東高野街道を歩く 
     (岩清水八幡宮~河内長野)
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  東高野街道 3 (安堂~河内長野まで)
 安堂駅-国府-道明寺-誉田-古市-東阪田-中野町-富田林-甲田-錦織-河内長野    17.2km(55.4km)

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2011年8月14日 安堂駅到着 ※ 写真をクリックすると拡大します
■安堂駅~国府1丁目
 早速安堂駅から大和川の土手に上がり、新大和橋を目指して土手上を少し西へ向う。このあたり大和川の付け替え工事があり、旧道はわからなくなっている。土手上に「大和川橋付替記念公園」があり、中に付け替え工事の実現に奔走した●「中甚兵衛像」が建っている。 大和川は工事のあった宝永元年(1704))以前は、安堂で石川と合流後、北流し、枝分かれした後、旧淀川と合流していたが、排水が悪く、土砂がたまり、天井川となって、河内平野全体が洪水で没する状態であったという。その為流路を西へ付け替える工事が行われた。ともあれ●新大和橋を渡る。橋の真ん中が「藤井寺市」との境界になる。
 渡ったら左折して土手を少し行き、●給食センタ-の所で右手に入るが、この道も一段高く、大和川に合流する「石川」の土手になっていると思われる。   9:40 

 国府1丁目~道明寺
 突き当ると●国府八幡宮がある。背後には允恭天皇陵があり、護り神の役割を果している。またこのあたりの地名は「国府」「総社」の名前が見え、古代の河内国府が設置され、河内国の政治的中心地であったと考えられます。
 少し進むと右手に●真宗蓮休寺前のお堂には金銅製地蔵、石製三尊仏が安置されている。 前方に「応神天皇陵」の森が見え始め、右手に大きなクスノキと●白光龍王大神の祠と東高野街道の碑が立っている。

  道明寺の脇へ出たので、南側の●山門から入って行った。●道明寺は真言宗御室派の尼寺で、山号は蓮土山。このあたりは、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であって、道明寺は土師氏の氏寺「土師寺」として建立され、初めは東隣にある、道明寺天満宮の南側に位置していたが、神仏分離により現在地へ移転している。寺名は道真の別名「道明」からきている。当時は七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであったといわれる。国宝の十一面観音は拝観日が限られ、今日は見ることができなかった。
 境内に●道明寺へ道標が移設されている。
 ちなみに和菓子の材料として用いられる道明寺粉は、道明寺の尼が乾燥した糯米を挽き粉状にしたのが始まりという。10:15

道明寺~誉田中学校
 道明寺の東隣に道明寺天満宮がある。寺の参道を出て、左に曲ってすぐ。神仏分離以前は寺と天満宮は一体であり、ここも菅原道真にゆかりがある。正面の石段を上がった左手に●土師窯跡碑が立つ。由来碑によると、「はにわ」を創って殉死に代えた功績で、「土師」の姓とこの辺り一帯を所領地として賜わって以来、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社が建てられた。また埴輪を焼いたことにより、ここが窯業発祥の地となったといわれる。
  ●社殿は本殿・幣殿・拝殿からなる権現造りで、檜皮葺き。 街道に戻って先にすすむ。●道明寺の町内は昔の街道の面影を比較的良く残している。   10:35

  途中右手にある●お堂の中に石が安置されている。弘法大師腰掛け石と呼ばれる。ここは高野街道なので、弘法大師も京都への往復の際腰掛に使ったのだろうと思われる。
 ●西名阪高速をくぐると「羽曳野市」へ入る。高速をくぐってから、国道170号を横断して、目の前の細い道へ入っていくと、眼前に応神天皇陵の森が見えてきた。誉田中学の北西の角に来ると、●高野街道碑と天保9年の道標が建っている。「右 道明寺 玉手 左 八尾 久宝じ 」とかすかに読める。    10:45

 ■誉田中学校~国道170号
 ●「誉田八幡宮」の白壁に沿って進むと、●誉田八幡宮の鳥居が見える。主祭神はもちろん応神天皇で、応神天皇陵のすぐ南に鎮座し、欽明天皇の勅願で応神陵後円部上に設けられた日本最古の八幡宮と伝えられる。平安時代に現在の地に移された。鎌倉時代以降武将たちの信仰を集めた。 境内に●誉田林古戦場址の碑が立っていて、このあたりは戦略上の重要な地であったので、再三古戦場の舞台となった。特に大阪夏の陣では大阪方の武将「薄田隼人正」も八幡宮の境内に大陣を置き、この地より出撃して、道明寺付近で討死をとげたという。    10:55

