029 西平内から青森へ     歩行地図
 西平内駅-浅虫温泉-善知鳥-久栗坂-観音寺通-野内-道造-合浦公園-青柳-本町-青森  21.28km

2021年6月24日  写真をクリックすると拡大します
■西平内駅~家ノ下
 
 7時28分青森駅を出発。57分に●西平内駅到着。電車は学生で混んでいたけど、浅虫温泉を過ぎるとほとんど降りて、西平内では降りたのは自分だけ。 早速国道4号の「西平内郵便局前バス停」まで進み、街道歩きを再開します。街道は郵便局の先で大きく右カーブし、●青い森鉄道の跨線橋を渡ります。 しばらく歩き、●「茂浦入口バス停」で右ななめに、「家ノ下集落」へ入ります。  ●集落が終わる頃の右手に"明治天皇御小休所跡碑 "が立っています。  8:30

■家ノ下~ほたて広場
 道は右手へ曲がるところ、林の中へそのまま進むことが出来、左折して「夏泊入口交差点」で国道へ合流します。ここを右折して、●国道を西へ進み、少し先で左へ旧国道へ入らないといけないのだが、分岐があるものだと勘違いしていて、いつまでも分岐が見つからず、県道9号がS字状に曲がっている所まで来てしまった。後でストリートビューでじっくり跡を追っていたら、「夏泊入口交差点」からすぐ先に。"ガードレール "の一部が切れている部分があり、そこから歩道状に旧国道が平行して通っているのでした。 
 ●旧道である県道9号を進みます。 ●右手が大きく開ける「中野バス停」付近。 その先右手に●「ほたて広場」があります。ほたて生産と流通の拠点として造られ、道の駅の様にホタテ、魚介等も販売している。ここは津軽家黒石藩の弘前藩領との境の番所である「土屋番所跡」でもあります。説明板 9:10
■ほたて広場~浅虫交差点
  店の裏側に●「ほたて貝祈願掛け所」というのがある。説明板 又西側の端に●ほたて供養塔(右)ほたて観音堂(左)が建立されている。 説明板 ほたて供養塔は、ホタテの恵みと先駆者に感謝し、ほたて養殖発祥の地である、平内町のこの地に建てられたとあり、祠に納められた「 ほたて観音像」は、ほたて広場の完成を記念して、 ホタテ貝を子孫へ守りぬくことを誓い、 ほたて養殖漁業が恒久的に繁栄して、 地域漁村が未来永劫安らかなることを願い奉納されたものと・・少々大袈裟ながらに記されてあった。
 広場の後方には●「ほたて大橋」が架けられている。この付近の国道4号は、急カーブが連続し、道路幅員も狭く交通安全の確保が必要な箇所なので、バイパスが通された。平成19年7月31日の開通。橋の下に見えるのが「鴎島」。旧道は国道と併走し、青森市境を越え、●「浅虫交差点」で国道4号に合流します。 9:27

■浅虫交差点~浅虫駅
 国道右手にある赤い鳥居は●「八大龍神宮」参道入口で、急な階段を上がらなくてはいけないので、パスさせてもらった。 先の●Y字路で街道は左の県269号へ進みます。分岐の真ん中に「奥州街道碑」、「奥州街道図」があります。 ここで国道を渡って、対面の「浅虫さくら観光ホテル」脇へ行くと、後方に●裸島が見えます。対岸には「東北大学浅虫海洋生物学研究センター」がある。
 裸島には悲しい伝説が残っている。・・「昔、浅虫地区の里で、母親が赤ちゃんを木陰に寝かせ畑仕事をしていた。 その時、どこからともなく大鷲が飛来して、眠っている赤ちゃんを連れて飛び去ってしまった。 さらわれた赤ちゃんは裸島の頂上に下ろされ、大鷹はそこで羽を休めていた。  気づいた母親は狂乱して、素手で裸島の岩を登ろうとした。 必死で岩肌をひっかいたところ、滑らかな岩だった裸島も側面が欠き削られ、母親の血で染まり今の形になったという」・・。 ●青い森鉄道の浅虫温泉駅前を通過します。手前の高架橋は旧街道や国道と鉄道を跨ぐ歩道橋で、ゆうやけ橋と呼ばれている。  9:45

