志木街道を歩く2 
       (東大和市~志木新河岸川)
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 東大和市駅~奈良橋-武蔵大和-東村山-久米川-清瀬-清戸-愛宕-新座-野火止-志木-本町-新河岸川 21.29km


2023年5月21日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■清瀬郵便局~水天宮
 志木街道の2回目。西武線「清瀬駅」から前回終了した●清瀬郵便局前交差点から始めます。少し進むと右手に●馬頭観音・庚申塔群が立っていて、ここは小金井街道との合流点にあたります。右の塔は道標を兼ねて、「右 山口道 左八王子道」などとあります。
 東へ真っ直ぐ進む●志木街道のケヤキ並木。上清戸から下清戸まで2.6km続く並木はもともと屋敷林が続いていたものという。
 9.48

★水天宮・日枝神社
 しばらく進むと、左手に●水天宮と●日枝神社があります。水天宮は福岡県久留米市の本宮より勧請したもので、安産の神様で、今日も安産祈願の参拝者がちらほらしていた。 日枝神社は天正7年(1579)に中嶋筑後守信尚が社殿を造営したといい、日本武尊が東征の際、境内の柊の蔭で涼をとって、土地を指して”清き土なり”と言ったので「清戸」の地名の由来になったとかの説がある。境内に●三猿の石燈籠が二基立っている。"案内板"  10:00

■日枝神社~長命寺
 日枝神社の斜め向い側に全龍寺の●安産子育地蔵が建っている。 更に先、新小金井街道との合流地点左手に●長命寺があります。開基は、徳川家菩提寺の増上寺の法主を務めた感誉上人といい。徳川家と関係が深い。 その為か本堂の前には、増上寺の徳川家霊廟から"石造宝塔" が2基移設してある。又●薬師堂には清瀬市指定有形文化財である薬師如来立像が安置されている。この薬師堂は、昔は道路向かいにあって、「通称清瀬薬師」といっていたもの。 10:20

■長命寺~愛宕2丁目 
 左手の駐車場の中に●屋守神社という小さな祠が鎮座している。あまり聞かない名前なので、寄ってみた。小さな祠が覆屋で覆っているので、大切に守られている感じ。由来は全くわからない。 その先 左手やや高台に●八雲神社がある。覆屋の中の本殿の彫刻は見事でした。 左手に「せんべ味億本舗」があり、有名らしいのでこわれ煎餅を一袋買っておきました。その先、新座市に入っった、●「菅沢バス停先交差点」で、右に曲がって、大きな寄り道をします。なんとなれば「平林寺」がある為です。平林寺は何回か来ているけど、昔の話で、今回も寄って行かないといけないでしょう。 10:40 

■愛宕2丁目~史跡公園
 右手に「米軍通信基地」がある「富士見新道」という道を1km以上も行くと、●史跡公園という所があり、●野火止用水本流と野火止用水平林寺堀が分流する地点になります。"案内板"  ここから用水が分水されて、平林寺の方へ引き込まれていくようになります。用水を開発した松平信綱の菩提寺が平林寺であるので、その威光によるものでしょう。 ここから先、●野火止用水本流沿いに歩いて行きます。 11:12

★野火止本流・本多緑道
 ●野火止用水沿いの散歩道。用水は立川市で玉川用水から分水し、志木市の新河岸川に至る全長約24Kmの用水路だが、戦後生活排水が流れ込み、廃止になったが、下水を高度に浄化した水を流すようになり、昔の様な青流が流れるようになっている。
 ●本多緑道に進むと、更に緑が濃くなって白鳥などが飛んでいるのが見えた。左手は●雑木林で、昔の武蔵野の原風景の雰囲気が味わえる。"案内板" 11:16

 ■平林寺と睡足軒
 「市民総合体育館」を過ぎると、「関越自動車道」にぶつかるので、右折して「隅屋敷橋」を渡ります。左手に「平林寺堀」が流れている。 真っ直ぐ進むと「平林寺境内」にぶつかるので右折、右手にあった「さか重」で蕎麦を食べた。
 ●平林寺惣門から入って行きました。 なにせ境内が広いし、くまなく巡ると時間が掛かります。入口程度に留め、詳しくは公式サイトで願いたい。 ●山門と●仏殿。 12:25

