五日市街道歩き旅1   1 梅里から西武多摩湖線踏切まで 歩行地図
 梅里-成田東-高井戸東-宮前-吉祥寺-武蔵野大学-喜平橋-西武多摩湖線踏切   16.7km     全線43.6km     
 

 1 梅里から西武多摩湖線踏切まで   2 西武多摩湖線踏切まで拝島駅まで  3 福生駅から武蔵五日市駅まで

 五日市街道
 徳川家康の江戸入府後、五日市(現・あきる野市)や檜原から木材、炭などを運ぶために整備された脇街道で伊奈道とも呼ばれた。東京都杉並区梅里で青梅街道から分かれ、吉祥寺、砂川、牛浜の渡し、伊奈宿を経て五日市宿に達する全長約43kmの道です。
  しかし1956年、横田基地拡張に伴い、立川市西砂町~福生市第5ゲート前交差点の区間が米軍に接収されて分断されてしまった。そのため現在の五日市街道は、西砂町宮沢付近から横田基地の南側を迂回するコースとなっている。
参考書
       1 「歴史の道調査報告書・五日市街道」(東京都教育委員会)
       2 「五日市街道を歩く・筒井作蔵」(街と暮し社)

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2009年10月12日

 新高円寺~成田東3
 10月12日地下鉄で新高円寺駅で降りた。青梅街道を歩いて以来2度目になる。
 クイーンズ伊勢丹前の交差点に「五日市街道入口」の表示がある。ここが青梅街道との分岐点で五日市街道の入口と間違えやすいが、入口はここではなく、ちょっと先のヘヤーサロンの所の細い角が「旧道入口」であって、バスも通っている。ここらは古くは少し先が馬橋村だったことから「馬橋おんだし」と呼ばれていた。突き当りに「大法寺」がある。玄関は工事中でブルーシートがかぶせてあった。  10:22

 「大法寺」の所で間違えやすい交差点から「五日市街道」にぶつかり右折して行く。しばらく「現代の五日市街道」と同じ道を歩いて行く。途中左手に「妙法寺」からの参道道が合流してきている。
 しばらく行った、「成田東3」信号あたりから難所と言われた「七曲り」が始まる。現在の五日市街道を挟んで右に左にジグザグに曲がりくねって進むわけ。最初の入口は左手にある「そば処さくらい」角で旧道は、ここを左に入りすぐ右にカーブする。

成田東3~尾崎橋
 現五日市街道に突き当たり、ここを横切って道の反対側にある 「加冨山米店」の左の急坂の
「白幡坂」を下りて行く。
 突き当った右角に3体の石仏が建っていて、右から元禄11年(1698)の地蔵塔、宝暦10年(1760)の馬頭観音、左が宝暦3年(1753)の地蔵塔。 突き当った道が「馬橋みち」といい、左に曲る。現代の五日市街道(新道と呼んでおく)に出るので右折する。  10:58

尾崎橋~豊多摩高校前
 現在の尾崎橋を渡る。下を流れるのが「善福寺川」。昔の尾崎橋は上流10m程の所に架かっていたという。両岸が「善福寺川緑地公園」になっていて緑が豊かな所だ。
 橋を渡った右側の細い道を行くと、突き当りに
宝昌寺がある。この入口左手に道標を兼ねた石橋供養塔があり、右側面に「東江戸道」と刻まれている。

 旧道は、宝昌寺の先で新道にぶつかり、
横切った先に旧道が続く。この旧道は、「児童館前」で再び新道に出る。
 五日市街道を横切り、自動車工場の前をぐるっと左回りに行く。
 すぐ新道にぶつかり、渡って右斜め前方に続く旧道を行く。このあたり誠にめまぐるしく、左右に曲りながら進んで来た。 11:13

豊多摩高校前~高井戸東
 その先成田西二丁目19表示板のある角を右折すると、現五日市街道に出る。右手には宝永5年の大きな庚申塔がある。出た所は「関東バス、五日市街道営業所」になっている。
 新道をしばらく行くと「高井戸境」の交差点が五差路になっており、右から来る道を南へ行くと「鎌倉街道上道」へつながる古道だという。左折した道はすぐ右折して現五日市街道へ出て行く。         11:30

