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■稲生町~三本木 橋を渡ると、格子状の町並は終わりますが、●道は尚、真っ直ぐ続く。 元町に入り、ガソリンスタンドを左折すると、150m先の左に●元町神明宮(八幡神社とも)という神社があります。 説明板 三本木の荒野を初めて切り開いた作助が、天明飢饉の犠牲者の菩提の為、伊勢神宮を勧請し、境内に銀杏を植樹したと伝わる。 「元町バス停」先で右に曲がり、左斜めにへ進むと、水路脇に●大清水大明神があります。 地名の「三本木」は境内の3本の「シロタモ」の木に由来していると云われ、その根元から清水が湧き出て、旅人の疲れを癒したと言われている。どれが由来の三本木か説明がないので、わからないのだが、●本殿 後ろに「しで」が下がっている木があるので、"子孫の木"だろうと思います。 9:35 |
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■三本木~真登地 街道に戻ってして北上。「土手山」に入る。江戸時代に街道の風よけや、牛馬放牧の防護策として築造された、土手があった所だそうです。 右前方に●土手山のケヤキが見えて来る。説明板 松前藩主が参勤の折に、植樹したと伝わる。(樹齢推定300年・樹高26m)。脇に●土手山神社があって、祭神はなんと、マーシー号という馬。マーシー号は 小岩井牧場で生まれた召雌馬で、 昭和25年のダービー優勝馬クモノハナ号(兄馬)を凌ぐ駿馬であったという。 その先しばらく北上。右から国道4号が合流した先、左の「石材店」の先、左手に●「間登地一里塚があります。 西側のみ残り、東側は、昭和30年代に取り壊された。 東京から「699km」のキロポストがあり、左手一帯に●八甲田山系の山々が良く見えました。 10:30 |
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■真登地~洞内本村 その先、「南洞内バス停」のある所の歩道が広くなり、左側は●真登地公園となっていて、東屋、枯れた池などがある。 公園入口に"黒石面の奥州街道道標"が立って、「左 至江戸日本橋百九十三里拾八町、右 蝦夷地松前 只今測量中ニ付候」と刻む。 次の●「洞内」交差点を右に曲がって「洞内城跡」を見に行きます。 10分程進むと、左手「法蓮寺」境内一帯が●洞内城跡」にあたります。 洞内城は三戸氏の被官「洞内氏」の城と伝えられ、東西160m×南北250mの規模で北と南の郭に別れ、法蓮寺は北側の存在する。九戸政実の乱で洞内城は落城し、洞内氏は逃亡した伝えられている。 ●法蓮寺は常陸国真壁の住民「平四郎」が一念発起して出家、「法心」(法身?)と号し、宋で修行、国師となり、晩年にこの寺を開基したという。説明板 11:05 |
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■洞内本村~砂土路川 街道に戻る途中、「法身塚通」バス停の所を、左に入って行くと、右手丘の麓に、●法身塚がある。石段を上がった、 杉木立の中に先の「法連寺」を開基した「法心(法身)」や、「開山法心諸大和尚」、「二代道無老和尚」等の歴代住職墓と伝わる●数基の「卵塔」(無縫塔)が並んでいる。(法心と法身の名前が混同して使われているようだけど,理由は不明) 説明板 街道に戻って、先に進むと砂土路川に向かって、●急激な下り坂になります。坂の入口付近は”茶屋”と呼ばれ、江戸時代後期には旅人の難儀を救うための、茶屋が左側に置かれていたという。 砂土路川手前を左へ、林の中に入って行くと、"朱の小橋"が架かり(袈裟掛け橋?)水田の中に●「袈裟懸けの松」があります。法連寺の「法心和尚」が客僧達の為に田を耕し、袈裟を掛けたと伝わる松で、現在の松は幕末に植えた2代目という。 11:45 |
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■砂土路川~池ノ平一里塚 砂土路川の底面から当然の如く、上り坂にになり、結構辛かった坂でした。上りきる所あたりから、松並木となり、大沢田に入ると左右に見事な「松並木」が続く・・・と解っていたのだけど、左側の歩道を通っていたので、あまり情景が感じられず、●歩道側の松並木はこんな感じです。 "グーグルアース上での情景 " 明治末年に軍馬補充部三本木支部が、 草刈用地の防風林として、土手上に植栽したものといいます。 街道右側には「北野神明宮」があり、●右手の「コンクリート会社」の所の交差点を左に曲がります。すぐ先に、●モーテルの看板の所を左に入るのが旧道で、入ると左手がモーテル、右側に●池ノ平一里塚が両塚残っています。説明板 ここの所は一回りして又街道に合流します。 12:25 |
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■池ノ平~高瀬川 すぐ先で七戸町に入ります。 川去川、大林川が作る段丘の●急激な下り坂と、上がり坂を繰り返し、その先、右手に●「蒼前神社」がある。この地方には「蒼前神社」が多く存在し、馬の神(馬頭観音)を祀ります。 高瀬川に向かって大きく左カーブした先で、高瀬川に架かる●七戸橋を渡ります。七戸町は馬の産地で有名で、 七戸橋」の親柱には、"「馬」の絵"が掛けられています。 ●高瀬川を渡ると七戸町中心部に入り、旧七戸宿となります。 12:56 |
76 七戸宿 藤島宿から3里34丁51間(16.38km)。中世から南部氏の拠点だった1つで、建武2年(1335)に南部政長が七戸城を築き、以後七戸氏と称して、城下町として発展した。又六カ所村方面の道筋も分岐し交通の要衝でもり、盛岡藩領北部の政治、経済の中心として栄えた。 |
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★七戸城跡 神明宮裏手一帯が●●七戸城跡」で、説明板 面積が11ha以上もあり、とても撮りきれるものではなく、一部分だけ撮ってみました。七戸城は「柏葉城」とも呼ばれ、南部政長が南北朝時代に築いたと考えられる。天正19年(1591)の九戸政実の乱に加担し、落城している。本丸 二ノ丸 北館 下館等からなる平山城で、江戸時代に盛岡藩の代官所が置かれている。傍らに●南部家29代藩主・南部重信の歌碑が立っています。 |
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■新町~七戸十和田駅 丘に上がると少しばかり●七戸町の風景が遠望でき。五戸町に比べると、かなりまばらな風景です。七戸町役場自体は、北方の奥州街道が二手に分かれる間に存在するのだけど、支所の方は規模的にどうなのだろう。 階段を上がった右手に●天王神社がありました。道の方は真っ直ぐ行って、すぐに県道に合流しました。 この先は県道を真っ直ぐ行くだけで、左手に●「道の駅 しちのへ」がある交差点で今日の歩きは終えることにしました。 " 七戸十和田駅 "から帰りました 14:15 |
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025 五戸-十和田中央 | 027七戸十和田-野辺地 |