 ●境内の風景。雑木林が広がっている。おすすめの季節は11~12月で、紅葉がきれいだし、落葉も重なってサクサクと歩きやすい。 ナラ枯れ被害により倒木の危険の為、一部立ち入り禁止の所があった。 惣門を出て、向い側に●睡足軒の森があって、高崎藩の飛び地になり、陣屋が置かれていました。"案内板" 。12:50

■野火止交差点~志木駅
 境内をぶるっと回り、●野火止交差点から再開します。この間「番星寺」、「若宮八幡」などは見られじまい。 JR武蔵野線のガードをくぐる。  右手●長方形の畑と住宅地が混在している所があって、このあたりも武蔵野の新田開発の名残が残っていると思います。 左手は「立教大学、中高等学校」のキャンパスです。●志木駅は地下道でくぐります。 14:05

 ■志木駅~本町1丁目
 「本町3丁目」交差点左手角に●「上の水車」跡があり、水車のモニュメントが置かれている。ここから先本町1~2丁目は野火止用水の流末に位置して、「引又宿」と呼ばれ、約600mの間に上、中、下と3ヶ所に水車が設置されていた。水車は主として精米に用いられ、引又宿で用いられたという。"案内板"
 ●本町1丁目の旧引又宿の町並。新河岸川へ向かって下り坂になっている。右手に●朝日屋原薬局がある。明治20年代に創業され、明治45年に現在地に移転し、店舗併用住宅の主屋を建築した。明治大正期に栄えた薬局の典型として貴重な建物群であり、国登録有形文化財となっている。隣に "志木町里程元標"が立っていて、「浦和町へ貮里拾三町六間」などと書いてある。 14:35

 ■本町1丁目~
 その先右手に●旧家が一軒。「住まい塾東京本部」とかいう旧家を利用した建築事務所らしい。サイト。 「市場坂上」交差点の手前左角に、●旧西川家潜り門がある。西川家は幕末には組頭を務めた名家。"案内板"。 交差点を渡った左角には、●実物大のいろは樋の模型が展示されている。 野火止用水は新河岸川で落水するところ、対岸の宗岡地区の灌漑のため新河岸川を渡る高架水路橋が作られた。橋は船の運航を妨げないようにするため、川面から約4~5mも高い所に架けられ、48個の木樋をつなぎ合わせてあることから「いろは樋と名付けられた。(国土交通省荒川上流河川事務所のPDF 14:38

  「栄橋」を渡った左手に●志木市役所。 向い側は「いろは親水公園中州ゾーン」となっていて、芝生公園などに整備されている。ここに●旧村山快哉堂という建物が移築されている。明治10年に建築された木造二階建て土蔵造りの店蔵で、本町通りに屋敷を構え、各種家伝薬を製造、販売する薬店だったという。●中州ゾーンからの新河岸川の眺め。 14:45

       ~いろは親水公園
 この先、志木街道としては「いろは橋」までだったのでしょうけど、「栄橋」で終わってしまいました。志木駅へ戻る途中、川岸に少々史跡があるので見に回ります。新河岸川右岸の「いろは親水公園右岸ゾーン」へ向かう途中、左手の民家の前に●いろは樋の大枡というのがある。"案内板"  明治期、木樋を鉄管に代え川底を通すことにした際の名残。「明治31年4月竣工」と刻まれている。しかし民家の庭先にデンと鎮座しているので、ここの家にとっては迷惑施設かも。 川の土手の上に●引又河岸跡の記念碑が立っている。"案内板"   新河岸川舟運と引又河岸の重要性が良くわかった。 その先、●引又観音堂が建っている。建立は昭和42年と新しく、付近にあった馬頭観音2体と聖観音を安置したもの。 15:15 

  ■いろは親水公園~志木駅
 川から離れて、細い坂を上がって行くと●敷島神社がある。祭神が「木花開耶姫命」で、境内に●「田子山富士塚」という堂々とした富士塚が築かれている。明治5年(1872)の築造。ただ登るのに制限があって、日曜は15時で終わっていた。あとは大安の日とかで、スケジュール表が貼ってあった。 これで志木街道終わりました。 志木街道は日野から発し、志木、大宮を経由し、岩槻で御成街道に合流する奥州脇往還と呼ばれていたという説もあり、調査中です。 15:20