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大宮街道を歩く1 (府中~氷川神社) |
歩行地図はこちら 地図 |
府中大國魂神社-府中の森-野川-牟礼2丁目-三鷹台-清水1丁目-高野台-光が丘-下赤塚 23.7km |
武蔵国は、知々夫国造、无邪志国造、胸刺国造という3つの国造を合せ6世紀に成立したとされる。現在の埼玉県、東京都、神奈川県の一部が相当する。当初東山道に属し、上野国から連絡道を南下し、また下野国へ北上していたが、宝亀2年(771)に東海道に属することになった。
郡の数は秩父郡外21郡を数える。武蔵国府からそれぞれの郡への連絡道があったと考えられ、ここでは足立郡衙が付近にあったと考えられる、大宮市氷川神社まで歩いて見た。途中乗瀦駅(あまぬま)(杉並区清水3丁目付近)を通過し、前半は人見街道、浦和から近世の中山道に合流します。 参考資料 「武蔵古道・ロマンの旅」 (芳賀善次郎) 「府中市史 杉並区史、」外 |
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1大国魂神社~下赤塚駅 | 2下赤塚駅~大宮氷川神社 |
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■武蔵野の森~浅間山公園 自衛隊の東側の●人見街道入口へ入って行きます。 "案内板" 人見街道は府中市浅間町から杉並区高井戸まで続く街道で、大宮街道、下総街道などとも呼ばれる。名前は浅間町が江戸時代「人見村」といわれていて、そこに通じていることから名付けられた。甲州街道と平行していて、かつては大宮の氷川神社の神輿が、この人見街道を通り人見村御仮屋まで来て、くらやみ祭りに参加していた。本来は府中八幡で甲州街道に合流するが、自衛隊基地で消滅している。●人見街道を通ります。原野に造られたか、結構真っ直ぐ通じている。左奥の「浅間山」に上って見ました。一帯都立浅間山公園で、雑木林におおわれ、バードウオッチングの人が何人もいます。標高80m程の浅間山山頂に●浅間神社が建っています。 10:52 |
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■浅間山公園~多磨駅 ●山頂からの眺め。右手は「多磨霊園」が広がっています。北原白秋、高橋是清とか有名人の墓が多い。山から下りてきて、「若松4丁目」交差点から人見街道に復帰し、東行すると●西武線「多磨駅」を通過します。東京外語大学の最寄り駅でもあります。11:24 |
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■多磨駅~野川公園入口 ●三鷹市に入りました。右手は「武蔵野の森公園」。少し先左手は●近藤勇生家跡。宮川家としてこの地に生まれたが、後近藤家に養子に入る。生家は昭和18年、調布飛行場が首都防衛に使われることから取り壊され、井戸のみが現存しています。"案内板 " またその向い側は●天然理心流道場「撥雲館」という建物。近藤勇の養子近藤勇五郎が近藤勇の生家の向かいに開いた道場。撥雲とは暗雲を取り除くという意味で、昭和50年代まで稽古が続けられたという。"案内板 " 11:40 |
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■野川公園入口~龍源寺 左手一帯は「都立野川公園」が広がり、右手一帯は●調布飛行場が広がります。北側の公園から滑走路が眺められ、跳んでくる飛行機を楽しみ待っていたら、動き出す気配が無く、運行状況確認したら、伊豆諸島、強風で軒並み、欠航、天候調査で飛んできませんでした。 左手の●龍源寺は近藤勇の墓があって、門前には近藤勇の胸像、六地蔵・庚申塔などが並んでいます。 12:00 |
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★野川付近 龍源寺前の信号を右斜めに曲がって脇道に入ると、●野川が流れています。川沿いに緑道が整備され、散歩に最適になっている。右岸を少し行くと、「大沢の里水車経営農家」という施設があって、興味が湧いたのだけど、令和5年2月21日まで耐震工事のため、臨時休館ですと。今日は19日で2日先に来ていたら開いていた!。残念でした。その代わり川脇に●水車小屋があって水車が回っていました。 「飛橋」を渡って、対岸は段丘の崖が続き、「出山横穴墓群」という史跡が見られます。中でも"第8号墓の玄室"がガラス張りの史跡として公開されていました。 "案内板 " 街道に戻るすぐ手前、右側に"三鷹市崖に眠る軍用防空壕横穴墓" という案内板が立っていて、見にくいけれども、崖の中に彫られた●防空壕の入口が見られました。 12:35 |
