028 野辺地から西平内へ     歩行地図
 愛宕公園-新町交差点-常夜燈公園-馬門-藩境塚-狩場沢-口広沢-清水川-小湊-西平内   22.15km
77 野辺地宿
 七戸宿から5里29丁(22.76km)盛岡藩の北辺の湊として交易で栄えた。元禄4年(1691)野辺地代官所が置かれ、明和2年(1765)尾去沢銅山が藩営になって以降御用銅を大坂の銅座に送り出す拠点港として更に発展した。又奥州街道から下北への道を分岐する地点にあり、津軽藩領との藩境を守るという役割も持っていた。

■愛宕公園~常光寺  写真をクリックすると拡大します
 ホテルを7時半に出て、街道歩きを始める前に「愛宕公園に」に向かいました。雨模様です。 公園北側高台に、明治9年の巡幸の際、行在所で倒れた●名馬「花鳥号」の銅像が立っています。説明板  遺骸は常光寺に埋葬され、石碑がある。 「愛宕神社」参道の脇に巡幸の際に使用された●湧き水「御膳水」というのがあります。アーチ状のレンガで造られたトンネルの中から湧き出しており、現在は原水を殺菌処理して飲めるので、ボトルに詰めておきました。 隣の●石段の「敷石」は本町に豪商野村治三郎が敷き詰めた花崗岩で、愛宕神社参道石段として使われています。神社参拝はこの敷石が雨で滑るし、草むしているので、止めときました。
 「常光寺」に回り、参道入口右手に、●「花鳥号碑」が立っています。 説明板 死後、馬体を白布で包み、常光寺に埋葬されました。 7:52
■新町交差点~野辺地八幡宮
 「新町交差点」を左折して、街道に復帰。 ●新町通りは、江戸期、廻船問屋等商家が軒を連ね、商人宿や往来宿があったといいます。正面に●野辺地総鎮守「野辺地八幡宮」鳥居が見える。慶長3年(1598)勧請。●古い石造鳥居をくぐると、●拝殿は天保14年(1843)の再建で、本殿は覆屋の中で見えない。 境内にある金毘羅宮は 仙台屋安田兵衛を始めとする野辺地宿の廻船問屋達により、 海上安全を祈願して文政5年(1822)に勧請された。 神社前で右折、 野辺地宿の出口にあたり、枡形となっている。 この辺りに、防御のための同心組丁があったという。  8:10

■野辺地八幡宮~常夜燈公園
 街道に出て、左折すると、すぐ先でJR大湊線を渡る。「裁判所」の所で右曲がり、少々の寄り道をします。 正面に「常夜燈公園」が見えてきたが、海岸では何かの工事中でした。海岸通り交差点の左手に●「遠見番所跡碑」の標柱が立ってます。 江戸時代、幕府が外国交易を禁じていた為、外国船の監視や沿岸警備、商船による他藩への持出し禁止の荷の検査を行う番所が建っていた所です。
 公園先端は工事中なので、脇から●野辺地港を臨む。明和2年(1765)南部藩は秋田・尾去沢鉱山を直営、銅を生産した。銅は牛の背に乗り、ここまで運ばれ、大阪まで運ばれて行った。正面に●常夜灯。 文政10年(1827)廻船問屋野村治三郎が、関西の船主・橘吉五郎の協力で、海路を運び込んで造られた日本最古の常夜燈です。常夜燈の右手に、●北前弁才船「みちのく丸」(復元)が陸に上がってます。 説明板  8:25

■常夜燈公園~鳥井平
 常夜燈公園より、●街道に復帰します。野辺地橋より●野辺地川河口を見ます。 野辺地橋は江戸時代では板橋でした。 すぐ先に●野辺地戦争戦死者墓所があります。説明板  戊辰戦争で東北地方の諸藩は官軍に対抗して、 奥羽越列藩同盟を結成したが、 秋田藩、弘前藩などは、官軍支持に立場を変えた。 明治元年9月、弘前藩の軍勢約180人が 突如南部領に侵攻したが、弘前藩の軍勢は40余人の死傷者を出して敗走した。 奥の●墓所には弘前藩が、翌年 戦死者27人の名を刻んだ墓石4基が建っています。盛岡藩側の損害は軽微だったようです。 この先 馬門宿(まかど)に入ります。  8:42

