北国街道を歩く 3
          (テクノさかき~篠ノ井) 
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 テクノさかき駅-中之条-坂木宿-磯部-上戸倉-下戸倉-千曲-戸倉-矢代-追分-篠ノ井  20.01km
 

 20022年5月50日 * 写真をクリックすると拡大します 
■常磐城4~塩尻東
 (前頁の続き) 千人塚の所で終わろうと思ったが、翌日の天気予報が思わしくなく、まだ午後4時なので、この先坂城あたりまでがんばってしまおうと思い、先に進みました。
 「秋和」という地区に入ります。右手に"屋根で覆われた杉の切り株" があり、真田昌幸が秋和村の北国街道沿いに267本の杉並木を植えたと伝えられている。●秋和の町並。養蚕の盛んな地区だったようで、気抜き窓を備えた家が散見される。 しばらく行った右手に●豊秋霧原野神社の常夜灯と猿田彦大神大塔が並んでいる。大塔の方は寛政12年(1800)、庚申の年に村人と北国街道の旅人の安全を祈願して建立したという。●上田バイパスのガード手前あたりは切通で、旧道は右手の林の中を通っていたらしく、右手高台が「一里塚公園」になっており、そこに●道標が一基立っていて、「右北国街道 左さくば道」と刻まれ、歩いてきた道は農道だったことがわかる。 16:26

 ■塩尻東~上塩尻
 上田バイパスをくぐって●旧道に復帰。高台の一里塚公園を通って来た北旧道は、バイパスを越えて、ここにつながっていた。●「上塩尻」地区に入ります。細い路地のような道が続き、石垣と長い土塀を巡らした風情のある町並です。右手「小岩井紬工房」がある。●国道に合流しますが、すぐ手前に右に入る極細い旧道があるらしかった。 国道に出たらすぐ右に曲がり●「下塩尻」へ入って行く。
16:46 

 ■上塩尻~坂城(旧鼠宿)
 しばらく●二段になった水路に沿って進み、右手に崖が迫る●岩鼻の崖の下を通ります。昔は千曲川が崖下まで迫っていたので、旧道は崖の中腹を通っていた難所で、参勤交代の加賀の殿様は岩鼻を通過できると国元へ、飛脚で無事を伝えたという。
 坂城町に入り、●くらかけ橋を渡ると鼠宿に入って行く。鼠宿は間宿で、古代にのろし台が岩鼻にあったので「寝不見(ねずみ)からこの珍しい名前が生まれたという。松代藩はここに口留番所を置いて、藩主のみの本陣をおいた。いわば松代藩の為の私的な宿だった。
 先の一里塚橋 の先に "鼠宿の説明板 "がある。右手に●会地早雄神社。 境内に"万葉防人歌碑 " がある。17:06

 ■鼠宿~テクノさかき駅
 国道へ出て、向かいは●みそ蔵の新田醸造。 その先の左手に●明治天皇小休所跡の標柱が立つ。「新地」信号先で右手に入り、●「南条地区」の旧道を進みます。左手に●地蔵堂があり、大きな石碑があるが、文字は読めません。 その先「谷川」まで来た所で、「てくのさかき駅」があるので、ここで止めにしました。17:35  今日一日、国分寺跡、上田城など寄り道が多く、よく歩きまして、35kmほど。ホテルは上田に戻って「東横イン」でした。

 2022年5月30日
■テクノさかき駅~中之条
 上田からテクノさかき駅へ来て、早速前回の●谷川の旧道から開始する。  あるき馴染めてすぐ右手●往海玄古碑というのがる。 江戸時代初期にたばこの栽培を広めた往海玄古の碑。明治になるまで「玄古たばこ」として、この地の名産品だったそう。続いて右手に●芭蕉句碑・・・身にしみて 大根からし秋の風・・・貞享5年(1688)坂木本陣宮原邸に招かれたとき詠んだ句。  左手に「天領中之条陣屋跡」という碑があるので、入っていくと、小屋の壁に"案内板 "が貼ってあるだけで、あたり一体が陣屋跡だと想像するしかない。
 街道に戻って国道の右手●文化の館といって、 坂城町の文化活動施設で、東京在住の塚田氏の生家を利用。「陣屋郷宿といって、陣屋に公用で来た人が泊まる定宿に一つらしい。 9:32