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■野川~牟礼2丁目交差点 街道に戻って東行。●「野崎」の交差点。戦国時代、関東管領上杉氏が北条氏に対抗して開いたという「深大寺道」が直交しています。 その先三鷹市役所前を通過。●「三鷹一小前」交差点で人見街道が左折するので、同様にこちらも曲がって牟礼に向かいます。 ●牟礼2丁目交差点。 左へ行くのは「牟礼街道」。小田原北条氏の軍道で上杉氏の深大寺街道に対するもの。 角に "道路供養塔 "が建っています。牟礼街道は次回あたり歩こうかと思います。人見街道は右へ曲がって「大宮八幡」へ向かい、大宮街道は左斜めに向かい、坂を上がります。 14:10 |
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■三鷹台駅~善福寺川・宿橋 ガ-ドをくぐった先 "立教女学院" で道は遮断されてしまうので、右脇を迂回し、武蔵野市の境界である、●立教通りを真っ直ぐ北上して行きます。「松庵小前」交差点の五日市通りにぶつかる所は微妙に食い違がって進むので、何か意味があるのかもしれません。 JR中央線のガードをくぐり、更に真っ直ぐ行くと●西荻北3丁目マンションの所で又道は遮断されます。右に曲がり、左に曲がりして、迂回して行くと、●善福寺川に架かる宿橋の所から旧道は復活しています。 15:10 |
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■宿橋~清水1丁目交差点 ●宿橋の下を流れる善福寺川。善福寺公園内にある善福寺池に源を発し、神田川に合流する。護岸工事でこのあたりでは水路の趣。 道なりに進むと●荻窪八幡に着く。道はその先「環八清水1丁目」まで消えている。 源頼義が奥州東征の途中、ここに宿陣し、戦勝を祈願したという由緒を持つ。 境内に"「道灌槙」"という槇の木があって、太田道灌と豊島氏との「江古田の合戦」にまつわる由来が残る。 八幡社の先、道は消滅しているので、ジグザグに進み、●「環八清水1丁目」交差点に出た。ここは「天沼」と称し、古道が交差する要衝で、乗瀦駅(あまぬまうまや)が置かれたと云われる。 古代武蔵国は東海道に属さず、上野国から連絡道を南下していた。宝亀2年(771)に東海道に属することになったが、相模国と下総国が直接つながってしまい、武蔵国へは連絡道でつながっていたと考えられる。現在の状況を思うとにわかに信じがたいのだが、正面は下総へ行く連絡道。左は大宮街道で、无邪志国造へつながり、右へは胸刺国造への道であり、狛江に向かう。尚乗瀦駅の所在地は港区中延、大田区馬込に置く説もある。(森田悌) 15:40 |
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■清水1丁目~環八南田中 ●環八通りを北上します。今川1丁目信号の先で「井荻トンネル」への口が開いています。このあたりは西武線が平面交差していた為、「開かずの踏切」となり、大変な交通難所だった所。 ●井荻駅では陸橋が交差し、人はトンネルで線路向こうへ出ることになります。 環八が右へ曲がって行く●「環八南田中」信号の先で左へ細く、旧道は迂回しています。 16:16 |
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■南田中~高野台1丁目 旧道に入った先、右手に●豪壮な長屋門を持った「榎本家屋敷」が建っています。江戸時代末期の建築と推定される旧田中村の名主役宅門です。練馬区の登録文化財になっている。 石神井川に架かる●長光寺を渡って、笹目通りへ出ます。右手に●氷川神社。江戸時代初期慶長年間の創建で、祭神は須佐之男命。 16:40 |
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2下赤塚駅~大宮氷川神社 |