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東高野街道を歩く (岩清水八幡宮~河内長野) |
歩行地図はこちら 地図 |
東高野街道 1 (岩清水八幡宮~四条畷まで) | ||
清水市駅-八角堂-洞が峠-出屋敷-星田-寝屋川-中野-四条畷 21.1km(全体56.5km) |
東高野街道 京都から高野山へ参詣する人々が使った道で、石清水八幡宮から洞ヶ峠を経て大阪府を南下、四条畷神社・石切神社などと交差し、富田林市を抜けて河内長野駅付近で西高野街道と合流する。合流後高野街道となって高野山へ向う。合流するまで約60km。 ここを3回に分けて歩くことにした。 ルートは 「歴史の道調査報告書 高野街道」(大阪府教育委員会) 「大阪ウオーキングマップ 東高野街道」(大阪府都市整備部)によります。 |
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一の鳥居から●石畳の道を放生川の沿って歩き始めます。 ●安居橋を渡ります。八幡八景の一つで、貞観の昔から幕末まで行われていたという「安居神事」に由来するとか。「太谷川」は安居橋の前後200mを放生川と名前を変えている。八幡宮の神事の放生会に由来する。 橋を渡って、右折すると●東高野街道の旧道へ入って行く。木造の旧家らしき建物もあり、中々良い雰囲気がある。8:45 |
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■ 馬場~正法寺 右手の「本妙寺」を過ぎると、右手に「頼風塚」の案内板が立っていて、民家の細い路地の奥に●小さな五輪石塔が建つ。これを「頼風塚」または「男塚」という。9世紀、小野頼風という人が東山に住んで、京に妻がいたが、いつしか二人の間が疎遠になり、妻が男を訪ねてくると、他の女と暮らしていることを知り、悲嘆のあまり泪川に身を投げて死んでしまった。河辺に葬られたとき、脱ぎ捨てた衣が朽ちて、そこから女郎花が咲いた。頼風は自責の念にかられ、放生川に身を投げた。人々はこれを哀れみ、二人の塚を築いたという。妻の塚は「女郎花塚」といい、松花堂公園ににある。 突き当りを左折すると、市民図書館で、「東高野街道」の道標が立つ。市内要所々に同じ形の道標が立っていて助かります 途中左に入る道の角に●「巡検道 右 宇治近道」と刻まれた道標が建っている。 「神原交差点」を過ぎると、清水井に 「正法寺」 がある。家康の側室「お亀」の実家「志水氏」の菩提寺で、寺領500石を有した。●唐門、本堂、大方丈が国の重要文化財。本堂の方は未公開であった。 9:08 |
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■出屋敷北~梅が枝 そのまま行くと大きな「山田池公園」にぶつかるが、右折して「穂谷川」を渡り、二つ目の路地を左折すると出屋敷の旧道に入る。●出屋敷の町並。 出屋敷は旧道の景観を良く残している。途中、右手に「東高野街道」の道標が立つ。国道に出る手前の「円通寺」前に東高野街道の看板が立っている。 府道18号に合流してしばらく府道を歩くことになる。途中、「村野浄水場」などがある。出鼻橋を渡り、府道から別れて、南側の旧道を歩く。郡津という所。●郡津の町並。 ここも旧道の面影を良く残す場所であった。●「梅が枝」で府道に合流し、また「京阪線」の踏切を越える。ここにこうづ文化ゾーンの案内板が立っていて、街道の説明が書いてある。 12:25 |
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旧道に入ると赤いエプロンを付けた●石仏が並んでいる。バス通を越えると、●畑の一本道で、途中に●一里塚が立っていた。 どこから数えて一里なのだろうかが良くわからない。 JR片町線のガードをくぐり、●星田駅の南へ出た。駅の為に旧道が迂回しているようである。調査報告書によると、大阪夏の陣の際、家康が陣を構えた所という。 13:30 |
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高倉1丁目の所で旧道は一旦左側へ回り込んでおり、入口に大きな● 二月堂灯籠が立つ。高さ約3メートルある。正面に「二月堂」と、側面には、天保14年(1843)の年号が刻まれている。当地には、「柳谷・二月堂両観音講」が百数十年前からあって、現在でも三月のお水取りのころには、東大寺二月堂に参詣するという。 ●JR「忍ケ丘駅」へ来たが、ここも駅の為に迂回している。駅前の「トンボ池公園」に街道の案内板が立っていて、案内板の通り進んだ方が良いと思い、まず●三徳稲荷へ向った。 14:40 |
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