手にあるのは浄土宗●光明寺。 街道はここらで左折となるようだが、よくわからないので、少し戻って●畑から国道へ出る道があるので、そこを通ってみた。国道へ出て、北上すると「道の駅 とわだ」があるので、休憩を兼ねて、お土産など見てみた。 11:05

■伝法寺~
 先ほどの出口まで戻ってくると、●伝法寺館跡の標柱が立ってます。南部光行に仕えた、日の宮中務大夫が承久元年(1219)頃、伝法寺館に居住したと伝えられている。 国道に分断されているが、南北2つの館で構成され、間に空堀が残されているらしいが、全くわかりません。 国道を渡り、1軒の民家の脇から●草道が続いており、ここが旧道らしいので、入って見た。 轍が続いているが、一部草に覆われ道がわからなくなったりするけど、かまわず進むと、両側に塚らしい盛り上がりが見え、●一里塚らしい形が両側残っている。標柱は無くなって見えない。  12:05    

      ~伝法寺上ミ沢
 
そのまま●轍道をたどって行き、GPSを見ると、妙に経路から南へずれて行く。 本当は西へ向かわなくてはいけないので、間違いだと思って、一里塚跡まで戻って、じっくり草道を観察すると、分岐の様になっており、左の轍道を行くと、南へずれる。 正面は草に覆われて良く見えないが、畑地で、右は●完全に草に覆われた感じの所。 しかしよく見ると、真ん中がわずかにへこみ、足元は道が続いているような感じがしするし、磁石も西を示しているので、そのまま突入したら、●畑地に出た。 脇を真っ直ぐ進むと●轍道が続き、これが旧道だと思いました。  12:25

■上ミ沢~野月
 少し行くと●右側が開けた所に出て、奥に見える煙突の立つ工場は「清掃工場」でしょう。しかしこの●轍の残る林間道は高山峠道以上の悪路で、轍に水がたまり、土も軟らかく、靴がズボっと入るので、縁や堅い所を探してうろうろ進まざるをえない。靴カバーは捨ててしまって無い。 おかげで左手にあるという「馬頭観世音」と、「移転記念碑」を見過ごしてしまいました。 しばらく林間道を進んでいくと●県道145に合流します。 角に●文政10年(1827)建立の道標を兼ねた庚申塔が建っていて、裏面に「右 四和道一里四丁」と刻まれている。 12:55

■野月~奥入瀬川
  県道145をしばらく進み、●左側に"「ダチョウ牧場」 "ある所を右に入ると「藤島宿」に入ります。"やや枡形の形 "をしているが、外になにもない。藤島川を渡り再び●県145号へ合流。左手に東北巡幸の際の「明治天皇駐蹕之跡碑」があるのだが、写真は撮ったけど、何故がデータが壊れてしまって、見られない(残念)。 ●県道「藤島バス停」あたりの藤島宿の町並。 この辺が宿の中心地と思うけど、普通の民家が建っているだけで、変わったところは何もなし。 その先"●御幸橋 "になるが、工事中で真っ直ぐ進めない。 左手は「公園」で並木がいい具合なので少し休憩した。 ●奥入瀬川を渡る。右側の赤い水門の所はダムの様になっていて、水が落ちている。脇のコンクリート製の細い導路は鮭の上り口の為のものでしょう。 13:30

75 藤島宿
 伝法寺宿から31丁55間(3,46km)。貧村であり、隣の伝法寺宿と半月交替で継立を行っていた。宿駅の費用は切田、相坂、六日町の3ケ村から人足加勢を受けた。助郷の負担が大きく、江戸後期には一揆の原因にもなっているので、伝法寺宿よりは規模が大きかった。

■奥入瀬川~十和田中入口
  御幸橋は、明治9年東北巡幸の際に初めて橋が架けられ、 御幸橋と命名されたのが始まり。 当時は木製で、昼夜突貫工事で仕上げられたという。その後洪水で何度か流失、再建を経て、現在の橋は昭和63年に拡幅されたもの。行幸がなければ、橋が架かるのが遅くなったはずで、住民にとって行幸も良いことだったに違いない。その●記念碑が左手にある。 奥入瀬川は往時渡船によっており、渡船場跡が200m左の川原にあるらしい。 橋を渡り、すぐ左折。 奥入瀬川を斜めに渡って来る旧道へ向かいます。右手に「太子食品」があり、その先を右に曲がって、道なりに行くと、旧道へぶつかり、●相坂を上ります。 そのままずーと進むと、●十和田中入口交差点で県道と合流し、その手前左手に●一本木の一里塚が西側だけ残っています。 14:00  