高井戸東~宮前
 その合流点に五日市街道の碑と案内板がある。結構広い場所で史跡というわけでもなく、ただ碑が立っているだけ。  ここから先は現在の五日市街道を真っ直ぐ進んで行く。
環8通りを越え、左手、宮前一丁目角に庚申塔2基がお堂に入っている。延宝6年(1678)と元禄9年(1696)のもので、青面金剛と三猿が彫られた典型的な庚申塔である。この辺りはかって大宮前新田といわれ寛文年間に砂川道(五日市街道)沿いの新田村として開村したという。

 この先高井戸警察署前辺りから右手には立派なけやき並木が続き、武蔵野らしい雰囲気が漂ってきた。
 古い風情を残す鮮魚屋「魚鐘」があり、右手に大宮前春日神社 がある。春日神社は旧大宮前新田の鎮守で、大宮前開村の万治年間(1658~)に農民井口八郎右衛門の勧請によって創建された。ここの狛犬は鹿が使われている。
 春日神社の西隣にある慈宏寺は寛文12年(1672)、井口杢右衛門の開基といわれる。  11:55

宮前~吉祥寺
 新道を西へ真っ直ぐ進み、武蔵野市の境手前右手に松庵稲荷神社がある。旧松庵村の鎮守で、松庵村は、万治年間に松庵という医者が開いたと伝えられる。
 この境内入口に元禄3年と元禄6年(1693)の2基の庚申塔があり、元禄3年のものには「武州野方領松庵新田」と刻まれている。
 松庵小学校前交差点で杉並区から武蔵野市に入り、JR中央線のガード越えて行く。吉祥寺の街が広がる・・・

吉祥寺~成蹊大学
 「吉祥寺」という名前は、江戸時代に本郷元町にあった「諏訪山吉祥寺」という寺名に由来する。明暦の大火によって同寺の門前町が焼失した際、吉祥寺門前の住人を「牟礼野」と呼ばれた、現在の武蔵野市一帯を開墾して住人達を移住させた。吉祥寺に愛着を持っていた住人たちにより、一帯は吉祥寺村と名付けられた。
 左手サンロードに入ってすぐ右手に月窓寺がある。商店街に面しているにも関わらず、境内は静寂な空気が漂う。
 街道の北側に安養寺がある。寺の参道左手には市有形文化財の「甲辛供養塔」がある。銘文に女性の名前が十数名も刻まれているのが特に珍しいという。  13:14

 安養寺の隣は吉祥寺村の鎮守武蔵野八幡宮。延暦8年(789)坂上田村麿が宇左八幡大社の御分霊を祀り、寛文年間より氏神様として尊崇されてきた。
 入口左手に大きな「神田御上水 井之頭辨財天 道標 」が立つ。この道標は、井の頭の弁天様へお参りする人のために建てられたものとか
 少し先の右側に成蹊学園があり、入口の見事なケヤキ並木は市の天然記念物に指定されている。大正13年成蹊学園が池袋から移転してきた時植えられた。このあたり道の両側はきれいに長方形に区画割りされ、新田開発の名残が残っている。  13:34

成蹊大学~武蔵野大学
 「武蔵野中央」交差点で、三鷹通とカギの手状に交差する。北側のケヤキ並木も美しい。
 少し先右手に西窪稲荷神社がある。西窪村の鎮守で、右手の神楽殿に奉納されている絵馬35枚は、市の有形民俗文化財に指定されている。西隣は源正寺で、寛文3年創建。本堂前には創建当時からの樹齢300年のイヌツゲがある。源正寺の西太子堂へのケヤキ並木も樹勢が真っ直ぐで見事。