★浅虫温泉街
 浅虫温泉街に入ります。 浅虫とは・・その昔、布を織る麻を蒸すためだけに使われていた温泉を、 1190年にこの地を訪れた「法然」が、傷ついた鹿が湯浴みするのを見て村人に入浴をすすめ、以後「麻蒸」から「浅虫」へ転じた・・という説が流布している。  街道右手に●南部屋・海扇閣がある。 こちらは昭和25年開業と比較的新しい。 隣に「竹久夢二文学碑」があった。竹久夢二が、文通していた津軽少女と逢うために、浅虫温泉の仙波館に投宿していたという。 その先板塀の木造建築で風情のある●「辰巳館」
 線路を越えて左へ進むと、弘前藩本陣を勤めた●「旅館 柳の湯」。その奥に津軽藩が陣屋とし、天皇の行在所、版画家・棟方志功の常宿であった●「椿館」などが揃います。  9:55

■温泉街~
 手前左手に●浅虫源泉公園があり、「飲泉所、温泉卵場」、奥に「足湯」があります。源泉は94℃位あって温泉卵を作るのに具合いいそうです。 浅虫温泉由来看板 も立っています。街道に戻り、●温泉街を抜け、右手へカーブして国道へ合流します。右手海上に見えるのが●湯ノ島」で、火山活動で生まれた、特有の形をしており、正面に弁天堂があります。4月中旬には全島カタクリが咲き乱れ、時期にあわせてカタクリ祭りが開催されますという。 ●国道4号線を進むが、 この左の道が旧道のようで、前方の「善知鳥崎」(うとうまい)を越える山道となって、奥州街道の難所の一つだったとのこと。  10:08

      ~善知鳥トンネル
 左手に●陸奥護国寺の山門。本堂は石段を上がった上にある。 高野山真言宗の寺院で、 津軽弘法大師18番札所となっている。 四国八十八ヶ所を模した八十八ヶ所の零場が建立され、 浅虫の高野山として親しまれているという。 善知鳥崎を越える山道はこの参道から上がって行くようになっているが、途中の道筋は破壊されているという。 ●石段を上がった所から湾の方を見てみると、これが絶景で、湯ノ島、裸島、浅虫温泉街が良く見える。 国道に下りて、先に進むと●善知鳥トンネルが見えてきた。善知鳥崎を通る道は山越えの道と、このトンネルの右脇を通る、海岸沿いの道と二つあり、こちらを通る人も多いと云われていた。 10:26

■善知鳥トンネル~久栗坂
 というわけで●トンネル脇を通ろうとしたら、通行止めになっていた。前年に通ったという人の記録もあり、この道は明治に拡張され、天皇小休止跡碑などもあって、大丈夫だと思っていたので、ビックリです。 前方はヤブになっており、これが原因かと思って、ヤブこぎして突入しようかとも思い、また片側、海なので崖崩れでもあったらまずいとも、思って、突入はあきらめました。 右隅に●古戦場址の石碑がある。 ここは、文治5年(1189)鎌倉政権と奥州藤原氏の残党である大河兼任らとの間で行われた「大河兼任の乱」の古戦場跡といわれています。 しょうがないので、トンネルの中を通り、反対側に出て見ると●ヤブでぎっしり埋まっており、これは無理だということがわかりました。ちなみにストリートビューでは"こんな感じで "通れるようになっていますね。 ここのヤブの中に「兼任の乱」の案内板が立てられていて、草を払って撮りました。 トンネルを越えた先、●久栗坂(くぐりざか)交差点で右手、県道259号へ入ります。 10:48

■久栗坂~観音寺通
 県道に入り、すぐ右手に標柱"「蛇塚漁師新田村発祥の地碑 " 立って、昔蛇塚村を中心に、この辺りの村が合併して旧久栗坂村が出来たということらしい。 ●久栗坂集落も根井川に近づきます。●根井川河口付近。 正面は青森湾で、波消しブロックなど護岸がきれいに整備されている。 根井橋を越え、左に●「笊石漁師新田村発祥の地碑」が立つ。ここも蛇塚碑と同じような感じで、新田村が出来たのでしょう。標柱だけでなく、案内板もほしいところ。●観音寺通バス停の所を右に曲がります。 11:03

■観音寺通~
 ● 観音寺通りの集落。右手に●浄土宗観音寺。 慶安4年(1651)頃の開基という。境内入口右に●錦木之塚碑がある。・・天慶年中(940頃)、平将門に仕えた善知鳥文治安方の跡を追ってこの地に来た、安方の妻錦木はここで病没。村人はあわれんで塚を立てて埋葬した。・・という伝説がある。 その先に●不動尊と刻まれた石塔と鳥居がある。本堂は参道の上にあるらしいが、失礼した。  11:08

