東浦賀街道を歩く 2
   (金沢八景駅~西浦賀道合流地点)
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  金沢八景駅-六浦-和田山-湘南鷹取-港ヶ丘1-太田坂-十三峠-逸見駅-汐入駅-県立大学-京急大津 16.66km
 


 2024年11月17日  画面をクリックすると拡大します
■金沢八景駅~六浦交差点
 9時半頃 ●金沢八景駅到着。駅の南西にはかつて六浦藩の陣屋があったというので、駅すぐ南側の小さなガードをくぐって、一回りしてみたけど、何の案内板も無く、わからなかった。後で調べたら、今も藩主の末裔が在住とのことで、公開されていないとのこと。 国道16号へ出て、その向かい側奥に、●金龍院。本堂の庭園に飛石があるということで、寄ってみたけど、よくわからないので、引き返しました。 国道の●六浦丁字路まで来たら右へ曲がり、すぐ一本裏側の旧道へはいります。 この交差点は「鎌倉街道下道」との合流点で、右から「朝夷名切通」からの下道が合流してきます。 9:45

 ■六浦交差点~京急踏切
  旧道から環状4号の向側に見える寺院は●上行寺。元は真言宗の寺で「金勝寺」と号した。日蓮が下総から六浦津を経て鎌倉入りする際の船中で、乗り合わせた千葉氏の重臣・富木常忍を折伏して有力な信徒を獲得し、ここに着岸したことから「船中問答の霊場」と呼ばれる。その日蓮上人の船が到着したと伝わる場所が山門近くの●船繋ぎの松跡。 寺の南側はかつては海岸で、鎌倉時代には大きな船が寄港したりしたという。 道は「西六浦」交差点を左折し、「侍従橋」を渡ったら左に曲がって行く。 その先、「三艘橋」を渡るが 、橋の名前は、鎌倉時代、唐船三艘が着岸して、一切経や陶磁器などをもたらしたことによるという。 三艘橋を渡り、京浜急行線の踏切を渡った、左手に●庚申塔が2基。建立年は享保9年(1724)と寛文10年(1670)のもの。 10:03

 ■京急踏切~和田山入口
 この先は●住宅街をクネクネと進み、京急の踏切を渡り、国道16号に合流。●「和田山入口」交差点が横浜市と横須賀市の境界で、正面に ●傍示堂の石塔群が祀られています。市境のここはかつての武蔵国と相模国の境だったこともあり、悪病などが入らないことを祈願して、六地蔵や五輪塔、庚申塔等が多数祀られ、ここに集約している。 "説明板" 10:20

 ■和田山入口~追浜良心寺
 旧道は石塔群の先を左に入り、道なりに進むと●雷神社の境内に出ます。 火雷神(ほのいかづちのみこと)を主祭神とする神社で、931年(承平元年)に創建されたと伝えられています。 社名は通常、「いかづち」と読むと思うが、近くのバス停の読みは「かみなりじんじゃ」という。 国道に出たら、●京浜急行追浜駅前を通過。 その先、「良心寺入口」交差点を右に入り、正面に●「良心寺」が建っています。寺一帯が後北条氏家臣、朝倉能登守が開いた浦郷陣屋が置かれた場所と云われます。寺は応永年間(1394~)に曹洞宗の道場として開かれたが、その後無住となり、能登守が夫人の菩提を弔うため、天正11年(1583)に再興した。寺名は夫人の戒名である「良心大姉」から取られている。 寺の入口にある"庚申塔"は寛文12年(1672)に建立にされたもの。10:42

 ■良心寺~湘南鷹取入口
 旧道は国道に戻らないで、良心寺の門前から ●線路右手沿いに道なりに進んで行くと、正面に●首斬観音と彫られた石塔と題目塔、阿弥陀仏塔などが覆屋内に祀られている。 石塔は昭和3年で新しい。他は天保のもの。大正末期の国道工事の際に発見された多数の頭蓋骨を地元住民が供養したもので、天保飢饉の時の無頼者が処刑されたものではないかという。 道はそのまま崖沿いに進むと、●通せんぼの様な細い道に突き当たるが、抜けることができて、線路を渡り、国道に出ます。 10:50
 ■鷹取入口~がらめき切通  
 国道16号に合流した後、● 新浦郷隧道の手前で左に分かれる石段を上がるのが旧道という。上るとその先、「がらめき切通」を通る旧道が続く・」ということになっているはずが・・廃道になって通行不能という説と、抜けられるという説があって、行って見ないとわからないが、行くしかないでしょう・・ということで、上がってみました。  階段の上は落ち葉、枯れ枝が散乱して、人が通った形跡がない。 上がった先、一軒廃屋があった。●その脇を通過している踏み跡があるので、通ってみた。 少々藪こぎして進んだが、妙に東(浜見台方向)に進むので、違うだろうと元の所に戻りました。 国道に沿って上がる、"竹林" があるので、進んでみたら、●廃屋の前に出ました。 脇を通れるか見たけど、山腹を削って平地にしたようで、通過できません。・・というわけで通行を断念。  追浜側は通行不能でした。  11:10

