030 青森駅から郷沢駅へ      歩行地図
 青森駅-沖館油川-羽州街道追分-西田沢-津軽宮田-左堰-後潟-蓬田-郷沢駅   20.53km

2021年10月14日      ※ 写真をクリックすると拡大します
■青森駅~森林博物館
 東北新幹線で新青森駅、奥羽本線で1駅、青森駅に10時4分に着いた。2泊3日で三厩まで行き、街道による本州縦断完成させる予定です。出発が遅いので、青森港周辺、見て回ることはできませんでした。
 ●奥州街道は東から真っ直ぐ駅に向かっており、●駅舎で分断されてしまっている。多くの先人達は左へ曲がって、「あすなろ橋」へ迂回している例が多いです。が ここは●駅内連絡橋でつながっているので、ここを通るのも一興と思い、通ってみました。
 西口駅前一帯は工事中で歩けず、迂回しながら団地の脇を通り、「森林管理局」の中にある、「第一臨海橋」というのが旧道付近らしいのだけど、通るのをはばかり、左に迂回すると●「森林博物館」に出ます。 明治41年に建てられた ルネッサンス式木造建物の青森営林局庁舎を利用したという。   10:40  

■森林博物館~新井田橋
 ●沖館川に架かる沖館橋を渡る、正面に小さく渡されているのが、「第一臨海橋」。「沖館市民センター」を右折し、公園の手前を左折して行くと、●国道280号にぶつかり、ここが旧道との合流点になります。 ここから先●国道をひたすら三厩まで基本的に進むことになります。 奥州街道は青森で終り、青森から先は「松前道」や「外浜道」、「三厩道」などと呼ばれたようです。 国道1本といっても、国道が旧道のままというわけでなく、海岸線は変動しているし、渚や磯伝いのルートも多く、難儀する場合も多かったでしょう。 現在は国道を行くしかありません。●油川町の町並。 まだこのあたりは交通量も多く、都会の中という感じ。●新城川に架かる新井田橋を渡ります。この先が「油川宿」です。 11:10

82 油 川 宿
 青森宿から1里13丁(5.33km)。戦国時代は南部氏配下の奥瀬氏の城下町。その後津軽氏に変わっている。江戸時代は奥州街道と羽州街道都の合流点に位置する地の利や油川上人の努力で賑わいを続けた。しかし青森港や弘前城を優先させる藩の政策や明和2年(1765)の大火、大地震などで衰退していった。

■新井田橋~
 新井田橋を渡ると、青森市油川に入る。 右手の「青い森保育園」隣に、一切の衆生の病を除くことを祈願する●薬師瑠璃如来と地蔵堂がある。 その先右手の●ハッピードラッグは、大正7年、イタリア人・ジュセップ・ファブリーが建設したイワシ油漬缶詰工場の事務所兼邸宅「イタリア館」の跡地にあたります。 入口に"イタリア館の説明板 "が立っている。
 ●油川宿の町並。油川の地名の由来は、・・・その昔、油川川の上流に住んでいた鶴の親子が、ある年、野火が起こって、まだ飛べない雛鶴をかばいながら親子共々死んでしまった。このとき鶴の体から出た膏(あぶら)が川に浮かんで流れ出たことから、下流を「油川」と呼んだ・・・というような伝説がある。 先 左手に江戸初期創建と伝わる●明誓寺が建つ。    11:30

  ~神明宮
 「明誓寺」鐘楼の、右側に●「ジュセップ・ファブリーの墓」が建っている。 大正初期、輸出主体のイワシ缶詰工場を建設、後に牧場やトマト栽培も手がけた。 墓は缶詰工場のボイラーの上に十字架を立ています。横には顕彰碑もあります。 ふと、鐘楼の天井を眺めると●天井絵がきれいに残っているので、珍しいので撮っておきました。 寺隣は●油川神明宮(祭神天照大御神)、境内には●猿田彦大神の石像と、その両隣には猿が浮彫された石像が建立されている。こういう物はあまり見ません。  11:37

