027 七戸十和田から野辺地へ     歩行地図
 七戸十和田駅-中野三叉路-天間舘-一本木-蒼前-石文-夫雑原-長者久保-鳴子坂-野辺地  22.16km

2021年6月22日
■七戸十和田駅~荒熊内  写真をクリックすると拡大します
 はやぶさ1号にて「七戸十和田駅」9時34分着。天気は曇り。雨の気配です。「道の駅しちのへ」でおにぎりなど購入して、街道歩き再開します。入口に●日本ダービーで優勝した ヒカルメイジ と フェアーウィンの銅像があります。 北へ向かう、街道左手に●「奥州街道碑」と「奥州街道図が立ってます 少し先、「青森県営農大学校」の前にも、同じような、●奥州街道碑と奥州街道図が立っていました。 農大学校は治45年4月創立の「 青森県立種馬育成所」が前身で、敷地はかなり広い。 この先、街道には松並木が並び、●「奥州街道七戸松並木」と呼ばれ、 1.6kmの区間、松並木が保存され、歴史的景観を留めていることから 国土交通省により「歴史国道」として選定されている。  10:05

■荒熊内~中野三叉路
 七戸の松並木を過ぎると、●中野川に向かって、街道は急な下り坂となる。 中野川を渡ると緩い上りになります。 前方の交差点が●中野三叉路(中野追分)。 街道はこの交差点で上道(新道)と下道(本道)に分岐し、上道は旅人や商人達が利用した歩きやすい道。 下道は松前藩の参勤や幕府巡検使が使用した公式の街道で、野辺地に至る原野と山越え続きの街道といいます。 最初、途中に「日本中央の碑保存館」がある、上道を行こうとしたら、ちょうど本日が火曜の定休日のあたることがわかったので、下道を歩くことになりました。下道は交差点を右折します。 右折する前に、左手の段上に立つ、往時より街道を往来する旅人達が目印としてきた●「中野のイチョウ」を見て回り、説明板  正面の「宮沢医院」前に、道標を兼ねた「右ハ 野辺地本道」、「左ハ 同近道」と刻む●寛政9年(1797)建立の「庚申碑」があります。宮沢医院は売りに出されているので、休業したようです    10:22

■中野三叉路~天間舘(本道)
 右折した先、左手は広大な敷地の「七戸町中央公園」が広がっている。広すぎて写真のアングルが定まらなかった。入口に●赤い鳥居の「熊野神社」がある。 街道は●ゆるい上がり坂になり、先の●二股で県道は右へ曲がって行き、旧道は●真っ直ぐの細道に入ります。分岐の所に標柱「天間館 七戸町」というのがあった。 このあたり、天間という地名で、旧天間林村に属し、旧天間林村は平成の大合併により、2005年に旧七戸町と合併している。   10:38

■天間舘~天間舘橋
 左手に曹洞宗●「正洞院」があり、その先に●天間塚一里塚が両塚そろって残っています。説明板 日本橋から数えて175番目のあたり、慶安2年~承応元年(1649~52)築造とされる。左のケヤキは樹齢360年、青森県指定環境指標植物に指定され、見る者を圧倒する。塚は少し高くなっており、道路が少し切り通された様です。 真っ直ぐ進み、「西天間」バス停の先を右折します。
●右折した先、左手は天間館跡にあたり、天間舘は南北朝?の城で、坪川の断崖に面し、規模は東西200m、南北100m程度。築城者は不明という。詳細は(HP 奥州の城 天間舘)。現在は農地が広がり、遺構は無くなっている。 10:50

■天間舘橋~一本木
 ●天間館橋を渡るが、往時の旧道は天間舘の南側を経て、右斜めに川原を下っていたらしいが、民家により、失われたいう。●坪川を渡る。昔は現在の橋より下手で渡ったといわれ、大きな橋が架かっていたが、度々の増水で流され、舟渡しになったという。 その先は道路工事中で、脇を迂回気味に通り、●一本木の右手にガソリンスタンドがある角を左折、・・・という訳だが、スタンドは無くなっていました。 右折して細い民家の中を進むと、眼前に●広い田園地帯が広がり、その中の一本道を進みます。 11:08

■一本木~
 舗装路は●老人ホームの脇で、砂利道となり、その先で水田の中を斜めに、消えています。 我々は当然ながら水田の中を歩けないので、できるだけ旧道に付かず離れずで、カクカクとあぜ道を直角に曲がって、進むようになります。目標は旧道の復活する「蒼前平一里塚」。 まず●轍の残る砂利道を真っ直ぐ進み、8分程進んだ所で右折すると、●自動車道に出合い、左折します。  右前方の林に沿って、"高架式の水路"が延びてくるので、合流地点まで進み。水路の脇を右手に入り、すぐ左へ曲がります。   11:35

