伊勢参宮街道 2 
  津・塔世橋~櫛田駅(伊勢神宮)
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 塔世橋-観音寺-岩田橋-閻魔堂-垂水-髙茶屋-雲出-三度川-市場庄-松坂-垣鼻町-上川-櫛田駅    25.2km


 2012年7月15日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■塔世橋~観音寺
 宿泊していた「ビジネスホテル三徳」が安濃川のすぐそばで、チェックアウト後、すぐ●塔世橋を渡って国道23号に出た。少し行って、歩道橋の先を左折する。国道を離れて北町津に入り、右折して、左折して行くと、●大門商店街のアーケードにぶつかった。十字路の左角に●「右さんぐう道 左こうのあみだ」と刻まれた道標がある。 ここを道標に従って左へ行くと、「津の観音さん」と親しまれているという●「津観音」がある。正式には「恵日山観音寺」と言い、真言宗の古刹。  8:41

 ■観音寺
 
日本三大観音の一つといわれ、本尊は阿漕浦の漁夫の網により出現されたという、秘仏の聖観世音菩薩である。和銅2年(709)の開山であり、秀吉、藤堂家、徳川家などの帰依を受けていたが、●慶長18年建立の本堂など41棟もあったという伽藍は戦災で焼失し、コンクリート製に変ってしまった。しかし境内には●元和3年(1617の銅鐘寛永5年(1628)の銅燈籠天保7年(1836)の銅造水盤などの古いものが残っている。銅鐘は鐘楼が戦災で焼けてしまって、銅鐘のみが残った。

  ■観音寺~岩田橋
 
寺を出て、●参道となるアーケードを南下して行く。商店街は朝市かなにかで出店の準備で忙しそうだ。アーケードを出た通は●旧宿屋町で、かつて旅籠屋や商店で賑わっていたところだそうだが、古い家は残っていない。ヘヤーサロンの所を右折して、左折するが、昔は左折してから真っ直ぐ、岩田橋へ向っていたようだが、今は道がないため、一旦県道へ出てから、国道に入って●岩田橋を渡る。岩田橋は今よりは50m程下流にあり、東の江戸橋に対する西の「見付」とされた。  8:58

  ■岩田橋~南中央
 
岩田橋を渡って、国道23号の●左側の歩道が伊勢街道といわれる。右手にある●浄安寺は浄土宗の寺で、山門に梵鐘が架かっている。 岩田町交差点の角で、左斜めに入る。●「旧町名 立合町」を通って行く。立会町の由来は米相場の立会所があったからという説があるが、地名の説明標柱では否定されている。   9:11

 ■南中央~閻魔堂
 
街道がいくつかに分岐する左手に●閻魔堂がある。正式には真教寺といい、藤堂高次が建立。本尊は閻魔大王の坐像。当時この辺りが町のはずれで、角町の守護として建てられた。左隣に●延命子安地蔵尊がある。地蔵3体を祀る。右隣は●市杵島姫神社がある。元は伊勢国司、北畠氏の守神。境内に樹齢400~500年のイチョウの御神木があり、戦災の時に木からもうもうと湯気のようなものが立上り、神社を焼失から守ったという。このあたり街道の名所の一つで、そば屋や茶屋で賑わったといわれる。
 9:24

 ■閻魔堂~八幡町
 
街道は閻魔堂の前を一路南下していき、●八幡町へ入る。●連子格子に、うだつのある古い情緒ある家並が残っている。
 左手に●地蔵堂がある。松源寺入口にあり、弘法太師の作といわれる地蔵を祀る。宝暦年間(1751~)松源寺に立ち寄った後に、富士参りに向かった、度会郡の人が富士山中で道に迷っていると、旅僧に姿を変えた地蔵に助けられたという伝説がある。少し先の右手に「明治天皇八幡町御小休所」という石標が立つ家があった。   9:38

 ■八幡町~垂水
 
八幡町の先は藤枝町で、茶店やそば切などがあり、妓楼も立並んでいたといわれた。当然の如く、全く面影はない。
 やがて右斜めに曲がって行き、ここを●左斜めに入って行く香良洲(からす)道との分岐点に出る。香良洲道は香良洲神社を経由して六軒町近くの「市場庄」で合流する。伊勢参宮の往路、帰路に香良洲神社に参詣するのが普通で、参宮客で香良洲神社に参らない人は、この分岐点で遥拝して街道を進んだという。この追分には●「思案橋」という小さな橋が架かり、藤枝と垂水の境界にあたる。欄干下の側面部には、松・扇・梅が浮き彫りされている。遊郭があったという名残の一つ。
 道は国道、JR紀勢本線を越え、●三叉路の交差点に来る。寛永9年(1632)以前の古道との合流点である。 9:54