78 馬 門 宿
 野辺地からの距離は不明。野辺地から近いが、敵対していた弘前藩と接していた為、軍事的に重要な地点だった。お互い番所を設け、出入りを厳重に取り締まった為、宿駅に指定されただろうと思われる。戸数30戸余りの小村で、粟や稗などの農業とホタテ貝中心の漁業が主だった。明治元年、野辺地戦争の際、弘前藩から火が放たれ、大きな被害を受けた。

■鳥井平~馬門
 近沢川を渡ると、 ●野辺地町馬門地区に入ります。馬門宿に入って来たと思うけど、入口はどこだか分からず、 町並はごく普通で、人出がありません。 右手に「馬門児童公園があって、奥に入ると、●馬門公民館が建っています。 馬門宿は野辺地から近いのだが、弘前津軽藩の境に接し、お互いに番所が作られ、重要な地区だったようだ。 この先、通常の経路の県道を進まず、公民館の先を右に折れて、●海岸通りを通ってしまったので、県道沿いにあった「馬門番所跡」を見るの忘れてしまった。海岸通りでは、何かホタテの処理をする人がいました。 ●国道4号に合流します。 9:20

★藩境塚
 ほどなく、野辺地町と平内町との境界にやって来て、手前右側に、●高札場と馬門番所が再現されています。番所はこの場所にあった訳でなく、先ほどの見忘れた、馬門地区にあったものです。 冠木門と馬門番所、左に高札場などがある。 津軽藩に入るには、馬門番所で許可を得てから下に降り、 両方の藩境塚を越えて、 津軽領の狩場沢番所でさらに許可を得なければならなかったといいます。街道が高台にあって、藩境塚が海岸べりにあるのは、 藩の境界を流れる二本又川が谷川で、 橋を掛けない限り、藩境を越えられなかった為と思います。現在はもちろん橋が架かる。 番所から藩境塚へは草むした坂を下る必要があるけど、靴がズブズブになるので、どうしたらいいもんかと思って、先に進んだら、●入口があり、標柱が立っていました。 草刈りされた、入口から下りると、●藩塚が2基ずつ建って、真ん中に細い二本又川が流れています。 説明板  9:40

■藩境塚~狩場沢小学校跡
 藩境塚から7,8分先の●左手にある狩場沢の旧道に入ります。 正面に奥州街道の標柱が立つ。坂を上がることになるが、上った所が、津軽藩側の狩場沢番所があった跡ということなので、番所を通らす関係で、坂を上がる形になったのかもしれません。
 坂を上がりきった奥に●熊野宮があります。手前を右に曲がって行くと、右手に●地蔵堂があって、着物を着た地蔵が2体祀られている。  このまま真っ直ぐ進んで、●狩場沢小学校跡あたりで、国道に合流した。 が、地蔵堂の所を右に曲がって、国道に出る方が正しいかもしれない。  10:08

■狩場沢小学校跡~堀差橋
 ●青い森鉄道の狩場沢駅前を通過。 街道が左カーブする手前で、右前方へ進むと、林の中に●金比羅宮、社殿前に●猿賀神社と彫られた石碑が建っている。 神社とは云っても、石碑だけで、神社か? っという感じがする。 猿賀神社とはあまり聞かないが、調べると、青森県平川市猿賀に、蝦夷征伐の際、敗死した「上毛野田道命」を祀った伝えられる神社があります。(猿賀神社HP)
  この先、歩道が無くなり、でかいトラックが次々通りすぎ、傘があおられ、かなり危険を感じました。 堀差川を渡った先、左の雑木内に●明治天皇御休碑があるが、注意しないと通りすぎてしまいます。 10:55

■堀差橋~左エ門次郎
  ●15分位先で右斜めに入ります。 この分岐点入口に、国道側を向く●赤いサンタの様な服を着せられた地蔵菩薩2体と庚申塚塔が祀られています。 その先右手に●諏訪神社。 国道に合流した先、左手に●明治天皇御野立所御跡碑が立っています。11:25

■左エ門次郎~清水川駅通
 その先の●消防団の建物の所を右斜めに入り、口広沢の集落に入ります。●港へ出ると、ホタテ養殖に使うらしい、青いネットで包まれた物が積まれていました。 ここはすぐ国道に出てしまい、●清水川駅前を通過します。 国道を進み、又々●「安全運転」の黄色の看板が立つ所を右へ、清水川集落に入ります。 このあたり、やたらと右手に入って行っています。  12:05 

