川越・児玉往還を歩く 2 
        (高坂~奈良梨)
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 高坂駅-西本宿-都幾川-川北-唐古中央-上唐古-菅谷-志賀-中爪-下横田-奈良梨     14.56km


2016年7月3日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■高坂駅前~高済寺
 東武高坂駅に8時半頃到着。●駅前から真っ直ぐの交差点へ進み、歩きを再開する。高坂は児玉街道の宿場であって、また八王子千人街道の宿場でもある。南北に展開しているが、当時の面影はあまり感じられず静かな家並みが続く。すぐ左手に●大きな旧家が一軒ある。まるで名主の様な感じの建物で蔵も付属している。少し行った右手一帯は高坂氏館跡で現在は●高済寺敷地になっている(写真は2015.9.22の時のもの)     8:50

■高済寺~高一会館
 その先右手に●●道標が2基立つ。ここを入る道は現在は舗装されきれいになっているが、八王子 千人同心街道へ続く道であって、都幾川の高坂の渡しへ通じている。左の道標は以前来た時は左側に立っていたものだが、道路の改修の関係か、右側に移されていた。安永10年(1781))のもので、「右 日光 よしみ いわどの 道」など、 右の方は道標を兼ねた廻国供養塔で、嘉永7年(1854)のもの。「右 松山 行田 熊谷」などと刻む。
 先に進んで、「東松山橋南交差点」手前の細い道を左へ入る。県道を渡り尚奥へ進むと、右手に●高一会館・公園があり、旧蓮台寺跡ということで奥は墓地となっている。入口左手に●馬頭観音、供養塔、庚申塔などがある。 先に進み、東武線の踏切を渡って都幾川の土手を下りて河川敷の旧道へ進んで行く。   8:55

■高一会館~西本宿悪戸
 川原に下りると道は●二股に分かれる。旧道は真っ直ぐ進む。この分岐点に道標を兼ねた●石橋供養塔がある。文政2年(1819)のもので、「左 ちちぶ 小かわ」、「右 やきゅう」と刻まれている。
  この先は都幾川の●河川敷を進むようになる。両側が水田でとても河原敷の感じがしないが、それでもここが旧道だということだ。大きく二つ弓状に進むと正面に大山灯籠、地蔵・馬頭観音などがザクザクと並んでいる。●悪戸の石造物群という。 県道へ出てからしばらく県道を進んで行く。  9:12 

■西本宿悪戸~川北公会堂
 県道を400m程進み、又河原へ下りて行く。都幾川橋をくぐった先にかっては天神川原の渡しと呼ばれる渡し場があった。現在は川幅がせまくなり、護岸工事などがあって、当時の正確な位置はわからなくなっている。●渡し場のあたり
 現在は東隣の唐子橋の歩道へ土手から上がることができるので●唐古橋を渡る。橋を渡ったら川の方へ戻り、都幾川土手伝いに渡し場があった辺りへ進む。河原には寛政と天保の馬頭尊があるらしいが、灌木で埋まり河原へ出ることはできない。渡し跡から●川北の集落へ続く道へ入る。川北公民館の隣に●石仏群がある。    9:40

 ■川北公会堂~八幡神社
 その先自動車工場の隣に●明治32年の大山燈籠が立っている。道なりに行くと県道344号に出る。北方の国道254号の北側には青鳥城跡があるようだが、ちょっと離れているのでパスする。頼朝や日蓮が佐渡へ配流された際一泊したという城である。
 県道344に出たら左折して、 高橋モータースの先で左に少し●旧道が残っているので通っておく。 直ぐに元の県道に合流するが、合流点に●弘化4年(1847)の大山燈籠が立つ。 旧道は合流したらそのまま県道を横断して、食品工業の裏を回り込んでいるというが、道が残されていないので県道を左折して進んで行く。その先の交差点には●若宮八幡神社の鳥居が面して立っている。   10:00

 ■八幡神社~唐古神社
 ●若宮八幡神社の社殿は若宮八幡古墳という円墳上に乗っている。墳丘脇に●石室が開口している。6世紀末~7世紀初頭の築造と考えられている。神社自体は慶長元年(1596)に鶴岡八幡宮から分祀されたと伝わっている。
 神社の横参道から県道に下りて、唐古中央公園へ進んで行く。 唐古中央公園信号の右手民家の塀がへこんでいて、そこに●安永8年の馬頭観音がある。 公園の南方に●唐古神社があるので寄ってみた。創建は応永18年(1411)で、秩父郡の椋神社の分霊を祀り白髭大明神とと称したが、地元では「唐子のお諏訪様」の名称で 呼ばれているという。夏と秋祭りに奉納される獅子舞が有名だそうだ。   10:30

 ■唐古神社~上唐古北交差点
 県道へ戻って先に進むが、●丸木美術館は左へという看板があった。左手奥400mくらいの所だから寄って行くのも可能であったが、一応パスしておく。 その先、浄空院への入口の所に●(文化5年(1808)) 千部供養塔がある。ここを左へ入って行くと、浄空院があるが、その入口に●天保4年の馬頭観音が建っている。道標を兼ねていて、「右 川越道、左  松山道」と彫られている。
 供養塔から200m程で「上唐古東」交差点になる。先ほどの馬頭尊はここにあったらしいという。
 国道沿いに「白山神社南交差点」、「上唐古交差点」と進む。左から県道172号線が合流している。この合流点に石仏群があると報告書にあるが、確認できなかった。その先10分程で●「上唐古北交差点」に達する。 国道254が交差している。左へ進めば、国立女性教育会館、畠山重忠で有名な「菅谷館跡」がある。街道は真っ直ぐ進み、嵐山町菅谷へ入って行く。   11:25

