東高野街道を歩く 
     (岩清水八幡宮~河内長野)
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  東高野街道 1 (岩清水八幡宮~四条畷まで)
 清水市駅-八角堂-洞が峠-出屋敷-星田-寝屋川-中野-四条畷        21.1km(全体56.5km)

東高野街道
 京都から高野山へ参詣する人々が使った道で、石清水八幡宮から洞ヶ峠を経て大阪府を南下、四条畷神社・石切神社などと交差し、富田林市を抜けて河内長野駅付近で西高野街道と合流する。合流後高野街道となって高野山へ向う。合流するまで約60km。 ここを3回に分けて歩くことにした。 
 ルートは
「歴史の道調査報告書 高野街道」(大阪府教育委員会)
「大阪ウオーキングマップ 東高野街道」(大阪府都市整備部)によります。

■八幡市駅~馬場 ※ 写真をクリックすると拡大します
 2011年7月31日 八幡市駅8時15分到着
 八幡市駅へ京阪電車でやって来たが、今日もかなり暑い。出だしは岩清水八幡宮だが、4回目くらいになるし、時間もかかるので、参拝は失礼して、まずふもとの●一の鳥居を参拝することですませた。
 近くの飛行神社に行ったことがなく、前から気になっていたので、行って見た。飛行神社は、古代の飛行神という「神饒速日命」と航空事故の犠牲者などを祀る。 明治24年にゴム動力によるカラス型飛行器を飛ばした二宮忠八が、自宅地に創設した神社なので小さいが、外に例を見ないユニークな神社である。●社殿の内拝殿はギリシャ建築風な姿で、本殿は普通の流れ造のもの。平成元年に改装してある。 境内に●零戦のエンジンとプロペラが置いてあった。      8:30

 一の鳥居から●石畳の道を放生川の沿って歩き始めます。
 ●安居橋を渡ります。八幡八景の一つで、貞観の昔から幕末まで行われていたという「安居神事」に由来するとか。「太谷川」は安居橋の前後200mを放生川と名前を変えている。八幡宮の神事の放生会に由来する。
 橋を渡って、右折すると●東高野街道の旧道へ入って行く。木造の旧家らしき建物もあり、中々良い雰囲気がある。8:45

 ■ 馬場~正法寺
 右手の「本妙寺」を過ぎると、右手に「頼風塚」の案内板が立っていて、民家の細い路地の奥に●小さな五輪石塔が建つ。これを「頼風塚」または「男塚」という。9世紀、小野頼風という人が東山に住んで、京に妻がいたが、いつしか二人の間が疎遠になり、妻が男を訪ねてくると、他の女と暮らしていることを知り、悲嘆のあまり泪川に身を投げて死んでしまった。河辺に葬られたとき、脱ぎ捨てた衣が朽ちて、そこから女郎花が咲いた。頼風は自責の念にかられ、放生川に身を投げた。人々はこれを哀れみ、二人の塚を築いたという。妻の塚は「女郎花塚」といい、松花堂公園ににある。
   突き当りを左折すると、市民図書館で、「東高野街道」の道標が立つ。市内要所々に同じ形の道標が立っていて助かります 途中左に入る道の角に●「巡検道 右 宇治近道」と刻まれた道標が建っている。
 「神原交差点」を過ぎると、清水井に 「正法寺」 がある。家康の側室「お亀」の実家「志水氏」の菩提寺で、寺領500石を有した。●唐門、本堂、大方丈が国の重要文化財。本堂の方は未公開であった。  9:08

 ■正法寺~八角堂
 しばらく進むと●京街道の石碑があります。「左・東在所道 右・京街道」、昭和2年の作で、この先同じ2年の作のものがいくつか立っていた。  ●「松花堂公園」への分岐点で、角に「水月庵」の道標が立つ。ここは右手へ入って行く。すると●「八角堂」というのが建っている。慶長12年(1607)に豊臣秀頼によって再建され、明治期の神仏分離により男山山上から移築されている。西車塚古墳の上に建っている。四角の四隅を切りとった隅切八角形で、類例が無く珍しい。堂内には5mにもなる巨大な阿弥陀如来像が安置されている。  9:23