  ■垂水~髙茶屋2丁目
 
三叉路を左折すると、●成就寺があり、石段左手に「大日如来出現所香水道是従四丁」と書かれた道標がある。成就寺は規模の割には歴史が古く、行基)が伊勢参宮の途中、この辺りの山中より仏像を掘り出し、堂を建て安置したという。
 南昌寺、須賀神社などを見ながら進み、「藤方」へ入った。右手に●明和元年(1764)の銅製の常夜燈がある。手前に「式内加良比之神社」と書かれた石標も立つ。 ここを右に入って行くと加良比之神社がある。
 やがて相川橋を渡ると「高茶屋」となって、●高台となる辺りは桜茶屋と呼ばれて、昭和20年頃までは茶店が数軒残っていたという。   10:28

  ■髙茶屋2丁目~髙茶屋1丁目
 
●天神橋を渡るとすぐ右手に●称念寺があり、石段前に●常夜燈と●薬師堂がある。薬師堂の所に円光大師 津 二十五霊場の石柱が立っているが、円光大師とは浄土宗開祖の法然のこと。  10:43

  ■髙茶屋1丁目~島貫町
 
右手に●高茶屋神社がある。高茶屋神社は十社の森と称され、街道の勅使休憩所として使われた。鳥居前にも文久3年(1863)の常夜燈がある。 街道は高茶屋駅の南で紀勢本線の線路を越える。水田の中を進んで行くと、右手に●山の神が4基建っている。
 やがて街道は●島貫町へ入った。昔の雲出の宿があった所。今も古い家並を残している。  11:22

  ■島貫町~雲出橋
 
島貫の集落中央あたり、左手に●「史蹟 明治天皇島貫御小休所阯」と書かれた碑がある。明治期まで本陣「柏屋」があった場所という。その先左手に●「神明道」と刻まれた道標がある。上部が少し欠けている。
 やがて雲出川に突き当り、ここを右折する。昔はこの突き当りの地点と、現在の雲出橋との中間点あたりに、渡し場があったらしい。現在の●雲出橋を渡って行くが、橋の北詰と南詰に、それぞれ●常夜燈が立っている。両方とも昔の渡し口の地点から移設されており、南詰の方は、昭和19年東南海地震で崩壊し、再建されている。   11:43

 ■雲出橋~肥留町
 
雲出橋を渡り、昔の渡し口のあたりまで土手を左折して戻る。雲出川の真ん中が松坂市との境界になっている。●小野江の町に入って来た。●旧宿場だった名残の屋号があちこちに架かっている。
 左手に●「松浦武四郎誕生地」の標柱のある家がある。黒板塀の風格のある立派な家である。北海道という名前の名付け親である松浦武四郎の生家で、武四郎は探検家で、蝦夷地を探検し、北海道という名前を付けた。
 肥溜町に入り、左手の金剛寺の所に●常夜燈がある。文政7年(1824)に建立されたもので、元は北へ1.5kmの所の石垣の上に建っていたというもの。   12:24

 ■肥留町~中林
 
その後小川を一つ越え、水路沿いの道になった。香良洲道の合流点の所に道標があるはずのところ、よくわからず通り過ぎてしまった。 やがて右手に大きな道標がある地点へ来た。●月本追分という所。奈良街道と伊勢街道の追分にあたる。右から来ているのが奈良街道。右角に●伊勢街道最大の道標が立つ。高さ310㎝もあり、天保13年(1842)の建立。「月本おひわけ」、「右いがご江なら道」、「右さんぐうみち」、「左やまと七在所順道」と刻まれている。●奈良街道側から見ると、左手に常夜燈が見えている。
 追分の先左手に「右からす道」と刻まれた道標がある。からす道をちょっと入った所に●勅使塚という石碑が立っている。大正8年建立のもので新しいが、吾妻鏡の中に、源氏追討の祈願のために伊勢神宮に向かった勅使大中臣定隆が「一志駅」で急に亡くなったことが記されており、それを基に碑が造られたという。  12:57