 ■中之条~四ツ屋
 国道を右に入った所にあるのが●中之条陣屋稲荷社。明治4年、陣屋廃止の際全村民の願いにより、ここに遷座してきた。次に「逆木通り」を右へずーと行って、町立図書館内にある●旧格致学校校舎 へ行ってみました。松本にある「開智学校」のような、 明治初期の擬洋風校舎。現在は歴史民俗資料館。  国道に戻って来て、●善光寺常夜燈の立つ左に入る脇道が旧道なので、脇道を行きます。「四ツ屋」交差点で国道に合流し、渡った先に●甘泉がある。題字は中之条陣屋代官の筆になるもので、伏流水が湧いていたが、現在は涸れている。10:17

 ■四ツ屋~田町
 ●四ツ屋の集落の町並。前方に小山がせまり、白壁の塀、門など旧家風な建物が見られます。 左手に●二十三夜塔、道祖神、庚申塔が並んでいます。 右手に●田町十王堂(閻魔堂)、その奥に●村上義清公募所があります。村上 義清は、北信濃の戦国大名。武田信玄と戦い2度撃退している。その後、敗退。上杉謙信を頼り、越後へ落ち延びた。 "説明板 " 10:29

 坂木宿
 村上氏の領地から、幕府の直轄領になり、陣屋が置かれたため、城下町のように五ケ所で直角に折れる。宿場は慶長8年(1603)に成立した。本陣、脇本陣、問屋、旅籠が置かれ、特に飯盛女を置くことが許可され遊興の地としても栄えた。坂木は明治に坂城と改名している。

 ★坂木宿
 墓所の先を左直角に曲がると「坂木宿」に入ります。右手に●大神社がある。●坂木宿の町並。 突き当たった左側は●坂城駅で、駅の左側に「坂木代官所」があった。 ●駅前を北上。宿内5回曲がるというので、その2回目。 坂木宿は生産性が低く、伝馬役勤めが困難で飯盛女が許可された為、遊興の地として賑わったという。 10:50

  右手に●坂木宿本陣宮原家表門が残って、 現在は「坂木宿ふるさと歴史館」という、町の施設。 3階建ての本館は医院として昭和初期に建てられ、●「明治天皇御小休所」碑が立つ。 その先、右手に●坂田家がある。長く名主を務め、海鼠壁と「さかた」の浮き彫り文字が残っている。「大橋」を渡った先左手の●山浦家は、全面連子格子で貴重な建物の感じだが、空き家のようで、崩れそうな感じがする。保存が必要かもしれない。 10:59

 ■坂木~横吹新道
 宿は先で直角に左へ曲がるが、真っ直ぐ進むと、●満泉寺がある。ここは、村上義清居館跡で、菩提寺。"説明板 "  元に戻る途中、後ろを振り返ると、●鳥居が見え、坂城神社への参道が続く。社殿まではいささか遠いです。神社の後背の山に村上氏の葛尾城跡がある。 もとに戻って左折して行くと●善光寺常夜燈のある角へ来る。坂木宿の西の枡形で、宿はここで終わる。 その先右手から「産業道路1号線」という看板の架かる道路が合流してくる所に、薄くて読みにくいが、"「旧北国街道横吹道跡」 " という案内板が立っている。ここから先は右手の山腹の断崖沿いを通っていて、「横吹八丁」といわれ、北国街道最大の難所だった。参勤交代の殿様も駕籠から降りて通ったという。 これから進む道は●明治10年に開通した新道で、しなの鉄道をガードでくぐります。11:13