■上唐古北交差点~武蔵嵐山駅前
 嵐山町へ入って左手奥、国道に面した所に●稲荷塚古墳がある。今回は行かなかったが、全館鎌倉街道を通った時寄っているので紹介だけしておきたい。6~7世紀の古墳で、横穴が開いて当時の状況がよくわかるの貴重な史跡となっている。
 先に進むと左手に有名な和菓子店があり、その前面に「菅谷第一尋常高等小学校跡」という石碑が立っている。その奥が●墓地になっていて、「多田堂」という寺院があった所。その墓地脇に小川町下里に産する「下里石」を使用した●大きな石碑がある。なにやら文字が刻まれている。全く読めないが、畠山重忠の文字もあるらしい。 このあたりに南方から鎌倉街道上道が合流して来て、児玉街道は児玉町を過ぎるまでほぼ上道と重なっている。上道は一度通っているのでこれから先は二度目の歩きとなるわけだ。
 11:50

■武蔵嵐山駅前~嵐山三叉路
 その先が「嵐山駅間交差点」である。このあたりが●菅谷宿の中心だったといわれる。左手の●根岸医院は古い門構えを持った 庄屋のような雰囲気を感じさせる。
 宿場の雰囲気を感じさせるのはこの医院くらいで、宿そのものの感じは残っていないようだ。 やがて●嵐山三叉路にやって来た。  12:00

 ■嵐山三叉路~志賀観音堂
 左手を行けば●東昌寺がある。 比企西国三十三観音の26番で本尊は観音菩薩。旧道は県道ではなく、県道に沿った右斜めの細い道であって、そこを行ってみるが、●東武線に寸断され崖上で完全に行き止まりとなった。そこで県道に戻り、東武線のガードをくぐることになる。 ガードをくぐって、300m程で右手の●細い旧道へ入って行く。そのまま進むと広い道へ出た。左手には「志賀堂沼」がある。正面に●志賀観音堂がある。    12:55

 ■志賀観音堂周辺
 志賀観音堂は無住のようで案内板が立つだけ。比企西国観音霊場28番」の札所としてにぎわいを見せたという。境内には多くの石仏があり、●寛保元年(1742)の宝塔は高さ224cmで町内最大のもの。●聖徳太子碑は近郷の大工職人による「聖徳太子講」による建立。●安政7年(1860)の庚申塔には「志賀駅」、元治元年(1864)の飽海地蔵菩薩には「左鬼神道」とあり、道標を兼ねている・・・・というが文字が摩滅してよくわからないというのが実際のところ。
 志賀堂のすぐ隣に立派な個人の墓地があって、中に●明治14年と文政10年(1827)の二基の馬頭尊が並んでいる。
 このあたり● 志賀宿の中心のようだがその面影は感じられず、ただ車が通りすぎるだけ。    13:05

 ■志賀観音堂~嵐山小川IC
 県道を先に進む。右手の●小高い小山に杉山城があった。 当時北方には越畑城、四津山城、南方に小倉城があり、県道の西側には鎌倉街道が通じていた。杉山城の築造年代はわかっていないが、1500年代の初め頃、山内上杉氏によって築かれた城だと考えられているそうだ。
 右手の民家の所に●雨降山と刻まれた石灯籠が現れた。街道は嵐山町から小川町中爪に入る。ここの境目の民家の裏庭にひっそりと●石碑が三基並んでいる。手前から天文5年(1740)の庚申塔、元治元年(1864)の大黒天、享和元年(1801)の馬頭尊と並ぶ。 中爪に入るとすぐ左にパチンコ店があり、その先に小さく70m程の旧道が左手に残っている。ここを過ぎて100程先の右手の民家の横に●庚申塔が2基、万延元年(1860)と元文5年(1740)のもの。その左に●「下小川ヲ経て小川村約一里」などと刻まれた道標がある。 やがて嵐山小川IC交差点に到着する。   13:30

■ 嵐山小川IC~高橋
 このIC交差点のあたりは●「中爪宿」と呼ぶようだが、ICができた為か調査報告書が書かれた状況と大部違っている。まず中爪川手前で右へ旧道に入ると云うが、右手の道がみあたらない。「毒消し 安流丸」を扱う「大塚家」という旧家がなくなっている。・・・・・等々
 そういうことでそのまま県道を通っていくと、右手に●大きな庚申塔が一基置かれている。 その先右手に円弧状に旧道が残っているので入って行く。地形図では「宿」という地名になっている。「中爪宿」とはここのことを指すのかとも思うが、よくわからない。こここはすぐ県道の合流するが、右手の草地を●はりつけ場跡というらしい。 下横田の養昌寺へ行く入口の所に●嘉永7年(1854)の大黒天がある。その先は新川にかかる高橋になるが、手前を左に入ったあぜ道に●安政の馬頭尊などが並んでいる。
  14:05

 ■高橋~奈良梨
  八和田郵便局手前の畑の中に●享保6年(1721)の庚申塔がひっそりと置かれている。 まもなく● 奈良梨の交差点にやって来た。奈良梨は戦国時代に宿場として栄えていた所。 ここを横断する県道11号にはこのあたりで唯一のバス停があって、ここを通過してしまうと「男衾駅」まで通しで歩かないと行けないので、まだ早いのだけど本日はここまでとした。 交差点に面して●●八和田神社の参道が延びている。参道は案外と長くて300m以上ある。以前は諏訪神社といっていたが、明治に近郊八か村が合併して八和田村となったので、村社八和田神社と改名された。(写真は2015.9.22の時)
 ●奈良梨のバス停から小川町又は熊谷へバスが通じている。    14:20

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