■神明宮~浄満寺
 油川宿には寺町のようにお寺が集まっており、北側の最後が●浄満寺です。山門は改修されたらしく、きれいに整備されている。寺宝の「釈迦牟尼如来坐像」は円空作ということだが、公開されていない。 境内には、寛永元年(1624)青森湊開発に尽力した、青森開港奉行の●森山弥七郎供養碑が立っている。 功労者の碑らしく、ガラス室に納まって保護されています。 本堂裏には天明3年(1783)の飢饉で餓死した人々を埋葬した●千人塚がある。  東北地方を歩くと、至る所で、飢饉で餓死した供養碑が見られます。天明飢饉では津軽藩で、82,000人、 油川とその隣の後潟地区でも、 全住民1万8600余人の3分の2が死亡したという。 千人塚の横には、●油川城主・奥瀬氏の墓碑が並んでいる。  11:51

 ■浄満寺~羽州街道追分
 その先、天田内川に架かる大浜橋の欄干に●イタリア館の銅板画が架けてある。 渡った左手に●菊谷栄文学碑というのが建っています。  "説明板 "によると、榎本健一(エノケン)時代の軽劇作家で、昭和12年華北戦線で戦死。 菊谷の墓は明誓寺にあるようだ。 街道右側に、●西田酒造店がある。 明治11年創業の、青森市唯一の酒蔵ということ。 西田家は、古くから麹屋を営み、江戸時代に油川に居を構えた。店前は雪から歩行者を守る「小店」と呼ばれる、新潟などで見られる「雁木」と同じような作りになってます。  油川は羽州街道との合流点でもあり、交通の要衝であったため、豪商たちが.屋敷を構え、 北前船の船乗りたちのための船宿や飲食の店があった。 明和2年(1765)の油川には、造り酒屋が11軒もあったというが、青森港優先させる藩の政策、大火などにより、次第に衰退していったという。 西田酒造店の所が追分になっており、●羽州街道・松前街道合流之碑が立ち、羽州街道の終点にあたります。 "説明板 "  羽州街道はここから「福島県桑折」まで約500Km、秋田、山形を貫き、奥州街道に次ぐ、主要な街道でした。  12:00

■羽州街道追分~油川駅前
 追分から羽州街道へ入って行くと、Y字路に●「羽州街道終点地伝馬町」という看板と、横に「伝馬町」という標柱が立っています。 江戸初期(寛文4年1664)伝馬派立地として開かれ、安永7年(1778)には戸数59軒あった。油川湊に諸国廻船の出入りが多かった安土桃山期から町内で最も賑やかな町でした。・・とある。 羽州街道は分岐点の右側へ進んでいます。分岐点、左手に●油川熊野宮神社の鳥居が立ち、本殿は少し先にあります。 ●奥州街道から羽州街道を見ると、案外狭く裏道という感じです。 その先●現在の油川中心部の町並。 少々の賑わいを見せています。 12:20

■油川駅前~西田沢
 油川宿の出口付近を右折した先に、●粟島神社(祭神少彦名神)。元和元年(1615)平井治左衛門が家内安全の為創建したと伝わる。淡島神という神を祀り、婦人病治癒を始めとして安産などに霊験のある神とされるが、明治の神仏分離により少彦名神等に置き変えられているという。 宿外れ、●浜田の町並み。 「西田沢バス停」の先を左折して進むと、●保食神社がある。食物の神、牛馬の神、五穀の神を祀る。 珍しいことに、豪華な装束を纏った●神馬像が両側にあった。  12:45

■西田沢~津軽宮田駅
 西田沢から●飛鳥地区に入ります。この辺りの地名の範囲は東西に長く、南北に短いように感じる。川に沿って発達してきたのかもしれません。 左に●西田沢小学校跡。明治10年創立と歴史は古いが、2020年3月末で惜しくも閉校。 その先、左手に●羽黒神社の社号碑が立つ。参道が真っ直ぐ延びているのだが、津軽線で遮断されている為行けません。江戸時代は羽黒権現であったが、明治初年の神仏分離で、 大山祇神社に改称、その後羽黒神社と改称されている。 その先左手奥に「青森市奥内支所」や「市民センター」、工場などがある割には、最寄りの●津軽宮田駅は全くの無人駅。 13:31