      ~蒼前平一里塚
 左に曲がった、斜め前方に続く●土の道を行きますが、先の●轍の残る土道に、旧道が一部接するようです。 右折、左折をすると●前方の赤白の鉄塔に向かっての、真っ直ぐな道になりました。 赤白の鉄塔のあたりが「蒼前平一里塚」のある、上北変電所なので、そこへ向かって●尚真っ直ぐ進みます。旧道もここへ向かって進んで来ていて、やがて合流してきます。  11:55

★蒼前平一里塚
  右手の「東北電力上北変電所」と舗装路の間に、平行する一筋の林があり、その中を旧道が通っているようだ。 が 舗装路の右手に柵が続いていて中に入れない。高圧鉄塔が立っている為なのかもしれない。 結局"蒼前平一里塚"の標柱が立つ先まで進み、後戻りする形になりました。 そこに●「奥州本街道碑」「奥州街道」の看板が立っている。 その脇に、雑草が生い茂り、一段下がった●奥州街道旧道が200m程保存されています(県史跡)。 奥へ進むと●蒼前平一里塚が両塚そろって保存されている。脇に「東北電力」の設置した「青森大学学長 盛田氏」の書いた案内板が立っていて、一里塚について勉強になった。 ここは一里塚、保存旧道も含めて、東北電力の敷地の様です。 近くに「奥州街道図(旧天間林村)」の看板もあります。  12:10

■蒼前一里塚~青い森鉄道トンネル
 変電所前を●直交していくのが旧道であるが、林の中に水路があって、通れないとのことなので、左へ迂回します。ちょっと距離があって、約500m先の十字路を右折、 400m先を右折して、戻ってくると、林に突き当たった。 左折して、●後ろを見ると、赤白の鉄塔がみえるので、一里塚と同じ位置へ戻ったとわかります。 迂回路は18分位かかり、かなり長い。 ここから北上。 少し行くと●土道から舗装路に変わり、急な坂を下り、やがて、●青い森鉄道の高架下をくぐります。 12:38

■青い森鉄道トンネル~石文
 高架をくぐると、左右に道が続き、どっちへ行っても良いのだけど、左へ行くと、県道に向かってゆるく坂を上がる。上がった先に●道が続き、赤い鳥居が立っている。 県道を真っ直ぐ越していく道は間違っていて、民家の敷地に入ってしまい、犬に吠えられた。 旧道は左斜めに行かないといけない。その入口がわからなくて、県道を右往左往したのだが、結局、鳥居の左隣を入って行った。
最初●轍の道が続いているので、間違いなかろうと思ったが、●突然、目の前が草で覆われ、腰くらいのヤブとなった。「無明舎本」ではヤブや田んぼで分からなくなっている・・とあるので、ダメかと思ったが、すこしヤブこぎしてみようと、GPSの示すとおりに進んでみた。 が ヤブが厳しく、喘いでいる内に、段々東にそれていき、畑に出てしまったりして、どうしてもGPSの示す通りに行けない。 そこで、あきらめて、元に戻ろうと、又ヤブ薮こぎしていたら、鳥居の脇に出て、元の県道に戻って来られた。 迂回路として、県道を西に進み、●次の三叉路を右に曲がった。 30分程ロスしてしまった。 又、三叉路を真っ直ぐ行った所が「日本中央の碑発見地」だったとは、後で気がつきました。 13:38

■石文~旧道消滅地点
 5分程上ると、舗装路に合流。右手から旧道がつながってはずと、右手を見ると●旧道は森で塞がれて消えている。GPSの示す通り、ヤブこぎしてくると、ここへと合流してはずの所です。鳥居の脇から500m足らずの距離でした。 左に曲がると●左右に草原が広がる1本道で、右手に●サイロやビニールハウスを備えた牧畜農家が点在し、やがて●三叉路へ出ました。 この先、旧道は樹木の中に消えていて、左へ迂回路を取ります。 地名は「夫雑原」の一角としか分からない。  13:50

■旧道消滅地点~夫雑原
 しばらく進むと●北栄トラクター利用組合の十字路へ出て、ここを直進。 900m程進むと、左手に●夫雑原地区生涯学習センターがあり、元は町立夫雑原小学校跡地でした。 かつては●小学校横の両側に「夫雑原一里塚」があったというが、今は痕跡もない。
 その先一本路を上がり、下がりして進みます。途中●牧草を積んだ専用トラクターみたいな「働くクルマ」が何回も往復するのに出会いました。さすがに「青森・・」 14:28