 ■横吹新道~磯部南
 ●国道沿いの新道を進みますが、右手山腹を眺めると、フェンスが続く道が通っており、「横吹八丁」の跡と思い、通れる感じがしなくもないが、出口がないらしいので、強行突破は不可能でしょう。右手に"「横吹新道づくり」 " という案内板がたっています。左手千曲川沿いに「刈谷原ミニパーク」があって、●「笄(こうがい)の渡し」の案内板、「名勝横吹」の案内板などが立っている。葛尾落城の際、村上義清の奥方は対岸に渡してもらったお礼として、船頭に髪に挿していた笄(髪飾りのこと)を贈った。以後、この渡し場を「笄の渡し」と呼ぶようになったという。"説明板 " 先の右手に●泉徳寺。宮本虎杖の句碑というのはわからず。 ●「国道舗装記念碑」という大きな石碑がある、岩崎街道踏切を渡りと上戸倉宿です。 11:56

 上、下戸倉宿
 戸倉村は江戸時代初期までは一つの村であったが、千曲川の洪水により上戸倉村が移転して、宿も同時に分かれた。以後合宿として機能し、月の半分づつ伝馬役を務めた。
 上戸倉宿には本陣、問屋が置かれ、下戸倉宿は国道が通った為、交通量が多く、真ん中にあった水路も埋められ、当時の面影は少ない。本陣1軒、問屋2軒が置かれた。

 ★上戸倉宿
 ●上戸倉宿の家並み。千曲川の洪水により戸倉宿が上下に分かれた。下戸倉宿と合わせて一宿として機能していた。 人出がおらず静かなもの。 左手ごみ置き場が●上戸倉宿本陣(玉井家)跡。右手に●問屋・本陣を勤めた(小出家)がある。その先を●左折。正面は大きな蔵を持った屋敷。ここが本陣かと思った。 12:03

 ■戸倉交差点~
 磯部踏切を渡って、国道に出ます。この先は下戸倉宿。宿の中を国道が通って、宿の面影はありません。入り口もどこからだか、わからないくらいで、●「戸倉」交差点手前の、歩道橋あたりが宿入口だったらしい。 本陣を勤めた「柳沢家」は交差点右側の「スーパー西友」になったという。その●元スーパーらしいかまぼこ型店舗は残っているので、本陣跡でしょう。「明治天皇行在所跡」碑が立つというので、あたりを探したが、わからず、後でグーグルアースで探したら、2軒先の切込みの様な空地に"常夜燈と並んで "立っているのが見つかりました。
 「戸倉」交差点を左に曲がって、少々の寄り道です。 右手に●水上布奈山神社があって、 下戸倉宿の鎮守。境内の●灯籠は下戸倉宿の飯盛女が寄進したもので、台石に名前が彫られているところ、摩滅して読めなかった。 "本殿 " は彫刻の題材が豊富で、彫りが深く、豪壮というので、重要文化財。 12:40

    ~佐良志奈神社
 その先●千曲川を渡ります。●佐良志奈神社が建っています。更級郡内に所在した式内社のひとつ。"説明板 " 正面の●神社社標は「正親町三条実愛卿」の書であり、側面の撰文は「佐久間象山」による。 境内に立つ●宝篋印塔は北朝の永和2年(1376)の銘がある。また南朝方の兵士たちの逆修塚(生前に建てた自分の墓)とも伝わる。しかし南朝方が北朝の年号を使うものか疑問。 13:06

 ■戸倉交差点~千曲駅
 交差点へ戻って北上。左手に●下戸倉宿の「下の酒屋」と呼ばれた「蔵元坂井銘醸」が江戸中期の建物だそうだ。入口交差点の右手北側が柳沢家の後の本陣を勤めた宮本家跡だが、空地になっている。国道の向かい側に●姥捨山への道を示す「姥捨道標」が立っている。
 「今井信号」の先で右へ入っていく。 火の見の下に●石碑が立つ。「信濃宮御古蹟迄二町」とあり、しなの鉄道を渡った先の柏王神社にある、南朝の宗良親王が越後からの帰途、髻(もとどり)を切って祈ったとされる塚のこと。 その先道祖神・二十三夜塔などが並ぶ。 「千曲駅」に近づくと、●古い家並みが残っている。 14:03

