伊勢参宮街道 1 
  日永追分~津・塔世橋(神宮外・内宮)
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 日永追分-高岡橋-神戸-玉垣町-江島-白子-上野-栗真-江戸橋-津-塔世橋            29.1km

   伊勢参宮街道
 伊勢街道は、日永の追分で東海道から分岐して、伊勢湾沿いを南下し伊勢へと至る。
その距離およそ18里。日永の追分、白子、津、六軒、松坂、斎宮そして伊勢へのルートは近世にはほぼ固定され、幕府によって脇街道として整備された。   神戸、白子、上野、津、雲津、松坂、櫛田、小俣の各宿駅を経て、外宮、内宮に到達する。この道は主として江戸、東海方面から参拝する人々に使用され、途中で
   1 江戸橋で、関からの伊勢別街道が合流し、
 2 六軒で、あお越え初瀬街道が合流し、
 3 外宮手前で、榛原からの伊勢本街道が熊野街道と一緒
   となって合流している。       全74.1km

 参考資料
 みえ歴史街道 ウォーキング・マップ「伊勢街道」
 「今昔東海道独案内の中の 伊勢参宮街道 今井金吾」など

■日永駅~追分 ※ 写真をクリックすると拡大します
 2012年7月14日 近鉄追分駅 8寺47分到着 
 京都から名古屋経由で追分駅へやって来た。2泊3日の予定で内宮まで行きたいと思う。今日は津まで30㎞近くあるので、あまり寄道せずに、真っ直ぐ歩こう思う。梅雨あけでかなりガンガン照りになっている。
 ●近鉄追分駅脇を昔の東海道が通っており、ここへ来るのは4年ぶり。
 200mも行くと、●日永の追分に達する。ここには遷宮の際の払下げ材で20年ごとに建て替えられる、伊勢神宮の二の鳥居と、●嘉永2年(1849)建立の追分道標がある。「左いせ参宮道」、「右京大坂道」、「すぐ江戸道」と刻まれたており、江戸店を持っていた伊勢商人の「渡辺六兵衛」が寄付したもの。 またこの先常夜燈や道標が多く目に付くが、成功した伊勢商人の建立したものが多いとされる。       8:55

 ■追分~内部川
 
●県道103号を南下して行く。大治田の左手に●道標が4基あり、蜜蔵院への方向を示す。道標の間に壊れかけた地蔵尊像が立つ。やがて●県道との分岐点に来て、旧道は右手の古い方へ入って行く。
 ●内部川に突き当たった。昔は橋が架かっていたそうだが、今は左手にある河原田橋を渡るしかない。    9:21

  ■内部川~高岡橋
 橋を渡り、対岸を右折して、旧道付近へ戻る。左折すると、●川原田の真っ直ぐな道が続き、車の来ない、静かな落ち着いた街並みとなった。200m程の左手に●距離標がある。交番脇にあり、津の県庁前からの距離を示し、「津市 六里三十二町」などと書かれている。 900m程歩いて、県道103号を横切ると、鈴鹿市へ入った。続いてJR関西本線の踏切を横切り、その先●工事中の県道の高架下をくぐると、右手に●常夜燈が現れた。寛政11年(1799)建立。高岡橋北詰から鈴鹿川北岸堤へ移動されたもの。 9:48

  ■高岡橋~十宮
 
●鈴鹿川を高岡橋で渡る。ここを昔は高岡川と呼び、嘉永6年(1853)に木橋が完成している。それ以前は橋が無く、すぐに増水して、大変不便だったという。 渡って土手沿いに右折して行くと、●常夜燈がある。点灯のため、石の階段がついていて珍しい。文化4年(1807)の建立になる。常夜燈の先に続く●高岡の道はほぼ真っ直ぐで、古代条里制が残っているといわれる。
 十宮に入ると右手に●文化14年(1817)の常夜燈がある。  10:15