■清水川駅通~清水川
 清水川集落のはずれに●清水川八幡宮がある。 元禄元年(1688)創建と伝えられている神社で、 祭神は誉田別命(応神天皇)。 境内には狛犬の代わりの●狛馬一対が奉納されていて、さすが馬の国という感じ。 街道は神社の前を通過して、国道に出るのだが、●道路工事で水路が塞がれ、通行不能で、神社の脇から国道に出ました。 すぐ先で●清水川を渡ります。12:40

■清水川~小湊駅
 この間、デジカメのSDカードからデータをパソコンにコピーする際、何故かコピーに失敗し、カードが壊れました。急いで復旧ソフトにかけたのだけど、清水川から、沼舘、白鳥大橋、雷電宮、白鳥渡来地の松島、神明宮、小湊駅までのデーターを失いました
 グーグルアースで後を追ってみると。「平内パーキング 」に"街道碑 "があり、トイレもあって便利です 。「沼館尻バス停」の先で●右前方の旧道へ進みますが、青い森鉄道で分断されている為、途中の階段で国道に上がります。鉄道高架を越えたら、すぐ右折して進み、"「Yショップ」"の所を右折。白鳥大橋を越え、そのまま進み、"「雷電橋」" を渡ります。 左手に" 雷電宮 " があります。 右手のカフェの脇道を入って行くと、"白鳥の渡来地、松島 " へ渡ることが出来ます。白鳥はいなくて、カモメの中を、ふんを防ぎながら渡りました。島に「菅江真澄歌碑」、秩父宮妃両殿下白鳥台覽記念碑があります。 街道に戻って来て、先の右手に "神明宮 " があります。その先、●青森銀行に突き当たり、平内町中心部に入ります。街道は左へ曲がりますが、その前に右へ曲がって「小湊駅」周辺を巡ります。 14:50 
(この間 ストリートビューのデータ借用、2時間10分経過しています)

79 小 湊 宿
 野辺地から4里(15.68km) 明暦2年(1656)以降黒石津軽氏の所領になってから、代官所が置かれ、平内地方の中心地として賑わった。

★小湊駅前
  右折して小湊駅前へ。 駅前の平内町民俗資料館などがある所は「平内代官所が」置かれ、武家屋敷なども置かれ、「御家中」と呼ばれました。 通りの中央に、御家中の名残の●御家中のクロマツが残っている。樹齢400年で、町天然記念物。 駅前に●平内町民俗資料館などがあり、一帯は、明暦2年(1656)以降、黒石津軽領になり、平内代官所が置かれた。●代官所跡の標柱と「平内町名誉町民 畑井新吾司博士顕彰碑」というのがあった。博士は動物学の学者で明治9年、小湊村生まれ、ペンシルバニア大教授を勤めたという。又津軽三味線の●初代高橋竹山顕彰碑も建っている。初代高橋竹山も明治43年小湊村生まれ。津軽三味線を全国に広めた。平内町名誉町民。 15:05

■小湊駅前~病院前
 青森銀行の所へ戻って,先に進むと、 右手に●平内町役場がある。 ここは豪商竹内与右衛門の屋敷跡であり、 明治9年の明治天皇巡幸の際、行在所となった。 小湊交差点で国道4号を横断、●平中バス停の所を右に折れる。小湊宿の枡形となっている所でしょう。。 先の左手段上に●天明飢饉供養塔が立っている。天明の大飢饉の犠牲者を供養するため、天明7年(1787)に東福寺11代住職によって建立された。 東北地方では天明期などの四大飢饉と云われる餓死者の為の供養塔があちこち見られます。街道は供養塔の前を通り西進。林の中の緩い坂道を上がり下がりして行くと、●平内中央病院左手に出て、中央に奥州街道標柱が立ってます。15:21

■病院前~西平内駅
 ●人形坂と呼ばれる坂を上がり、三叉路を右に曲がって「藤沢」交差点で、国道4号へ合流して左折。 膝が痛くなって、歩くのが難しくなり、右手の「ローソン」で長めの休憩を取りました。 再開して、●次の信号まで、結構距離があるけど、左へ入る道があるので、そこを入ります。脇に標柱らしき柱が立っていて、文字が消えているが、多分奥州街道の標柱でしょう。 ●山口集落を通過します。ほどなく●国道4号に合流し、合流点左に「奥州街道」の標柱が立っています。 右前方奥に「西平内駅」があり、本日は浅虫温泉まで行く予定でしたが、あと6km、雨だし、膝も痛いで、ここで止めることにしました。ホテルは青森駅前、「ルートイン」に取ったので、青い森鉄道で青森へ向かいました。 16:40

 027 七戸十和田-野辺地 029 西平内-青森