 ■千曲駅~屋代駅
 駅を過ぎて、寂蒔(じゃくまく)の集落に入ると、線路際に●寂蒔水除土堤跡という小さな石垣が積まれている所がある。千曲川の氾濫から田畑を守るために気づかれた土手の跡で、ほんの一部だけ残っている。 ●寂蒔仲町付近の町並。約半数が「宮坂」姓といわれて、なるほど「宮坂姓」ばっかし。 間宿だった寂蒔には茶屋本陣があり、千曲川を隔てて姥捨山を眺望した眼鏡場が残っていると、案内書にはあるが、全く不明。 ●屋代駅前」を過ぎます。 左手に●巨大な「筆塚」と「道祖神」碑があった。 15:16

 ■屋代駅~横町
 左へ入っていくと、●屋代小学校の旧本館が保存されている。明治時代の擬洋風旧校舎で、現在は教育資料館。 街道は突き当たるが、左手に●旧旅籠だった藤屋旅館。 突き当り正面が●須々岐水神社 。ここを右折し、「是より 善光寺 四里」という新しい標柱が立って、すぐ先を左折して、●「矢代宿」へ入ります。 15:30

 八代宿
慶長年間北国街道開設と共に成立した。寛文(1661~)の頃より「矢代」に改名している。途中から「松代道」が分岐し、洗馬からの「北国西街道」が接続する、交通の要衝であった。
 本陣1 脇本陣1 問屋2 旅籠39軒が置かれた。

 ■横町~国道18号
 「高見町」交差点の所に「雨宮渡2.6km」の標識が立っている。頼山陽の・・鞭声肅肅夜河を過る・・という漢詩で有名な渡しだが、千曲川の流れが変わって、今では街の中。詩碑が建っているそうだが、遠くてとても行かれません。 先の右手に●「北国街道信濃矢代宿脇本陣跡」の石標が立っている。先の右手に入る細道が●北国街道松代道。ここは松代道との追分にあたる。案外細い道です。"案内板 "
 そのすぐ先右手に●矢代宿本陣跡で、 「明治天皇屋代御休所」碑が立つ。 街道はその先、国道18号に突き当たり、右折して、少し先を●左前方に進む。旧道は消滅しているが、現在の道なりで、「矢代渡し」へ向かいます。 15:46

 ■国道18号~軻良根古神社
 長野自動車道、更埴ICに沿って進み、このあたり工場が多く、トラックが行き回い、排気ガスや粉塵もあり、歩行者などいません。●ガードをくぐって進む●千曲川の土手に出ました。このあたりが「矢代の渡しでしょう。対岸へは昔は繰舟、明治では舟橋から木橋に変わっている。 現在は渡しはないので、結構な迂回を強いられます。 新幹線、しなの鉄道を越し、篠ノ井橋を渡って、対岸の「軻良根古神社」まで約2km、おまけに対岸は護岸工事で、上乗せ迂回を強いられた。対岸に●軻良根古神社があります。明治天皇の巡幸の際、天皇は輿に乗って渡河されて、神社でお召し替えされたということで、境内に●大きな御召換碑が立っている。矢代の渡し跡へは護岸工事で土手へ上がれなかった。"説明板 "  16:35

 ■軻良根古神社~見六橋
 神社から旧道を北上します。 左手に「郡役所跡・警察所跡碑」があるが、碑文だけで、畑になっている。 突き当たると、左から中山道の洗馬宿からの北国街道西街道が合流してきます。ここは西街道の追分で、間宿の「追分宿」がありました。合流する角に、●篠ノ井追分宿碑がある。 ●西街道と合同して東へ向かい、新幹線としなの鉄道のガードをくぐります。追分宿は間の宿で宿泊は禁止されていたが、旅人も多く、無許可の旅籠屋もあり結構繁盛していたそうだ。今はそんな面影はありません。右手に●旧家が1軒。 16:50

 ■見六橋~御幣川五差路
 真っ直ぐ進むと●見六橋で左に曲がり、すぐ先の二股を左に行きます。●御幣川の旧道を進みます。左手に「香福寺」、「宝昌寺」などがある。 ●御幣川五差路で旧道は右斜の細い道へ進みます。左角に●歯瘡医殿という、珍しくも歯の神様という社殿がある。"説明板 " 。さて本日はここで終わりにして、ホテルはこの先の「ルートイン篠ノ井」でした。 17:15

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