 ■十宮~神戸
 
道の両側に石垣の土塁が見えてくる。●神戸見付跡である。「神戸宿」の入口にあたる。駐車中の車がじゃまだけど、石垣の両側に柱が立って、宿の門があった。明治2年の絵図には見附の様子が描かれ、両側の石垣には木戸の柵を支えた溝までくっきりと残っているといわれるが、じっくり見たけど確認できなかった。左手には●「式内阿自賀神社」と書かれた社標がある。 見附の先、すぐ先右手に、●旧旅籠屋の「可美亭」という旅館がある。1階の連子格子、2階の手すりが旅籠らしい。今も営業しているとか。その外、 ●連子格子の家、うだつのある家も多く見られ、宿場らしい雰囲気を残している。   10:27

 ■神戸~専修寺神戸別院
 ●神辺宿
 町の西南に神辺公園があり、神辺城跡がある。弘治元年(1555)神辺利盛の築城によるもの。信長の侵攻を受けたが、その子信孝を養子に迎えて和睦した。その後、本多家の居城になっている。神辺の町はその城下町として栄え、伊勢街道の宿になっっている。 近鉄鈴鹿線を横切り、大橋を渡ると、道は二手に分れる。ここは高札場があったことから●札の辻と呼ばれる。正面にこれまた古めかしい、「あぶい」という旅館がある。その脇に●高さ3mの距離標と神辺町道路元標とがある。旧道はここを左手へたどっていく。左手に●真宗高田派専修寺神戸別院があり、明治天皇神戸行在所石標が立っている。明治の巡幸の際の記念碑。
10:50

 ■専修寺神戸別院~北玉垣町
 町並は東へ向い、左手に●巨大な常夜燈がある。嘉永2年に建てられ、明治に洪水で倒れたものを、昭和5年に再建したもの。その先、県道を越え、伊勢鉄道の高架下をくぐり、細い道に入ると、左手に鳥居と燈籠があり、山神が祀られている。国道23号を越え、右折して、●北玉垣の町へ入って行く。ここも古い家や蔵などが見られる細い道となっている。やがて●正信寺の前に突き当り、正面の家の塀の脇に、●文化4年(1807)の「右さんぐう道」と書かれた道標がある。ここを右折してすぐ左折する。
 11:42

  ■北玉垣町~北江島町
 
左折して行った先、「西玉垣町の信号の角に「左さんぐう道」と刻まれている、指さし道標がある。道標通り、左折して行くと、左手に●弥都加伎(みずかき)神社がある。非常に読みにくい名前である。式内社で、土を司どる神、大土御祖神を祀る。神社自体は新しく、コンクリート製。少し先へ行った、左手角に●弥都加伎神社への道標がある。明治2年勅使が派遣されたのを記念して建てられている    その先は、左に大きな●フジクラ鈴鹿工場を見ながらその横をずっと通る。ちなみにフジクラは光ファイバーや電線を作るメーカー。 右手に●「老農水原政次翁彰功碑」という石碑が立っている。弘化4年(1847)に生まれ、農業改良に力をつくし、県下初の農事試験場長になったという。やがて近鉄名古屋線を越える。    12:23

  ■北江島町~白子本町
 線路を越えた左脇に、●「北の端の地蔵堂」がある。鎌倉時代に作られた。その道路向うに、役行者神変大菩薩堂がある。 道は県道6号を一路南西方向へ向う。もう東方は「伊勢湾」だけど、海は見えていない。江島から白子に入る時、カギ型に左右に曲っている。●白子の町は「繁盛の湊也 江戸船積をする問屋多し。之を白子づみといふ 」といわれ栄えた町であった。この辺りは家の建ち方が直線でなく、ギザギザになっており、「防御を目的とした」とか、「大名行列が通る時に陰に隠れられるので、長く座っていなくてよいから」などといわれている。このような作り方は中山道の「坂本宿」、甲州街道の「韮山宿」などでも見ている。●連子格子にうだつが上がる家があったりで、昔ながらの古い町並が続く。    12:57