   社殿は何回か焼失し荒廃した。現在の●拝殿は秀頼の寄進で建立されかけたが、夏の陣で豊臣家が滅びると、徳川氏がこれを完成したので、屋根瓦には「三つ葉葵」の紋章がある。11間3間の建物で細長い割拝殿の形をしている
 秋の大祭の時、天皇陵手前にある鎌倉時代初期の●石造「放生橋」を渡って、天皇陵の壕のほとりで神事が行われる。昔は古墳の頂上まで渡っていたというそうだが、今は立ち入ることはできない。
 八幡宮を出て、すぐ南で西(左手)からTの字に交わる道は「大阪道」で野中を経て平野に至る。●交差点の左角に1つ、右手に2つの道標が立っている。   11:08

 国道170号~古市1丁目
 南下して国道170号を横断するが、横断する手前に●金の鳳凰が乗った風格のある常夜燈があり、「車楽(だんじり)祭」の説明板が架けてある
 街道は国道、近鉄戦を越え、「古市」に入る。両側が赤のカラー舗装で、真ん中がコンクリートタイル板が貼ってある。途中で●鍵型に屈折している。 屈折後すぐ右に「白鳥神社」の石鳥居が見え、180m程の参道を入って行くと●白鳥神社がある。日本武尊、素戔嗚命、稲田姫命を祀る。    11:20

 ■古市1丁目~古市7丁目
 街道に戻って少し行くと●竹内街道との交差点になる。竹内街道は2006年の12月に歩いた。写真の右側から左側に抜けたわけである。当時の記憶があまりないが、左手角に大きな道標が立っている。
 交差点から南50mの右手に●伊勢燈籠がある。祠に収められているのでそのようには見えないが、常夜燈が祀られているのは珍しい。 大乗川を「髙屋橋」で渡る。「安閑天皇陵」の東縁をかすめて進む。このあたり畠山氏の本拠地である「髙屋城」があった所であった。国道170号へ出てから、すぐ●「城山」信号の所の細道を左手に取って行く。   11:40

 古市7丁目~東阪田 
 右手に●高屋神社がある。町中の小さな神社であるが、歴史が古い。式内社であり、饒速日命と広国押武金日命(安閑天皇)を祀る。当地は物部氏の系統で、「高屋連」の本貫地であり、祖神として饒速日命を祀ったものと考えられる。
 神社を出てから旧道は真っ直ぐ進み、●南阪奈道路の下をくぐる。 「水守」に入ると、道は結構蛇行を始め、「石川」でできた段丘を上がって行く。東側(左)の眺望が開け、●二上山がよく見えた。     12:05

■東阪田~中野町 
 東阪田の南端に●八王子社と呼ばれるお堂がある。堂前に文化年間の燈籠がある。
 「喜志町」から「富田林市」に入った。「喜志南」で国道に合流し、しばらく国道を南下して行く。
 「桜井」交差点の右側に●「美具久留御魂神社」の鳥居が立っている。社伝によれば紀元前88年、崇神天皇の用命で創建されたと言われる由緒ある神社。社殿は鳥居から700m位の所にあり、とても行くのはおっくうで鳥居だけで失礼した。 ●「中野町3」交差点でまた、旧道は左へ入っている。    12:55

 中野町~富田林寺内町
 中野、若松町と過ぎて、いよいよ富田林寺内町に入って来た。
 富田林寺内町は、永禄元年(1558)、興正寺門跡証秀上人が富田の芝荒地を銭100貫文により購入し、近くの4ケ村の庄屋株各2人計8人に、興正寺別院の建設と町割りなどを要請したのが始りとされる。現在も創建当時の六筋七町の町割りや、重要文化財旧「杉山家住宅」などの、往時の繁栄を偲ぶ重厚な町家が数多く残されている。
 町内へは東北の●一里山口から入ると、「寺内町遊園」があり、寺内町の案内図がある。街道は亀ケ坂筋から堺町筋へ入り、興正寺別院の北側を抜けて、富筋を南下し道標の所を右折し、向田方面へ出る。途中いくつかの旧家がある。
 街道を歩いていて、最初に出会うのが●佐藤家・・・当家は仲村家(佐渡屋)より出て初代・藤兵衛(とうべい)が文政3年(1820年)にこの家を興した。従って,屋号を「佐渡藤」と号し、2代目より佐藤姓を名乗った。紅梅酒味醂の醸造を営み、現在も敷地内に多くの土蔵を残す。 
 ●杉山家・・・当家は代々「樽屋善兵衛」と称し、もとは油屋を営んでいた。善兵衛の名は天保14年(1843年)の村方様子明細帳に百姓代として載っている。重要文化財の「杉山家住宅」があるが、経路からちょっとはずれて寄るのを忘れたのが残念だった。    13:32