 ■中林~三度川
 
その先、斜め左に曲る角に、第61回神宮遷宮を記念して地元の人が建てた「左さんぐう道」「右津みち」と刻まれた道標と、常夜燈、山ノ神がある。次の右折する角にある●「中道公会所」の前に常夜燈、●「右さんぐう道」の道標●金毘羅大権現などが並べられて置いてある。 「中道公会所」を過ぎて、国道の高架をくぐる。一里塚があるらしかったが、わからずそのまま通り過ぎた。右手にJR六軒駅があるあたりを過ぎる。
 先の左手に細長い●入母屋型竿長の常夜燈●道標が現れた。常夜燈は明治45年の建立のもので、明治の終わりごろ、鉄道の参宮線が開通しても、白装束姿の旅人は六軒駅で降り、この曲がり角を通って伊勢まで参宮したそうです。道標には「右松阪及山田・・ 左津及香良洲・・」と刻まれているが、下部が埋められてわからなくなっている。  13:20

 ■三度川~初瀬街道追分・六軒町
 
しばらしして●三渡(みわたり)川を渡る。中世に渡し口が3ヶ所あったため三渡の名が付いたという。別名涙川ともいう。
 橋を渡ると、●青越初瀬街道との追分になる(写真は渡ってから後向)。右手に●大きな道標が立ち、「いがごへ追分 六けん茶や」、「右いせみち 六軒茶屋」と彫ってある。左手には●文政元年(1818)の常夜燈がある。ちなみに、青越初瀬街道は大坂の玉造神社を発し、奈良、長谷寺を経由して来る道で、7月30日に到着して、現在HP作成中であります。  13:34

 ■六軒町~市場庄
 
六軒町を南下する。右手の町屋は●屋号「「大坂屋」の看板が下がり、連子格子にうだつがある。六軒町は雲津、松坂の中間に位置する立場で、伊勢音頭に「明日はお立ちか、お名残おしゅうや、六軒茶屋まで送りましょう・・・・」と歌われたほど賑わった町だった。各戸に屋号が掲げてあり、往時を偲ばせる古い情緒ある町並みが続いている。
 左手に●菜乃穂という看板の和食の店がある。町屋風で感じの良い店だったが、祭の準備とかで閉店しており、残念。で、このあたりはもう市場庄町で、六軒と市場庄との境がよくわからない。
 左手の連子格子が特徴的な古い民家は●淸遠堂の看板が下がっている。その先左手角に●「忘井之道」の道標のあるT字路へ出た。ここを左へ行く。   13:48

  ■市場庄~久米
 
左に100m程入って行くと、●史跡忘井がある。斎王巡行に随行してきた女官、「甲斐」が詠んだ和歌。・・・「別れゆく都のかたの恋しきにいざ結びみむ忘井の水」・・・・と書かれた歌が標石に刻まれている。
 近鉄山田線のガードをくぐる。左手に「格子戸の町並み案内」といって、六軒から久米にかけての案内板が立っている。
 街道は●久米の町に入るが、あいかわらず妻側が街道に向って建っている家が多い。
 左手に●なまこ壁の堂々とした長屋門のある立派な屋敷が現れた。藤堂藩の城代家老や御典医を勤めた家柄だそうだ。 14:18

 ■久米~松坂大橋
 
左手に「松ヶ崎駅」がある辺りでは、慶応3年頃に建てられたという民家の軒先にはのぼりを立てるための石柱があちこちにたっている。明治維新と何か関係あるのだろうか。県道手前、左手に古川水神がある。常夜燈や道標が沢山立っており、いちいち記録していくことが難しくなってきた。
 JR名松線の踏切を渡った右手に●薬師寺がある、山門が立派だが、かなり痛みが来ている感じだ。寺の先、船江町にかけて道が鍵型に何回か曲っている。曲り終えた所は●川井町で、黒門があり、宿としての松坂の入口にあたる。昔は「・・・酒楼妓院軒を並べて絃歌湧くが如く・・・・」といわれたように賑やかな町並であったという。 ちょうど松坂神社の祭礼で、御輿の先導車が通過していった。  真っ直ぐ900m程行くと、松坂大橋にぶつかり、橋を渡る手前左手に昔の面影を残す●須川屋金物店がある。 15:00