 ■白子本町~子安観音寺
 
道は黒壁の家の所で突き当たり、右折してすぐ左折する。その左折する所の右角は高札場があった所。左折したすぐ左手の●東公園前に「旧河藝郡役所跡」の石碑が立つ。明治時代「河芸郡役所」が設置され、大正時代は家事裁判所が置かれた。
 和田橋を渡って行くと、右手に久留真神社(くるま)がある。祭神は大国主命で式内社。参宮街道筋の総社にあたるという。唯信寺の角を右折し、すぐ左折する。●その左折する角の黒塀の前に●道標がある。「さんぐう道」、「神戸四日市道」と刻まれ、それぞれの方向を示す指が描かれている。案内板によると、この付近は曲がり角が多いので、ここの和田栄さんの先祖が道標を建てたが、再三再四倒され、昭和30年代にいまのように建て直したので、もと3mあったのが2mになっているとのこと。
 釜屋橋を渡ってから、右折して●子安観音寺への道を通るが、わかりにくかったので1本ずつ奥を確認して、突き当りに寺があるのを見てから右折して行った。    13:35

  ■子安観音寺~蓬莱橋
 
●子安観音寺は聖武天皇の勅願寺で、天平勝宝年間(749~756)の創建。仁王門が県の文化財、銅燈籠や三重の塔がある。ここの不断桜は有名で、四季を通じて葉が絶えず、花も春秋冬の三季に咲くといわれる。
 門前の前を南下し、●突き当りの角、左手に割れて補強してある●道標があり、「左 くわんおん道」、「右さんくう道」と刻まれている。道はここを右斜めに入り、すぐ先の●道標がある所を左折する。高さ62cm程で、「左いせみち」、「右くわんおん道」と刻まれ、また道標の頂上部分と北面のすりへったくぼみは、型彫りに使う砥石をならした跡といわれていて、この付近には伊勢型紙を彫る職人が多く住んでいたあかしであるという。道は大きく弧を描いて、蓬莱橋の手前を右折して行くが、橋手前、左手にも●道標が立ち、「右 いせみち」とある。    13:53

 ■蓬莱橋~東千里(ひがしちさと)
 
道は蓬莱橋を渡らず、手前を右折して、堀切橋を渡り、川沿いに右折して行く。●磯山の町を南西に真っ直ぐ進む。磯山は立場で茶屋などがあった所。何軒か古い民家が建っている。●「中ノ川橋」手前で、国道23号へ合流して、橋を渡って少し国道を進む。「東千里」交差点で国道を越え、近鉄名古屋線の踏切を横切って、東千里の町へと入っていった。
 右手に●甕釜冠(かめかまかぶり)地蔵堂があるのだが、改修工事中でじゃまするわけにいかず、眺めただけ。この地蔵堂は、参宮道者の無事を祈願し、茶を接待した所だったという。    14:40

 ■東千里~上野
 
道はその先二叉になり右側を進んで、千里駅を越え、更に国道23号を越えてから左折する。田中川を大蔵橋で渡り、●上野の町へ入る。 上野宿があった所で、宿の西方に「上野城」があり、宿が開かれた。連子格子の家や、旅籠風の民家が沢山建って気持が良い。しばらく進んだ、左手に●弘法井戸がある。この辺りは、上野宿の中心で、本陣、高札場、問屋、脇本陣があったという。
 その先上野住吉町の左手に●「道路元標跡」という新しい石柱が立っている。大正2年に三重県が建てたもので、「白子町へ壹里参拾壹町九間 上野村」などと書かれている。現物は木製四角柱で、損傷が激しいので、中央公民館に保管されているという。    15:25