■夫雑原~長者久保
 ●急激に下がって、上がる一本道。 真下に見える「オレンジの点」は道の両側を草刈りしているトラクター。 やがて、●長者久保集落に入ります。左手民家横に●朱の両部鳥居があるけど、扁額がないので神社名は分からないが、地図上では、400m位西に神社があり、「歴史の道調査書」では熊野宮と記される。 集落外れで●車道は右に折れ、街道は直進します。 15:08

■長者久保~坊ノ塚一里塚
 街道はすぐに●轍の残る砂利道となる。三戸からの「高山峠越え」の様な感じ。 街道を進んでいくと右手に●坊ノ塚の一里塚が現れた。案内板 奥州街道に残された最北の一里塚であると記されている。 ところが道の右手にある塚は西塚であり、東の塚はもっと右手奥にある。 (●振り返って撮った両塚。左側が東塚)。 塚のまん中には、旧奥州街道という看板が立っていて、古い街道は今通って来た道の一段下の右手に延びている。そうすると古道は既に消失していて、現在の道は明治以後改修された新道ということになるのでしょう。  15:40

■一里塚~鳴子坂橋
 その先●左手の一段下地の中に東家が見える。公園らしいが、何の表示も見られない。ここに●「坊ノ塚遺跡(鳴子館)」の標柱が立っている。 平安から鎌倉時代にかけ、この一帯には集落跡や堀跡等の遺跡があり、鳴子館と称されていたといいます。 この先●鳴子坂を下ります。このあたりから野辺地の町並が良く見えたらしいが、樹木に遮られて、良く見えない。 国道に架かる●新鳴子坂橋を渡る。 続いて鳴子板橋を渡ると、「鳴子板橋の名称由来」説明板があって、・・・ 鳴子板橋の名称は、江戸期、幕府や藩要人が当地を訪れた際、町の要人がこの付近まで送迎に出た故事に由来すると・・・いう。 15:53

■鳴子坂橋~野辺地下町集会所
 鳴子館坂を下ると、高台を通る●県道246号にぶつかる。ここを横断して野辺地の町内へ向かうのだが、県道上に出るためには、左カーブする緩やかな坂道を登ってもいいのだけど、旧道は真っ直ぐ向っているので、ここは●眼前の階段を登っていく方を取ってみた。階段を上がり、フェンスの扉を開けて、閉じて、県道へ出た。 その先、県道を横断して●斜め左にいくと、右手に●鳥居が立つ「下町集会所」がある。 野辺地宿に入りました。   16:04

■集会所~新町通交差点
 集会所の右脇に●六臂青面金剛像、(右側、明和5年(1768))、左側「不動明王」(同年)が祀られています。集会所に鳥居とは変と思ったが、元々は集会所の東北の崖上の「宗善の社」に祀られていた、(宗善は「蒼前」のこと?)宗善(蒼前)宮が、現在は下町集会所の中に祀られているとのことらしいです。つまりは下町集会所が蒼前宮を兼ねているということ。これらの像も蒼前宮に祀られていて、一緒に移転したものになります。 ここで雨がザーと降ってきました。
 集会所の前を通過して、突き当たりが●中野三叉路から別れてきた「上道」との合流地点です。 右折すると旧野辺地宿の町並になります。●本町通は豪商が軒を並べ、道路の中央には嘉永年間(1848~)か安政年間(1854~)に、野村治三郎が自費で御影石三千枚を敷き詰めて輸送の便利に供したといわれ、昭和10年頃まで残っていたそうです。説明板 その先●新町通交差点で街道は左へ曲がって行くので、本日はここで終わることにします。 ホテルはこの先のCASAホテルだけど、時間があるので、町内を少し巡ることにしました。 16:20

★野辺地町
 野辺地庁舎の隣に●「旧野村家住宅離れ」がある。説明板  野村治三郎家は廻船問屋を営む大規模な北前船主であった。 6代治三郎は明治天皇の行幸の際の行在所用にと、自宅に庭園と一体化した数寄屋風住宅を新築、明治9・14年の行幸の際の行在所に指定された。 その後明治23年大火で消失後、同じように建てられている。 街道左に入ると、●神明宮があり、田中津右衛門と云う大豪商が自分の屋敷に天照皇大神を勧請、元禄2年 (1689) 市中氏子中が、社地社殿を受け継ぎして、現在地に遷座。 藩主が巡視の際に参拝してきたという。何度か消失して、現在の社殿は昭和の再建になる。その突き当たりの、●町立図書館などが並ぶ一帯が、野辺地代官所跡で、●代官碑が立っています。 愛宕公園、いくつかの社寺などは明日見て回ろうと思います。 16:55

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