 ■八角堂~洞が峠
 さて、「吉井」バス停を右折して。洞が峠へ来るわけだが、旧道は消滅してしまっているということだ。「大阪府ウオーキングマップ」では既成のの道を「福禄谷」へ向っており、「歴史の道調査報告書」では住宅地の中に線が引いてある。調査報告書をたどったらどうなるかと思って、まず●「安居塚」の住宅地の中を通ってみた。
 やがて●竹林にぶつかって、金網でガードされてしまった。左の方へ、竹林の中を通れば行けるかと思ったが、竹の子の養生で立入り禁止になってだめだったので、大分戻って、「南山小学校」の脇から国道1号線に出た。
 国道1号線●「八幡洞が峠」の交差点を通過する。 洞が峠は光秀と秀吉が激突した(山崎の戦い)の際、明智・羽柴の双方から加勢を依頼された。筒井順慶が洞ヶ峠でどちらにつくか、日和見をしたとの伝説がある所だが、史実に反しており、筒井順慶は洞ヶ峠に着くことなく大和へと撤兵して中立を保ったといわれている。  10:15

 ■洞が峠~出屋敷北
 洞が峠には昔、茶屋があったというが、現在でも茅葺の●洞が峠の茶屋が建っている。ぼたもちがが名物になっている。店の手前を右折して、枚方ハイツの中を通って行く。旧道はハイツと国道の間を通っているということだが、跡すらわからなかった。このあたりの地名は高野道という。●フォレオひらかたの裏道あたりが旧道の名残らしい。 ●国道1号線に出る。右手に「新大池」がある。しばらく歩き、「出屋敷北」信号の所で斜め左に旧道が復活しているので、入って行く。   10:40

 ■出屋敷北~梅が枝
 そのまま行くと大きな「山田池公園」にぶつかるが、右折して「穂谷川」を渡り、二つ目の路地を左折すると出屋敷の旧道に入る。●出屋敷の町並
 出屋敷は旧道の景観を良く残している。途中、右手に「東高野街道」の道標が立つ。国道に出る手前の「円通寺」前に東高野街道の看板が立っている。 府道18号に合流してしばらく府道を歩くことになる。途中、「村野浄水場」などがある。出鼻橋を渡り、府道から別れて、南側の旧道を歩く。郡津という所。●郡津の町並。 ここも旧道の面影を良く残す場所であった。●「梅が枝」で府道に合流し、また「京阪線」の踏切を越える。ここにこうづ文化ゾーンの案内板が立っていて、街道の説明が書いてある。
 12:25

 ■梅が枝~星田駅
 ●天野川を越える。交野市へ入って来た。ここから●川の右岸を川沿いに進む。左右を見ると一段高くなっており、川の堤防の上かと思われます。このあたり「「私部(きさべ)」とか「茄子作」とかいわくがありそうな地名である。
 府道を越え、国道1号の高架をくぐって南下すると、工場に突き当ってしまい、旧道は消えてしまっている。その為迂回しつつ府道20号を進むと、途中、星田5丁目で●旧道は復活していた。そこを右斜めに進んで行く。  13:11

 旧道に入ると赤いエプロンを付けた●石仏が並んでいる。バス通を越えると、●畑の一本道で、途中に●一里塚が立っていた。 どこから数えて一里なのだろうかが良くわからない。 JR片町線のガードをくぐり、●星田駅の南へ出た。駅の為に旧道が迂回しているようである。調査報告書によると、大阪夏の陣の際、家康が陣を構えた所という。    13:30