  ★がらめき切通田浦側 
 「新浦郷隧道」をくぐって南へ出ます。ここにも階段があったので ●階段に沿って上がると、右側には民家が数軒。こちらは居住しているような感じです。 石段の先は細い野道が続き、コンクリート舗装路のある山道に出、右に曲がると、●「がらめきの切通しと呼ばれる切通に出会いました。・・ 「がらめきの切通し」を通る道は浦賀道の古道で、このあたりは「六部ケ入坂」と呼ばれる急坂があって、「十三峠」に次ぐ難所と考えられていました。 ここを通らないと、街道歩きの醍醐味がないくらいな感じで、 出会って良かったです。  切通しの北側は左右に通じていて、右へ行くと「浜見台の」住宅街。左へ行くと鷹取山へのハイキングコースになっているようです。 切通しの先は●山道の付いた旧道で、国道16号に向かって下って行くが、残念ながら、途中から消滅しているようで、右へ曲がり国道16号へ合流しました。  国道に出たら、旧道は警察署と「船越小」の間から、一山越え、南下していくが、港ヶ丘1丁目あたりまで、住宅開発で山も削られ、街道消滅です。  11:30

 ■港ヶ丘1丁目~盛福寺
 「港ヶ丘」 住宅街の中の道を適当に曲がりながら、●港ヶ丘1丁目15番」あたりの階段が、旧道復活地点になるので、ここを上がります。 旧道は頭上を通過しているで、山を相当削った跡になります。 ●田浦山トンネルの脇に出て、旧道が右手から下りてきています。 下った先、左手に●盛福寺がある。江戸時代初期に円覚寺管長の隠居寺として建てられ、元禄3年(1680)ごろ、七堂伽藍が建立されたが、2度の火災で面目を失い、"山門"だけは焼失を免れ、創建当時の四脚門の姿を残している。  12:00

 ■盛福寺~国道16号横須賀線ガード
 盛福寺の前を通る道の下には水道管が埋設されていた。明治時代、海軍が水道用水不足のため、水源地の愛川町半原から逗子市沼間を経て、田浦、長浦、逸見までの水道管を敷設した。その海軍水道の敷地の境界を示す"「海」を刻む石柱"が、●京急本線をくぐった先の道路沿いに数ヶ所残されている。 旧道は●分岐を左に入り、先で、右へ直角に曲がり、先ほどの水道路を越え、「JR横須賀線」沿いに東へ進み、●横須賀線ガードをくぐります。 12:12

 ■横須賀線ガード~太田坂
 JR横須賀線のガードをくぐった右手に、 "馬頭観音など多数" の石仏が祀られている。 すぐ先を右に曲がり、●崖沿いに南に進み、右手の赤い鳥居は「御嶽神社」。 その先、崖下の祠の中にも "庚申塔"など4基祀られています。 しばらく進んで、「京急本線」の向こう側の●小山に「田浦梅の里」の看板が立っています。春には梅の名所になるのでしょう。 旧道は左に折れ、●太田坂に向かいます。いよいよ、十三峠を上ることになります。 12:25

 ■太田坂~十三峠
 太田坂を上った先は●急階段が続き、上がりきると●浦賀道(十三峠)と記された標柱が1本立っています。この先しばらくは十三峠と呼ばれる、アップダウンする峠道が13ヶ所も続くのかと思うと、そうでもなく、入口、出口は急坂ではあるが、途中はゆるやかに上がり下がりする尾根道が続くようになる。 現在では住宅もあり、車も通るしで、大部なだらかに改修されていると思うが、昔は浦賀道最大の難所であったとは云われています。 十三峠の名の由来には、保土ヶ谷より13番目の峠ということで名付けられたという説や、峠に十三仏を祀った寺があったからという説などがあるという。 ●標柱の所から右手へ向かいます。 12:31

 ★十三峠頂上あたり?
 ●少々の上り坂を上がり、右側に住宅が並び、左側には木々の間から●横須賀の軍港、街が眺められ、眺めが良く、難所という感じはしません。道もゆるやかな上りが続きます。   12:43

 ■十三峠~安針塚
 道は緑が濃くなって来て、●塚山公園に入ります。 左手の高台に●按針塚がある。 三浦按針(ウイリアム・アダムズ)といい、 イギリス人。慶長5年(1600)台風で難破し、大分県に漂着。その後、徳川家康の信任を得て、外交顧問として仕えたほか、砲術・造船術・航海術などの西洋文明を伝えました。この地に三浦郡逸見村に250石の領地を与えられ、 妻は江戸日本橋大伝馬町の名主「馬込勘解由」の娘であった。 元和6年(1620)平戸で病死している。遺言により逸見の地に供養塔が建てられた。 左側が夫人の供養塔。"説明板"  按針塚を回り込み、●急坂を下り、「塚山公園」の中を進みます。  13:05

 ■安針塚~逸見駅
 有料道路の料金所が見えたら、「逸見駅→」の看板に従い、右に曲がると、●「琵琶首坂」という坂になり、急激に下って行きます。住宅街に出たら、●崖沿いの細道を通り、●京急「逸見駅」手前のガードをくぐります。 13:17

