東浦賀街道を歩く3
    (西浦賀合流点~浦賀奉行所跡)
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  京急大津駅-矢の津坂-浦賀駅前-浦賀丘-愛宕山公園-浦賀奉行所跡   4.27km
 


      ※ 西浦賀街道合流点から浦賀奉行所までの記事は 西浦賀街道分を流用します。
2024年11月3日   画面をクリックすると拡大します
■京急大津駅~東竹沢
  西浦賀道3回目。前回の終点、●京急大津駅です。この間、東浦賀道も保土ケ谷から、金沢八景まで歩いております。駅脇には「宿守稲荷社」が建っており、正徳3年(1713)の創建と伝わる。京急の開通の際、線路のため撤去されて、現在の場所に移された。   すぐ先が●東浦賀道との合流点。左から保土ケ谷からの「東浦賀道」がやって来ます。右に曲がってゴールの浦賀奉行所まで4km程です。 ●旧道に入ります。右手の塀に"浦賀道と大津湊" の説明板が架かっています。 10:45

  ■東竹沢~国道16号
 道はほどなく、県道208に合流し、その先●京浜急行のガードを潜った先から上り坂が続きます。 この坂を●「矢ノ津坂」と呼んび、昔は今より、大変な急坂で雨が降ると、膝まで埋まる悪路で「馬子泣かせの道」といわれたという。 明治から大正にかけて平準化工事を行い、昭和18年頃には陸軍の要請で拡幅されて現在のような状態になったそうです。 ●横浜横須賀道路手前から、下り坂となり、一路下って行きます。右手に小さな地蔵が祀られ、全身布地に巻かれていました。 11:03

 ■国道16号~浦賀駅前 
 左手、歩道際に、●7基の「馬頭観音」が並んでいる。案内板などは立っていません。あちこちに立っていたものを、集めてきたのでしょう。街道らしさが残っています。 坂を下りきると●京急浦賀駅前に到着。"浦賀駅" 駅前を●右折し、浦賀通りへ入ります。
 11:20

 ■浦賀駅前~浦賀通り
 右に曲がると見える巨大な建物が見え、●住友重工業、旧浦賀造船所の跡地で、造船所は一世紀以上に渡って約1000隻の船を造ってきたが、平成15年に閉鎖された。現在は横須賀市に寄付され、イベントの時などしか公開されないという。レンガ積みドックなど興味が湧きます。 ●浦賀道を進みます。浦賀は入江を挟んで「東浦賀」と「西浦賀」に分かれて、船番所・奉行所などは西浦賀にあります。 "浦賀の地図"  右手に●「大衆帰本塚の碑」というのが建つ。 安政5年(1858)、疫病により多数の無縁仏が出た為、一箇所に集めて埋葬することにして、その際の塚を「大衆帰本塚」と呼んだ。、その碑を元治元年(1864)に建てたもの。
 "説明板"  11:27

 ■浦賀通り~浦賀丘3
 ●浦賀丘交差点。正面はレンガ塀の「浦賀ドッグ跡」。広大な空き地で、横須賀市に寄付されている。入口脇に「浦賀造船所」の説明板が立っていたが、摩滅して読めなかった。 その先、●分岐を右に●浦賀道に入ります。車も少ない、静かな脇道で具合が良い。脇に"浦賀道の説明板" が立っています。11:40

 ■浦賀丘3~愛宕山公園
 コンビニ脇から海岸通りへ出ると、●きれいな浦賀入江が見渡せ、対岸は東浦賀、その向こうは房総半島「金谷」あたりでしょうか。久里浜から東京湾フェリーが出てます。 程なく、右手高台に●叶神社が鎮座。鎌倉時代、文覚上人が源氏再興を発願し建立したという。"由緒書" 東浦賀側にも分霊、分社してあります。 県道が右折してきて、合流する右角に建つのが●旧廻船問屋の富井家
"説明板"  11:53 

 
 ★愛宕山公園
 県道を横断した先、右手奥の石段を上がって行くのが「愛宕公園」で、石段が狭いので少しおっくうではあったが、行かねばなるまいと、ゆるゆると上りました。"説明板"  頂上手前にあるのが●咸臨丸出航の碑"説明板" 安政7年(1860)1月、日米修好通商条約批准書交換のため、勝麟太郎以下90余名の乗組員により、咸臨丸で浦賀を出航し、米国での大任を果たして、万延元年(1860)5月に帰航した。日本人だけの初めての太平洋航海で、さぞや苦労が多かろうと察せられます。碑の裏に咸臨丸乗組員全員の氏名が刻まれている。一段高い所に●浦賀奉行所与力中島三郎助の碑がある。"説明板" 幕府海軍の草創期に活躍し、箱館戦争に参加して戦死している。その隣に●与謝野夫妻の文学碑があります。昭和10年当地を訪れた際詠んだもの。 頂上で●浦賀湊全体をパノラマにしてみたが、樹木が多くて、上手く撮れませんでした。 12:05

 
■愛宕山公園~浦賀奉行所跡
 ●旧道に戻り、少し先、右手に見えるのが●為朝神社。ごく普通の神社だけど、寛政12年(1800)、海に漂流していた木像を引き上げたところ、鎮西八郎為朝の像であったといいます。 神社の前を通過していくと●浦賀奉行所跡にぶつかりました。現在は空地になっていまが、住友重工業の敷地で、社宅が建っていました。グーグルマップで平成17年の写真を見てみると、良くわかります。"説明板" "浦賀奉行所全景" 浦賀奉行所は享保5年(1720)、伊豆下田から移転し、船改め等の業務に従事していた。嘉永6年(1853)6月、ペリー艦隊が浦賀に来航した際には、中島三郎助など、浦賀奉行所の役人たちが活躍し、その後の日米外交に大きく貢献しました。 12:25

 ■浦賀奉行所跡~
 一応戸塚から浦賀奉行所跡までの西浦賀街道はゴールしました。時間があるので、東浦賀へ回ってみようと、海岸通りを戻ると、●船番所跡の看板が立っています。奉行所の出先機関で明治5年まで船改めの業務をしていました。 少し戻ると浦賀の渡し場があって、東西浦賀を●渡船が通っているので、乗ってみました。渡船賃400円。市民は200でした。東浦賀に渡った先、●東叶神社が高台に鎮座しています。西の方が本宮で、こちらは分霊したもので、「若宮」とも呼ぶらしい。 

      ~東浦賀
 勝海舟が咸臨丸での太平洋横断前に、航海の安全を祈願して、水垢離をしたという"井戸" が、社務所の裏にあり、また●断食祈願をしたという場所が石段を上がって行った先にあります。 ●西浦賀側からのパノラマ。 

    1保土ケ谷-金沢八景    2 金沢八景-西浦賀合流地点