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東高野街道を歩く (岩清水八幡宮~河内長野) |
歩行地図はこちら 地図 |
東高野街道 2 (四条畷~安堂まで) | ||
四条畷-野崎観音-中垣内-箱殿東-瓢箪山-恩智-大平寺 21.3km(55.4km) |
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「北条」バス停先で旧道は●国道と別れて、左の細い道へ入って行く。薄茶色のダスト舗装みたいな感じで歩きやすい。車もそんな通ってなかった。旧道に入るとすぐ東高野街道の案内マップがある。 すぐに●野崎観音への参道の石段が見える。東海林(しょうじ)太郎の「野崎参りは~ 屋形船でまいろ~~」という「野崎小唄」で有名だけど(若い人は無理か?) こんな所にあった。 福聚山慈眼寺という。1300年ほど前、天平勝宝年間、行基の創建という。戦国時代に焼失したのを、江戸時代に曹洞宗の、青厳和尚が復興され、元禄宝永ごろに野崎参りが盛んになると共に、お寺も栄え、現在に到っています。とか。境内に ●お染久松の塚なるものもある。野崎観音は、お染久松を主題にした近松半二「新版歌祭文」をはじめ、近松門左衛門「女殺油地獄」、落語「のざき詣り」などで広く知られている。 屋形船でまいるというからには、どこまで舟で来たのかと言うと、大阪から 寝屋川をさかのぼり、谷田川を経て、現在の参道の南側200m位の所から参拝したらしい。 9:28 |
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■野崎観音~中垣内(須波麻神社) ●「寺川」に至り、阪奈道路を越える。前方左右に●大阪産業大学が広がる。甲子園によく出てくる「大阪桐蔭高校」も左手にあった。 「中垣内」交差点より左折して、●須波麻神社へ伊勢燈籠を確認するため寄道した。あまり大きくはないが、式内社で、本市では唯一のもの。道標を兼ねた伊勢燈籠は境内入口左手に立っており、文政13年(1830)のもので、東高野街道筋から移されたもので、道標を兼ねている。 10:10 |
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音川に架かる橋の手前に、●大峰山登山百二度供養塔というのが立ち、横の祠の中に観音、役の行者などの像が安置されている。 500m程行くと、左側に大きな天明の常夜燈が二本立ち、●石切劔箭(いしきりつるぎや)神社の参道になる。 ●石切劔箭神社は式内社で、祭神は大和建国に功のある「饒速日尊とその御子、可美真手命(うましまでのみこと)。拝殿と鳥居下にある「百度石」の間を行き来する「お百度参り」で全国的にも有名とか。本社の南に大きな絵馬殿があり、屋根上には劔箭(剣と矢)が天をさして乗っている。また参道に易をする店が多かったのは何故なのだろうか。 11:28 |
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■瓢箪山~横小路 ●「下六万寺1丁目」バス停の所で、また旧道は左手に入って行く。ここの旧道は250m位しか続かない。途中左手の●小さな祠のなかに、古い宝筐印塔の下部の欠けたもの、石仏などが安置されている。 国道に戻り、ほどなく●「八尾市」である。 12:50 |
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■恩智北町~恩智中町(恩智神社) ●「南高安中」の南で、旧道は申訳なさそうに、右に迂回している。中程に大きな旧家が1軒建っていた。 国道に戻ると少し上り坂になって、登り切ると「恩智」である。そこの左側に●恩智神社鳥居が立っている。神社までは500mあるが寄ってみた。が、参道は上り坂ばっかりで少々きつい。途中に道標が2基ある。参道沿いに石垣を備えた大きな旧家が建っている。 恩智神社は大和時代の雄略年間(470年頃)と伝えられ、国内でも有数の古社であり、後に式内大社に列した神社である。うさぎが神の遣いとして道案内をしたと云われており、狛犬ならぬ、「狛うさぎ」である。●本殿の建築様式は、明治年間で、王子造り(流れ造りの一種)で極めて珍しい貴重な建築様式であるという。 14:30 |
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参道を下る途中左手に入ると●恩智城跡がある。恩智城はこの地の豪族であり、楠木正成の家臣、恩智左近が築いた城である。貞和4年(1348)、四条畷合戦で楠木正行が戦死し、恩智城は廃城。現在は城址公園として整備されている。 公園から●河内平野を一望することができた。 城跡から国道へ向って下りて行くと、国道脇のお堂に●シュミイ地蔵が安置されている。名前の由来はわからないが、地元の有志が天文13年(1544)に建立したもの。 14:58 |
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