 八幡神社を過ぎて少し行くと「御門訴事件記念碑」がある。明治3年、その前年に品川県から布達された社倉制度(飢饉に備えるための貯穀制度)に旧関前村新田を含む武蔵野12か新田の農民達が品川県へ門訴したもので、リーダーの一人の名主井口忠左衛門は撲殺されている。自治権を持って「ひえ倉」を管理してきた農民に対して、倉を県の管理にするのは自治権を取上げることにつながり、ひいては自由民権運動に対する策動ととらえたわけである。 蔵野大学前は5差路になり旧道は左に折れる。

武蔵野大学~境橋
 左に折れると千川上水に沿った静かな遊歩道が続く。千川上水は寛永寺など将軍御成地への給水を目的に元禄9年この先の境橋より分水された。千川上水の金網の中に石橋供養塔がある。
 武蔵野大学の正門左手に大きな文字庚申塔が建っている。青面金剛像を彫っていない文字だけの塔で、「東江戸道」「左すな川道」などと書かれ道標を兼ねていた。  14:28

境橋~陣屋橋
 ここから境橋まで、千川上水に沿った遊歩道を歩いて行く。上水の北側が旧道というので右側を歩くことにした。
 境橋の手前左側に「玉川上水の碑」がある。玉川上水は、ここで千川上水を分水し、南東の方角に進み、井の頭公園の南を通って四谷大木戸跡まで通じている。
 境橋から今度は玉川上水に沿ったサクラ並木を歩いて行くことになる。「名勝 小金井サクラ」の案内板によれば、水質保全のため、当初松、杉が植えられたが、8代将軍「吉宗」の頃、元文2年(1737)小金井橋を中心に約6km桜が植えられたという。  14:55

陣屋橋~喜平橋
 関野橋の手前に「さくら折へからす」と彫られた「桜樹接種記」の碑がある。元文2年に桜が植えられて以来百余年が経ち、老木化が進んだので、嘉永3年(1850)各村が植え足した。その経緯を後の世に伝えると共に桜が永久に保護されることを願って建てられた。
 右手に広大な「小金井公園」が広がる。以前は武蔵野郷土博物館があり、会誌を購読していたものだ。 「陣屋橋」の北側には南武蔵野の開発を担当した、幕府の陣屋が置かれた。

 小金井橋の交差点の手前に行幸松と碑がある。明治天皇が明治16年4月観桜に行幸された記念に植えられたもの。
 その先右手に「海岸寺」がある。山門は、鎌倉時代の代表的な「鎌倉式」が取り入れられ、天明3年(1783)の建立と言われている。萱葺き屋根で、ちょうど萱の葺替え作業中で、葺替え職人がまだいるのかと思って、しばらく眺めていた。
 参道入口右手にこれも市の文化財小金井桜樹碑がある。碑文は大久保挾南作、小金井の桜の由来と川崎平右衛門の功績をたたえたもので、武蔵八景の一つ「金橋の桜花」はこの地であるという。    15:58

喜平橋~西武多摩湖線
 この先また上水と遊歩道を楽しみながら進み、貫井橋、茜屋橋と過ぎて行く。茜屋橋は明治時代に架けられた橋だが、染料の茜草の総元締めの島田屋を茜屋と呼んでいたことにちなむ。
 街道は喜平橋を渡り、玉川上水の左側に変わる。喜平橋は江戸時代は留(とめ)橋と呼ばれていた、喜平という名前は野中新田に住んでいた「喜兵衛」という人の名を取ったという

 桜橋で西武多摩湖線を横切る。 ここで16時40分が過ぎた。砂川7番まで行って、モノレールで立川へ出る予定だったが、とても無理なので、本日はここで終ることとする。踏切に沿って北上し、「一橋学園駅」から、「青梅街道」へ1駅乗り、「新小平駅」から武蔵野線で帰宅した。
 一橋学園駅の東側は「国土交通大学校」、「警察学校」やらお堅い官舎ばっかり。
ただ後で地図を眺めると、踏切から「新小平」まで歩いても大したことはなかったので、次回は歩いて来ようと思う。 16時40分終了

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