 ■星田駅~寝屋川市境
 駅の南から旧道へ入り、川の手前に、●道標を兼ねた「大井川万吉」と刻まれた、安政3年(1856)の石碑があった。何のことかわからず、最初川の名前かと思ったりしたけど、後で調べると「大井川万吉」は大谷出身の河内相撲から江戸相撲に出世した人ということであった。ここは寝屋川市との境目でしばらく、境界沿いに歩く。川を越えると●細い旧道らしい町並が続いている。また川縁に弘法大師像が立っている。
 一旦府道20号線に合流して、変電所の所で斜めに入るところ、道がふさがれており、入れなかった。少し府道を進んで、水田の間を進む。「打上元町」の住宅地を抜けて進むと●「ねや川文化と歴史の道」の案内板が立っていた。市内ではこの地にゆかりのある「鉢かつぎ姫」をモチーフにした案内板があちこち立っている。   13:53

 ■寝屋川市境~東中野 
 案内板のすぐ先に●弘法井戸がある。ほんの小さな井戸だけど、いくら日照りが続いても涸れることはなかったと語り継がれ
ていますと案内にある。 さらに進むと●打上の四つ辻に出た。南北に走る東高野街道と東西を走る奈良伊勢道の交わるところで、ここに安政4年の道標が立ち、「「東 なら いせミち 南 かうや のさき 大坂みち 北 京 八はた 柳谷 星田妙見道」と刻まれている。 道標のとおり、真っ直ぐ行ってしまうと、東寝屋川駅にぶつかってしまい、通行できないので、ここを右折して、府道の方へ出た。もっとも幕末の頃より右折する道を通っていたと「調査報告書」に書いてある。
 左手に●打上古墳群と弘法大師像がある。打上には多くの古墳があったといわれていたが、ほとんどの古墳は、耕地などをつくるために消滅してしまったという。 また、ここには、これらの巨石で祠をつくり、弘法大師像が安置されている。14:05

 高倉1丁目の所で旧道は一旦左側へ回り込んでおり、入口に大きな● 二月堂灯籠が立つ。高さ約3メートルある。正面に「二月堂」と、側面には、天保14年(1843)の年号が刻まれている。当地には、「柳谷・二月堂両観音講」が百数十年前からあって、現在でも三月のお水取りのころには、東大寺二月堂に参詣するという。
 ●JR「忍ケ丘駅」へ来たが、ここも駅の為に迂回している。駅前の「トンボ池公園」に街道の案内板が立っていて、案内板の通り進んだ方が良いと思い、まず●三徳稲荷へ向った。  14:40

 ■東中野~四条畷神社
 案内板のとおり、市民総合センター、中野交番、三坪橋と進むと、●市立歴史民俗資料館が建っている。国道170号へ出ると左手に●和田賢秀公墓がある。案内板によると・・・・正平三年一月五日楠木正行が、四条畷で敵将高師直の大軍と戦い討ち死にされた時、共に戦われた和田賢秀公の墓です。 賢秀は源秀ともいわれ、正行公とは従兄であり、歴戦の勇将で新発意ともいい、伝説によると賢秀公討ち死にの際、敵の首に噛み付き睨んで放さず敵はそれが因で死んだ。以来、土地の人は賢秀公の霊を歯噛(神)様として祀っている。・・・・・・・・ その先に●四条畷神社鳥居が見えた。     15:11

 ●参道は600m続き、寄るのは少し難儀だけど、行かねばなるまいと思い、寄って行く。見晴しのいい、気持の良い参道であった。円弧のように下って上がっている。 突き当りが●四条畷神社である。四條畷の戦いで敗死した楠木正行を主祭神としている。父である楠木正成が明治政府によって大楠公として神格化されたのに伴い、嫡男の正行も小楠公(しょうなんこう)と呼ばれ崇められるようになった。創建は明治23年。正行の墓所は四条畷駅の反対側にあるので、次の機会に訪ねよう。
 ●神社からの眺めは大変にすばらしく、四条畷市や向うは門真市であろうか。本日はここまでにして、四条畷駅から帰った。温度も34℃を越え参った。  15:25  駅着15:45

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