  ~野内
 集落を抜けて、県道に合流。右手に●川上神社の鳥居がある。 本殿は急な石段を上ったところにあるので、ちょっと止めときました。  江戸時代は観音堂で、神仏分離で際、高龗(おかみ)神を勧請し川上神社となった。鳥居右手に●嘉永元年(1848)の庚申塔がある。 その先、左手に●石造の弥勒菩薩像がある。道ばたに弥勒菩薩像とは珍しい。下に説明文が刻まれていて、風化して読みにくいが、・・青森市新町の住民が、一族の方の菩提の為に建立した・・とある。 この先野内に入り、30分も南下を続けて行くと、●二股に出て、旧道は右手を取り、青い森鉄道ガードを越すと次の「野内宿」です。  11:48 
80 野 内 宿
 小湊宿から4里10丁(16.77km) 「津軽三関」に数えらている野内関所があった場所で、反対側には支藩である黒石藩の番所があり、街道の両側で厳重な構えを取っていた。宿場内には弘前藩代官所も設けられ、行政的に周辺の中心地となっていた。

■野内宿入口
 青い森鉄道高架をくぐって●三叉路を左に曲がると「野内宿」に入るのだが、三差路を右へ進むと、●貴船神社の鳥居が立っています。大同2年(807)坂上田村麻呂が創建と伝わる。"社殿(祭神高龗神) "。 源義経が衣川の戦いに敗れ、北海道に渡る途中ここで海上安全の祈願をしたという伝説がある。 ●野内宿に入ると、左手に●野内番所跡の石碑と案内板が立っている。津軽三関(碇ケ関関所 羽州街道)・大間越関所 大間越街道)の一つとして重要視された。 明暦2年(1656)に黒石藩が立藩すると、黒石藩も道の反対側に番所を開き。奥州街道を挟んで両方で管理するようになったという。 又奉行所も設置され、町奉行2名、勤番目付1名が派遣されていた。  11:56

■野内~原別
 ●野内宿の町並み。 幕末の野内村は、小さな商店や農漁民の家など、戸数60~70軒であった。しかし享保2年から6年までの番所が調べた往来人数は月平均100人、1日あたり3人程度というから、規模が知れる。 右手に●赤地の鐘楼門を備えた浄土宗「当古寺」。創建は明暦3年(1657)、旅僧である助給が当地を訪れた際、霊地と悟り野内庵を設けたのが始まりとされ、津軽八十八ヶ所第二十四番札所にも選定されています 。野内駅前を過ぎ、野内橋から● 野内川河口を見る。 白鳥の飛来地として知られ、春先になると、 名物のシロウオ漁が始まるという。橋を渡ると、青森市野内から●原別になります。  12:26

■原別~造道
 原別川を渡ると、道は真っ直ぐに、●街道沿い立派な歩道ができており、 ところどころにベンチが置いてあるので、小休止に使わせてもらった。●沢田橋より赤川の河口側を見る。 赤川は上流から流れてくる赤土に由来するようで、両護岸が赤く染まって、中国の黄河風な感じ。 渡って●先の分岐は右側へ取ります。分岐点に「奥州街道碑」があり、●道造1丁目に入ります。分岐から先、少しばかり松並木が残っていたが、このあたりでは残っていない。 13:05  

★合浦公園
 ●合浦(がっぽ)公園内を直進します。 ● 合浦公園は青森市立の総合公園で、公園沿革  園が開園されたのは明治27年。旧街道を挟んで公園化されている。敷地面積は17ヘクタール。「三譽の松」中心に、桜の本数、670本、黒松700本もある。池の傍らに●公園の創設者である水原衛作、柿崎巳十郎のブロンズ像が建っている。公園が広すぎて、アングルが決まらず、石碑。歌碑、句碑なども沢山建って、見て回るだけで終わった。 

合浦公園~青柳2丁目
 合浦公園を抜けて進むと、●分岐となって、正面の林は「合浦西公園」、 旧街道は左側へ進む。 茶屋町の分岐も左へ取ると、正面に●堤川に架かる旭橋が見えてくる。 江戸時代は寛文11年(1671)に橋が架けられていたが、 それ以前は舟渡しであった。●旭橋より上流側を見た。橋だらけで、水面が見えないが、正面奥に八甲田山系が見えるところ、今日は曇りでほとんど見えない。 橋を渡り、信号を右折、●次の「交差点」を左折する。この所が青森宿の入口にあたる所で、左に曲がると莨たばこ町(青柳2丁目)に入ります。 13:52