■十和田中入口交差点~稲生町
 交差点を過ぎると、●十和田市街に入ります。街道はこの先、三本木台地を一直線に北西に進み、七戸へ向かいます。江戸時代の三本木原は・・「・・三本木台といふ野原あり、唯平平たる芝原にて四方目にさわるものなし・・樹木も1本も見えず無益の野原也・・」という具合に記され、八甲田山などの噴火でできた火山灰の土地の為、雨水が貯まらず、井戸を掘っても水が湧き出てこない不毛の土地であった。
 そこで幕末、南部藩の命により、南部藩士、新渡戸傳(5000円札の新渡戸稲造のじいさん)・十次郎の親子により、十和田湖から水路を引き、新田開発を成功させた。その為市街は札幌市と同様に、奥州街道を夾んで、碁盤の目に計画的に道路が引かれ、新規開発の姿を留めます。 街道は「穂波町」、●稲生町と続き、稲生町に入ると「アーケード化」されています。●稲生町交差点を左に曲がると、「官庁通り」という「日本の道100選」に選ばれた、広い歩道を持つ道路が続きます。ここで本日の歩きは止めにして、時間があるので、市街を見物して回ります。  14:30

★官庁通り界隈
 交差点を左折すると●官庁通り。馬産地であった十和田市には、旧陸軍軍馬補充部が設置されていたが、戦後一般用地として開放された際、官公庁用地として整備されたもので、長さ1.1k、幅36m。松165本・桜156本の並木道となっています。 左手の「駒っこ広場」前に"「日本の道100選記念碑 "があります。その先左側の●「アート広場」に「草間彌生のかぼちゃ、、愛はとこしえ十和田でうたう」オブジェクトがあったりします。その先、図書館前の歩道に●「親子の馬像」。道路を渡って戻って来た先に、●「ポストの上に乗る馬のブロンズ像」、程の●車止めの柱の上にも馬の像」があった。正に馬だらけ。 

 現代美術館の庭の前に●「巨大ハキリアリ像」、正に現代アートという●「フラワーホース」があります。 又道路を渡って、西側に●曹洞宗「澄月寺」があり、山門をくぐった左手に、"「招戰没諸士之魂塚 "というのがある。 明治23年、戊辰戦争で戦死した会津藩士達の供養の為、当地に移住した旧会津藩士達が建立した招魂碑です
  山門から出て、右手の「十和田市民文化センター」に●蒸気機関車が展示されていて、現代アートに混じって何でも有りって感じ

★大学通り
「稲生町交差点」を右折して大学通りへ入り、すぐ右手、空き地は●「旧新渡戸邸跡」。 建物は大火で焼失している。又明治天皇行在所にもなっている。"建物の写真"は太素公園の説明板にあった。行在所の記念碑も公園に移されていました。
 その先右に曲がって行くと、●大鳥居が立つ「太素公園」がある。十和田開拓の恩人、南部盛岡藩士、新渡戸一族の墓や、記念館などがある所になります。入ると正面に●一族の3人の記念碑がある。 ●新渡戸傳(つとう)は南部藩藩士で、前の五千円札の肖像、新渡戸稲造のじいさんにあたる。安政2年(1855)不毛の三本木原開拓に着手、4年を掛け十和田湖から三本木原への上水に成功した。明治4年没。 ●新渡戸十次郎は傳の長男。父・傳と共に三本木原(現・青森県十和田市)の開拓に当たった。我が国最初の都市計画を実施した慶応3年49歳病死。 ●新渡戸稲造は十次郎の3男。十和田開拓には関係しないが、生前よりここを自身の墓所と決め、墓石「太素塚」を建立し、周囲を整備している。 1933年79歳没。

 園内奥に●新渡戸十次郎墓、傳墓、稲造墓が並びます。公園を出る前、左手に●明治天皇三本木行在所碑」があって、説明板に「旧新渡戸邸」の写真があったので、前述の説明に使用しました。 公園を真っ直ぐ行った「スーパーホテル」に泊まりました。

 024 三戸-五戸 026 十和田中央-七戸十和田