大宮街道を歩く 
         (府中~氷川神社)
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 下赤塚駅-松月院-乗連寺-赤塚城跡-笹目橋-氷川町-六辻-調神社-浦和-与野-新都心-氷川神社参道 18.2km


2023年2月26日   ※ 写真をクリックすると拡大します
■下赤塚駅~赤塚中央通
 府中国府跡から足立郡衙あとである大宮氷川神社までの連絡道である大宮街道の2回目。 東武東上線下赤塚駅から始めます。国道254、川越街道●下赤塚駅前信号から1つ西の信号を右に入った所から始まります。入ってすぐ正面に●青面金剛石造が一基祀られています。文化三年くらいしか読めません。 前谷津川の暗渠になった所を渡るらしいが全くわからず、ここを抜けると「赤塚6丁目」で●赤塚中央通りに出ました。左折します 11:05

■中央通り~松月院
 板橋区は武蔵野台地の北東端付近に位置していて、赤塚地区は海抜30m前後の標高がある。その為このあたりは急な坂道を上がり下がりしないと行けません。1度下り、また上がって行きます。 左手に●大堂と呼ばれる、平安時代創建と伝わる阿弥陀堂がある。鎌倉以前は七堂伽藍を備えた大堂であったけれど、永禄4年(1561)上杉謙信が小田原攻めの時、大宮街道を通ったらしく、兵火にかかって焼き討ちにあっている。 右手は●八幡神社で、下赤塚村の鎮守。坂を上がりきった所、正面に●松月院がある。板橋きっての名刹で、創建は不明だが、赤塚城城主千葉自胤が中興開基となって菩提寺にしている。 11:15 

■松月院~乗蓮寺
 松月院境内に●高島秋帆先生紀功碑というのが建って、秋帆は松月院を本陣にして、徳丸原で日本最初の本格的な西洋式砲術を指揮した。その顕彰碑です。 荒川が作る低地に向かって坂を下る。左に●乗蓮寺がある。"乗連寺 "は赤塚城二ノ丸跡の高台に位置している。境内の●東京大仏は高さ8.2m、奈良、鎌倉に次ぐ日本第3の偉容を誇ります。昭和52年の完成。 また"天保飢饉の供養塔"が建っていて、当時の板橋宿内で亡くなった423人の戒名が刻まれています。 11:30

■乗連寺~赤塚公園
 乗蓮寺の向側、高台の下に●不動の滝が落ちています。最も水量はチョロチョロ程度。 "案内板" その先、左手は「赤塚公園」で、区立美術館などがあり、その奥高台一帯が●赤塚城本丸跡になります。中央に本丸の碑が立っている。赤塚城は真北にある荒川の低地を一望し、大宮街道(鎌倉道)を押さえる要衝に位置した。室町時代千葉自胤によって築城されたと伝えられている。秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、千葉氏も所領を没収され、赤塚城は廃城になった。 "案内板 " 11:45

 ■赤塚公園~荒川
 本丸跡から下ってくると、外堀跡を利用したという、「溜池公園」がある。赤塚から先、荒川を渡るわけだが、首都高速5号線やら工場が立地して、全くわからなくなっている。笹目橋を渡らないと行けないので、一応●首都高速に沿った道を進むこととしました。
 ●笹目橋を渡ります。このあたり往時は「早
瀬の渡し」が橋の東側にあったらしい。橋の西側を渡ってしまったので、東側の様子は全くわかりませんでした。ここは渡った先、右折して行くので東側を通った方が良かったかも知れません。●橋からの荒川の眺め。 12:10

 ■荒川~氷川町2丁目
 埼玉県戸田市へ来ました。戸田市はどう通ったか不明ではあるが、笹目橋の東側を通り、古い伝承をもつ「妙顕寺」や「観音寺」の中間あたりを通ったのだろうと「芳賀氏」が述べているので、本の通りに進んでみました。 「首都高戸田南出入口」信号の所で高速をくぐり、荒川左岸排水路に架かる●辺島橋を渡り、続いて笹目川に架かる●沼口橋を渡ります。 「氷川町2丁目」信号を左折した先に●氷川神社がある。境内に"夫婦柿 "という大きな柿の木が立っている。1本の木に雌型(丸型)と雄型(細型)の柿が実る珍しいものだそうだ。 "案内板 "  12:40