 ■松坂本町、中町、愛宕町
 松坂大橋を渡ると、●本町、昔の松坂本宿に入る。道がベージュに舗装され、いかにも歴史を感じさせる趣がある。町としての歴史は天正8年(1580)織田信雄が松ヶ島城を築城したことに始り、 その後蒲生氏郷が松坂城を築城し、近江の日野から商人を連れてきて町造りを行った。こうして商人の町として発展していく。町に入ってすぐ左手に●松坂商人の館がある。豪商、小津家の屋敷で、旧小津家は江戸時代に三井家、長谷川家、長井家等と共に、いち早く江戸に進出して財をなした、松坂屈指の豪商であった。現在は資料館として公開されている。 道を進むと左手に●「三井家発祥の地」という標石のある家がある。いうまでもなく三井の先祖が住んでいた跡で、三井家の租といわれる、高利の祖父高安は近江佐々木氏の武将で、三井越後守といい、信長との戦いで敗れて|伊勢松ケ島の郷士となる。4男高利が江戸日本橋に越後屋を開いたのが三越の始まり。ここは内部非公開。  15:05

  松坂はまことに史跡の多い町で、「松坂城跡」、本居宣長関連の旧蹟などがあちこちある。全部見たいところ、そうもいかず、先に進まないといけないので、街道に沿った所だけに留めることにした。
 右手に入った、魚町に入ると、江戸時代そのままのような町並みが続く。左手に三井に続く豪商●長谷川家。見事なうだつと連子格子、豪壮な店構などそのまま残っている。
 長谷川家の前に、●本居宣長の旧宅跡がある。宣長はここで医者を開業する傍ら、「古事記伝」などを著した。旧宅そのものは「松阪城」内に移設されて、ここには長男春庭の家と本居家の土蔵が保存されている。
 街道に戻って進むと左手に松坂肉で有名な●和田金の店がある。ウん十年前に来たときは木造の二階建の店であったような記憶があるけど、堂々たるビルになっていた。  15:20

  和田金の先は●中町で、松坂神社の祭礼の為、露店が立並び、人があふれていて、街道歩きの人間など場違いな感じ。2,3道標などあるらしかったが、見あたらず、さっと通過した。
 愛宕町に入った。愛宕町も「桑名屋」などの遊郭が集中していたといわれるが、全くその面影がない。その点が西の川井町と大違いである。 右手に●「小津安二郎青春館」という、大正から昭和初期の映画館をモデルに再現した資料館がある。小津安二郎監督関係のビデオ、資料を展示している。監督の松阪の実家跡だそうだ。
 ●垣鼻町交差点を右に入る。松坂宿の出入口にあたり、結構歓楽街があったようである。  15:55

 ■垣鼻町~上川町
 
名古須川を渡ると●信楽寺がある。門前に珍しく仏足石を彫った石柱が立っている。天明5年(1785)、広瀬永正寺の僧、天阿上人の建立による。仏足石は都市に近い村里には珍しいという。隣に閻魔堂があり、堂内で閻魔が赤い顔して睨んでおる。
 寺の先左手には●神戸神社があり、こんもりとした森に囲まれ、本殿が白亜に塗られている。
 金剛川を金剛橋で渡り、先に進む。このあたり真っ直ぐな道が続き、「徳和畷」と呼ばれ、白酒を名物とする店が数軒建並んでいたという。 その先極門橋を渡った右手に●常夜燈がある。文政12年(1829)に江戸干鰯問屋等の寄進によるもの。
 JR紀勢線「徳和駅」真近の踏切を越える。左手、真盛川という小さな川の土手には、●明治13年建立の女人の供養塔がある。由来などはわからない。   16:22

 ■上川町~近鉄櫛田駅
 国道42号を過ぎて、右手に「禁酒の神 沖玉夫婦石」と書かれた石碑がある。●上川町へ入った。上川町は連子格子の家が続いている。左手に弘化3年(1846)建立の●「従是外宮四里」と刻む道標が立っていた。いよいよ外宮まで16km位までに近づいた訳だ。 右手奥に●願證寺がある。参道の古い石橋が印象的。
 さて豊原町へ入って来たが、時間も遅く、そろそろ切上げようと思ったが、ちょうど左手に●近鉄「櫛田駅があるので、「豊原南信号」で本日はやめることにした。明日はいよいよ外宮、内宮へ達します。 櫛田駅から松坂に戻り、ホテルは松坂フレックスホテルという所。   17:15

     1 日永~津   3 櫛田~外宮・内宮