  ●興正寺別院・・・真宗興正寺派 。本山興正寺は京都市内の西本願寺の南側に位置する。富田林寺内町はこの寺院を基に発展し、現代に至る。城之門筋に表門をおき、鐘楼・鼓楼を構え、本堂・客殿・庫裏などを配する。表門は、桃山城門のひとつが活用されていると伝えられている。右端の鼓楼が印象的。しかし表門がぴったりと閉じられ入れる雰囲気ではなかった。
 ●妙慶寺は別院の真ん前にある。真宗本願寺一派に属する。宝物として、親鸞上人の真筆と称する金泥十字尊号一幅、光明皇后筆と伝わる金泥写経二葉を蔵する。   13:37

 ■富田林寺内町~甲田1丁目
 富筋を南下すると左手に●仲村家住宅がある。当家は屋号を「佐渡屋」といい、酒造業を営んでいた。代々徳兵衛を名乗り、寺内町八人衆を務めたと伝えられる。造り酒屋として著しい発展を遂げ、天明5年(1785)の酒造米高は河内国で最高の2135石に達した。 南下した突き当りの角に●道標が立つ。宝暦元年のもので「左 ふじい寺」とある。また銘文に「くわえきせる無用」と彫られている。この寺内町には大火がなく、江戸時代の町並がそのまま残されたのはこのような町の努力があったわけである。
 東高野街道はさらにこの先、谷川町、富田林高校前を通過する。このあたり石川の段丘で南側の眺めが大変に良い。
●甲田1丁目の所から細い旧道へ入る。    13:56

 ■甲田1丁目~錦織北1丁目
 右手奥に●「PL教団の平和の塔」が見えた。川西交差点でまた国道170号に出会い、右手角に●宝筐印塔が建っている。西国33ヵ所巡礼の満願供養塔である。 街道は「近鉄川西駅」を越え、甲田4丁目の坂を上がって行く。しかし国道309号の歩道橋で途切れてしまう。塀の先を覗くと細い水路が通っている。元はこの水路に沿って南進していたといわれる。通れないので適当に右折、左折して、GPSの示す方へ進んで行くと、合流点に達して、そこに●享保の延命地蔵と大峰登山満願供養碑がある。   14:36

 ■錦織北1丁目~市町
 甲田から錦織に至る。錦織は滝谷不動尊の入口にあたり、参拝客で賑わった。「滝谷不動駅」の近く、府道202号のぶつかる所左手角に●文化11年の道標がある。
 錦織南で旧道は失われ、近鉄線を越えて国道に入る。しばらく国道を進むと左手に●錦織一里塚跡がある。対の片方は残されていないが、塚の上に石造宝筺印塔が建てられている。 一里塚のすぐ先で近鉄線の細い踏切を渡る。踏切のあたりが「河内長野市」の境界にあたる。旧道は急坂を上っている。その手前にお堂があって、●「孝子の地蔵さん」と呼ばれる地蔵道標が祀られている。元文2年(1737)のもので「左 まきのを道」と彫られている。    15:12

 ■市町~河内長野
 坂を登り切ると「市村」になる。向野町と過ぎ、国道170号と又々合流する。●交差点の右手に明和の伊勢燈籠が立っている。国道を渡ってすぐの所に左に入る旧道があり、そこはすぐ国道に戻ってしまう。その先の旧道ははっきりせず、二つ道があったらしい。極楽寺の脇の坂を上がって行く道と、一旦西へ蛇行してから、近鉄の線路を越え東に進み、線路に沿って進み、「菊水町」信号の所で踏切を越え、西に進み、本町商店街で「西高野街道」に合流するという道である。
 今回はくたびれてきたので、比較的近い●極楽寺脇の坂を上がって行った。
 坂を上がると右手に●極楽寺の大仏が見えた。極楽寺は聖徳太子が推古天皇の病気平癒を願って、杉の根元に湧く霊水を汲んで差し上げるとたちまち平癒したので、太子が薬師如来を刻んで本尊としたのが極楽寺のはじまりとされている。16:13

 「南海高野線」の上に架かる極楽寺橋を渡るとすぐ、右手から来る●西高野街道(左上方向)に合流した。なんかあっけないが、「歴史の道調査報告書」ではここであると言っている。合流点には延命子育地蔵と常夜燈と道標が立つ。特に案内板はなかった。 但し菊水町信号の所から来る、もう一本の街道説ではこの先というので行ってみた。
 ●街道を先に進む。
とアーケードのある商店街に出て、駅前広場に●高野街道のモニュメントが立って、ここが西高野街道との合流点であると書いてある。「調査報告書」でも「河内長野市史編纂室」によると商店街の南端で合流していたとの説明があるので、ここなのだろうと思われる。ただ駅前は改良事業で相当変化しているので旧道の痕跡はないのではないかとのことだった。・・・ということで駅前で東高野街道を終了することにします。 暑くてくたびれました。 南海電車 高野線を利用して帰宅 次回は西高野街道で、堺からまたここへやって来ます     16:35

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