■津軽宮田駅~左堰
 駅ホームすぐ脇まで墓石が来ているが、隣の●清岸寺のもの。 この寺の阿弥陀如来座像は寺伝によると聖徳太子が生母供養のために刻んだものであるという。青森市の有形文化財に指定されているそうだ。  奥内川で●サギ?がちょうど飛び立つところを捉えた。 その先右手に●貝倉神社と書かれた民家がある。それ以外の説明は無く、民家が神社ではないようで、何だかよくわからないが、調べたところ、貝倉神社は、西側の山中にあり、御祭神はなんと珍しく七福神だそうで、御神体が貝の化石という摩訶不思議な神社です。 左堰地区に入り、右手に●翠雲堂 青森工場がある。仏壇や社寺建築を手がける会社。女優の「山口もえ」が社長の娘ということで有名ですね。 14:26

■左堰~後潟
 六枚橋川を渡ると、六枚橋字不浪知(なみしらず)という所。右手に見事な黒松の大木が1本。●昇龍の松という、 青森市の天然記念物に指定されている。 所有者である赤平家は、代々松前藩の参勤交代の時に宿泊所を務めた家柄であり、 藩主から功績を称えて、黒松の盆栽を一鉢贈られ、ここに移植したところ、 樹勢が強くそのまま成長して、現在に至るとのことだ。樹齢500年だという。"説明板 "   「後潟駅」を過ぎると、「尻八城址自然歩道入口」と書かれた大きな標識がある。尻八城は西へ4km程行った所に有り、遊歩道などが整備されているらしい。中世に交易などで活躍した「安東氏」一族の居城と推測されている。 その先、左に●「後潟小学校跡」。ここも 明治10年創設として古いが、2020年3月に閉校。  ●後潟の町並み。 左手を入った所に●後潟神社。後潟神社は、正安2年(1300)尻八城主・安東孫次郎師李が武運長久 領民の平穏祈願の為、安東氏の守護神熊野宮を勧請して祀ったと伝わります。 15:14

■後潟~蓬田駅
 「中沢駅」を過ぎると、「蓬田村」に入ります。 右手にいかにも●大きな茅葺きの農家であったと思う家が1軒。トタン板で葺かれていしまっているのが惜しい。 左手、蓬田保育園の園庭に●中沢小学校記念館の看板の架かる建物がある。小学校の何かだった建物だろうけど、小さくて、どこの部分だろうか。  ●蓬田村の町並。 ここで変なじいさまに捕まり、川崎で働いていたことがあるらしく、又政治好きで、関東の知事の給料の話とかに飛んだり、地域の話なら付き合うのだが、中々放してくれないので、電車に乗るので急ぐ等と言って、放してもらった。おかげで行く予定のない●蓬田駅まで行くことになりました。 役場のある駅なのに無人駅。
 駅舎はきれいです。蓬田宿に入ります。 16:15

83 蓬 田 宿
 油川宿から3里19丁(13.83km)。中世は安藤氏(安東氏)の支配。安東盛季の弟とされる潮潟通貞が蓬田城を築城した。その後南部氏、相馬氏と移り、戦国時代から津軽氏が支配し、江戸時代、奥州街道が整備されると蓬田宿が設けらた。本陣はなく正法院が松前藩主の休憩所として利用された。

★蓬田宿
 駅の回りには何もなく、町並は国道沿いにあるだけのような感じ。 ●正法院は参勤交代時の松前藩主の休憩所となっていた所。 阿弥陀橋の左手前に小さな「地蔵堂」、左奥に●阿弥陀稲荷神社があり、 "阿弥陀橋 " を渡ると、左手に●蓬田村役場がある。左手に郵便局があって、●右へ曲がるあたりが、宿の中心部になるのでしょう。 段々暗くなってきて、蟹田駅までは無理で、次の郷沢駅まで進むことにします。 16:25

■蓬田~郷沢駅
 蓬田辺りの海岸線は防波堤により、集落より遠ざかっているが、昔は波打ち際を歩いたと言われます。その防波堤から右手、『陸奥湾」を眺めると、●下北半島の突端が迫ってきており、雄大な眺めで、ちょっと感動しました。 蓬田の町並を抜け、●郷沢駅から青森へ戻り、「東横イン」に泊まりました。 17:00

 029 西平内-青森宿 031郷沢-平舘灯台