81 青 森 宿
 野内宿から2里17丁(9.69km)。現在の青森市周辺は安潟と呼ばれる大きな潟であったが、寛永元年(1624)に青森湊が開かれると急速に開発が進み、弘前藩は寛文11年(1671)に御仮屋、貞享3年(1686)には町奉行所を設けるなど行政的、軍事的な拠点と位置づけた。現在の本町が青森宿の中心部で、多くの廻船問屋や豪商が軒を連ねていた。現在は先の大戦の青森大空襲と、その後の近代化により古い町並みは残っていない。

■青柳2丁目~本町5丁目
 莨町小学校前の歩道に「莨町」標柱が立って、● 莨町(現青柳2丁目)の町並。往時、多葉粉町 多葉香町とも書かれ、町名は煙草の商売が許されたことに由来します。 次に進むと「塩町」標柱が立って●塩町の町並。 ここも青柳2丁目の範囲内。江戸初期、町が出来て塩の販売許可が与えられ、後に宿や芝居小屋が作られ東北屈指の遊郭街として賑わったという。 右手に屋根に十字架を付けた、レンガ造りの建物があり、●「モルトン迎賓館」という結婚式場です。その前に、二つの顕彰碑があった。 福士幸次郎、寺山修司の2人です。「迎賓館」の2代前は「歌舞伎座」という映画館で、「寺山修二」はここで、中学時代を過ごしている。 さらに進むと、「本町」に入って、青森宿の中心地になる。 左手の ●「シャトー本町マンション」の前に「伊能忠敬」の顕彰碑が設置されている。 説明板 蝦夷地へ向う途中、 大町(現青森市本町5丁目)の西沢善兵衛宅に泊まって。油川へ向かっている。  14:05

■本町5丁目~安方2丁目
 右手に●青森県立郷土館。 三内円山遺跡の出土品や、 亀ヶ岡遺跡、八戸市是川遺跡等の資料が保存展示されている。 その先「県道18号」の広い交差点を渡り、●変形交差点に着くが、ここは旧街道の枡形になっていて、「札の辻」と呼ばれる。正面に制札場があり、旧道は右折して、すぐ左折する形を取る。 この辺が、青森宿の出口付近にあたる。 地名は、「安方」となり、安潟と呼ばれる大きな潟になっていた所です。手前の建物の前に●「棟方志功誕生の地」という案内板が立っている。説明板 左に曲がると●善知鳥神社があります。 14:20

★善知鳥神社
 善知鳥神社の●正面鳥居の右側には、"青森市道路元標 " と "「奥州街道終点記念の碑」"が建てられている。 長かった奥州街道もこの地点で終わり、ここから先の「三厩」までを外浜道とか、松前道と呼ばれている。 ●善知鳥神社は、青森市が善知鳥村と呼ばれていた第十九代允恭天皇の御代、善知鳥中納言安方が此の北国を平定し、奥州陸奥之国外ヶ浜鎮護の神として日本の総主祭神である天照大御神の御子の三女神を祭った事に由来する。 その後、坂上田村麻呂の東北遠征の大同二年(807)に再建された。祭神は「宗像三女神」である、「 多紀理毘売命」( たぎりびめのみこと)、「 市寸島比売命」( いつきしまひめのみこと)、「 多岐都比売命」(たぎつひめのみこと)。社格は「青森総鎮守」。境内に●当社。当地を詠んだ「菅江真澄歌碑」がある。 又この地は、かつて安潟(やすかた)と呼ばれる広大な潟があった所で、●神社内にある池は、その名残とされている。  14:27  

■善知鳥神社~青森県庁
 神社の南、「青い森公園」に行き、その南側、公園入口に、●国道の碑というのがあり、日本橋起点の「国道4号」と新潟市起点の「国道7号」の終点地とされる。その前、国道7号に面して●4号、7号の「表示ポスト」が立っています。 公園西側は●「青森県庁」であり、東玄関脇に●御仮屋跡碑があります。県庁一帯は御仮屋跡であり、 弘前藩は寛文11年(1671)外ヶ浜鎮守城として築城したが、一国一城令の為、廃城になり、御仮屋となった。 元治元年(1864)以降陣屋になり、明治4年県庁が置かれました。
 これで青森宿は海沿いの旧蹟を残しているけど、時間が半端で次回に回すことにして、新青森駅から帰宅しました。次回は最終ゴールの三厩宿までです。熱中症を避けて、9月下旬を予定しています。  14:45

 028野辺地~西平内