 ■氷川町2丁目~埼京線
 神社の北方に●妙顕寺がある。山門に続いて仁王門がある大きな寺で、、日蓮在世中に建立された古刹です。一帯を領有していた地頭隅田五郎時光の妻が難産で苦しんでいたとき、龍ノ口法難で、佐渡への配流の途中、通りがかった日蓮が安産祈願をしたら一子徳丸を得た。それで時光は一堂を建立したという。このように日蓮が通りがかるというのが古道の証明になるという。ここには日蓮の墨跡、慶長の板碑などがあるというが、わからなかった。 東へ行った所の「観音寺」は日曜日の為か、門が閉められていた。ここには千体仏、慶長の板碑などがあるらしい。 古道に戻り、現在の●新曽つつじ通りを進み、●東北新幹線ガードをくぐります。14:18

■埼京線~辻6丁目
 ガードの先●県道79号(新朝霞線)にぶつかった所で、1度旧道は消滅する、左側へ迂回し進むと、復帰する手前、遊歩道の脇に●庚申堂がある。" 案内板"  「辻6東」信号で外環道をくぐる。 その先、●「辻小学校」と「南浦和中学校」の間の細道へ曲がります。 14:35

■辻6丁目~六辻交差点
 道なりに進むと●「国道17号六辻交差点」手前で「中山道」が右手から合流してきます。また「見沼代用水西縁」が●六辻水辺公園として左右を流れてきます。 ●「国道17号六辻交差点」を横断。これから先は中山道と同じ道を大宮までたどります。14:50

 ■六辻交差点~調神社
 中山道は何度も通っているので、大宮までさっと抜けて行きたいと思います。すぐ先で左折すると白幡台地へ上がる坂道となり、●焼米坂を通過します。真下を武蔵野線が地下を通っています。中山道を通る旅人に炒った米を売る茶店があった所。しばらく進むと「調神社」がある。租庸調の調を納める物を集めた所があったので、調神社という。ここに郡衙があったという説もある。●鳥居はなく二本の柱が立っている。狛犬はウサギさん。境内に●古いウサギの狛うさぎがある。 ここで大宮まで行くつもりが、くたびれたので浦和駅から帰りました。 15:15

 ■調神社~北浦和 23023年3月11日
 ●浦和駅西口交差点から再開。北へ進みます。左手●「仲町公園」は浦和宿本陣跡。浦和宿は本陣1 脇本陣3 旅籠15軒の規模だった。 "案内板 " JR高架を越えて●北浦和駅前を通過。  10:52

 ■北浦和~氷川神社一の鳥居
 与野駅前を過ぎるあたりから、●ケヤキ並木が現れます。 「さいたま新都心駅」の東側は●「コクーンシティ」という大規模ショッピングセンター。 すぐ先、右手に●氷川神社一の鳥居が現れる・・・・のはず?・・・。「武蔵国一宮」の石柱は立つが、鳥居はなし・・耐震工事で取り外されていました。 11:56

 ★氷川神社参道
 一の鳥居から本殿まで日本一長い●2kmに及ぶ参道が真っ直ぐ続いている。650本のケヤキを中心にした並木が続いて、耐震工事のおかげで車が通らず、気持ちよかった。 街道として考えると、真っ直ぐな道は国府郡衙を結ぶ官道として考えられる。芳賀氏の説く説に寄ると・・武蔵国政立当時は大宮に国府の役割を果たす役所があったが、府中の国府が整備されると大宮は郡衙となり、上野国からの官道が府中まで延長された。当時の官道はほぞ一直線に作られ、この参道も官道の一部と考えられる・・という。
 ●二の鳥居、●三の鳥居を過ぎると神社に入ります。  12:25

 ★氷川神社
 神橋を渡ると●楼門。舞殿の奥に●拝殿と本殿が鎮座。門客人神社外多数の摂社を有する。祭神は須佐之男命、 稲田姫命、 大己貴命。いずれも出雲に由来する神様です。「氷川」という名も出雲国の斐伊川に由来するという。 出雲族の兄多毛比命が朝廷の命により出雲から武蔵に移住し、武蔵国造となって当社を崇拝したとされる。 武蔵一宮といわれるが、武蔵国総社である府中市の大國魂神社では公式に「一宮」を小野神社、「三宮」を氷川神社としている。現在も大國魂神社の例大祭の祈祷に、氷川神社の神官が「三宮」として参じているそうです。 さて足立郡衙跡は氷川神社ではなく、東側の「氷川神社東遺跡」にあったとされ、その場所は現在の大宮球場のあたりと云われる。案内板でもあるかと探してみたけどわからなかった。 これで大宮街道は終わりです。案外距離があった。1:00終了

            1大国魂神社~下赤塚駅