 ■逸見駅~
 住宅の中を左、右と曲がって行き、●国道16号、「汀橋」交差点に出たら、正面に「ウェルシティ横須賀 天空の街」というタワマンが聳えています。 国道を右に曲がり、次の交差点角のコンビニで食料少々買い込み、コンビニの前を右に回り込み、その先の、"階段道"が浦賀道というので、上がって行きます。 階段を上ったら、右手に●逸見子育て地蔵尊があります。しっかりとしたコンクリートのお堂に納まり、数体の地蔵が祀られている。元禄年間に、 往来する子供連れの旅人16人が、飢えと疲労のためこの辺りで死亡。 哀れんだ村人が、めい福を祈って祀ったという。  さらに階段道を上り、住宅地の中の細い道を行くと●「うらが道↓→」と記された標柱が立てられているので、ここは素直に右の階段を上がります。 しかしこの先、階段道や上り坂が続くので、ここも難所の一つには違いないでしょう。 かなり疲れます。 13:40

   ~汐入駅
 更に道なりに進み、ブロック塀に貼られた「←うらが道」という表示って左へ曲がるのだが、表示を見落として通過してしまい、GPS確認して、気がついて表示の所まで戻ってきました。 表示通り、 左へ曲がった先は●又階段で、やれやれと上り、その先は少し下りの●緑の濃い細い道で、歩きやすい。 クネクネと曲がりながら最後の階段を下ると●京急汐入駅前に出ました。この間、住宅は建っているものの、車が通れる訳も無く、じいさまが両手ポールを握りしめ、リュックをしょって階段を上がってきたけど、足が弱った高齢者の方々は生活が大変だ-と思います。 13:55

■汐入駅~上町1丁目交番
 駅の南側を通過して、「汐入小学校」石垣にぶつかり、旧道は校庭を通っていたようで、今は南側に迂回します。ぐるっと回って●旧道が復活するが、階段道で、登り切ると「うらが道」標柱がある。標柱を右に曲がると、又階段で、 階段の先は軽自動車なら通れる生活道になっている。更に長い上り坂が続き、ずーと行くと、結構急な下り坂。この坂道を●「うぐいす坂」と呼んでいる。 坂上に咸臨丸の副艦長格であった浜口英幹の花屋敷と呼ばれた住居があったそうだ。"説明板"  グーと回り込み、●県道26号「三崎街道」に出ます。右手に小さな"道路元標"がある。「神奈川県」しか彫られていない。国道31号(現16号線)の終点であり、県道横須賀三崎線の起点でもあったというが、大部現状とは違っている。旧道は斜め左へ行きます。 ようやくこのあたりでアップダウンの続く山坂道は終わりになり、平地を歩けるようになります。 14:20

 ■上町交番~県立大学駅
 県道の1本東側の裏道をずーっと進み、側道のある市道へ出る手前、「うらが道」標柱の立つ、正面が"坂本龍馬の妻、おりょうの旧居跡" だったとは、あとでグーグルアース見ていたら、わかりました。ちょっとびっくり。事前学習の不足ですね。市道の側道を歩くと。→角に●聖徳寺。旧道は聖徳寺の門前を過ぎ、京急のガード右斜めにくぐって線路沿いの道に下ります。この先は、国道16号南側を一路、「西浦賀道合流地点」に向かうだけになりました。●「京急県立大学駅」を過ぎると、「どうみき坂」という標柱が立っています。京急ガードから坂が続くが、一応くぐった先、長い坂が●どうみき坂でしょう。なんでも、山口百恵さんの「横須賀ストーリー」の一節、「急な坂道 駆け上ったら・・」の坂が どうみき坂 なのだそうだ。 14:40

 ■県立大学駅~春日神社
 旧道を進み、「安浦第二公園」脇に●「うらが道」の標柱が立っている。その先、右手に●浄蓮寺。日蓮宗。応永年間(1394年~)の頃の創建。「公郷学校跡」の標柱が立ち、市内で最も古い学校の一つという。 その先、右手に●春日神社がある。 奈良の春日大社から勧請した公郷村の総鎮守社。創建は平安時代。 元は猿島に本殿があり、島に向かって遥拝する拝殿が造られた。明治になって猿島が軍用地になった時に本殿が拝殿の地に遷座したという。  14:58

 ■春日神社~京急大津駅
 今日、ゴール予定の「京急大津駅」が近くなって、急ぐ余り、国道134号手前にあるはずの「「砂坂地蔵としらすがわ地蔵」を見逃してしまいました。 そしてその先、●京急大津駅入口の交差点へ、右側から、戸塚宿から三浦半島を横断してきた「西浦賀道」が合流してきて、一緒に「浦賀奉行所」に向かいます。 今日はここまでで、右折して●京急大津駅から帰りました。大津駅を使うのは3回目です。この先、浦賀奉行所跡までの行程は、「西浦賀街道 3」を流用しています。 15:25終了

    1 保土ケ谷~金沢八景     3 合流点~浦賀奉行所跡