 ■上野~河芸町・中瀬
 
旧上野宿をずーっと歩いて行き、●河芸交番前で国道に合流し、国道を渡る。●中瀬の町に入った。ここの町並は切妻の妻の部分が街道に面し、一種独特の雰囲気を醸し出している。右手に高山地蔵尊がある。上野城時代に罪人を処刑する場所であったといわれ、地蔵は処刑された武士の霊を慰め、不慮の災害に遭った人の菩提を弔った。
 そのまま真っ直ぐ進み、「中瀬」の交差点で、国道号に合流する。手前で左折して行くと●「ぢ神社」という珍しい神社がある。もとは地の神を祀っていたものと思われるが、今では痔の神となっている。    15:55

 ■中瀬~栗真小川町
 
国道に戻って、そのまま進み、●上小川付近で右の旧道へ行き、●栗真小川町へ入った。ここも前と同じように切妻屋根が街道に面し、連子格子の民家が多い。出歩く人も見あたらず、静かなもの。
 その先左手に●逆川(さかがわ)神社がある。南側に流れる川が逆の方向に流れているのでこの名があるとか。 16:30

  ■栗真小川町~栗真町屋町
 
この先は県道と国道を左へ斜めに横断して行くのだが、国道は横断できないので、「栗真中山町」交差点へちょっと迂回してから、斜め左へ続いている旧道へと進む。●栗真町屋町の中を進んで行く。栗真町屋町は昔「根上村」と呼ばれ、根のまたをくぐれるくらいの松の大木があったという。
 やがて左からの道と合流する。この道は巡礼道と呼ばれている。この●追分に名残松と常夜燈、道標がある。常夜燈は高さ4.2m、天保10年(1839)のもの。道標には「右 白塚豊津道、左 上野白子神戸四日市道」とある。
 この先右斜めに曲る所の空地の中にも●常夜燈がある。深い彫りの山燈籠である。   17:00

  ■栗真町屋町~江戸橋
 ●三重大学前で国道と合流する。続いて賑やかな国道を進み、国道に架かる「新江戸橋」手前で、右手の旧道へ入ると、赤い欄干が特徴的な●「江戸橋を越える。橋台こそコンクリート製だが、回りは木製で雰囲気が良い。江戸からの入口ということでこの名がついた。渡った所が伊勢別街道の追分で、●常夜燈と道標が立っている。京からの伊勢参りは東海道を使用して、鈴鹿を越え、関の追分から伊勢別街道に入ってここで参宮道と合流している。この常夜灯は安永6年(1777)嶋田氏個人の寄進によるもので、市内最古のもの。道標には「左 高田本山道」とあり、高田本山とは伊勢別街道の、一身田にある、真宗高田派本山専修寺のことをいう。伊勢街道には真宗高田派のお寺が結構目についた。    17:18

  ■江戸橋~上浜町
 追分のT字路で左に曲がる。●津の町に入って来た。「津は七十二町と云う。工商軒をならべ、繁花富饒の地也。ここを津と云うは・・・・」といわれた津は藤堂氏の城下町だった。●黒板塀に黒の漆喰壁の藏屋敷。家の軒には雨除けの幕板を備えた家など古式豊かな屋敷が並んでいる。 右手に卯建の上がった商家がある。●阿部喜兵衛商店で、味噌・醤油の醸造元。典型的な大店の商家建築として、津市指定文化財。   17:23      

  ■上浜町~塔世橋
  ●津の宿内を進む。結構古い家が続いている。道は津の中心街の●栄町へ入る。右手に津の駅がある。このあたり駅前通りで、さすがに古い家が続くという訳にはいかない。津の町は戦災で町の中心部が焼けて、古い建物は残されていないという。やがて安濃川に架かる●塔世橋へぶつかった。当初は橋はなかったが、延宝3年(1675)には架橋されたという。幕末までは土橋で一度河原へ下りてから橋を渡っている。
 さて夕方も6時になり今日はこの辺で終ろうということで、ホテルは橋手前の「ビジネスホテル三徳」でちょうど街道脇にあって、都合良く。料金も2食ついて、6,500円という民宿並の安さ。当然食事は豪華というわけではないが、適量で良い。18:00

      2 津~櫛田駅    3 櫛田駅~外宮・内宮