京街道歩き旅   4 枚方宿から守口宿まで  歩行地図
 枚方宿東見付-枚方市駅三矢町-堤町-桜町-光善寺-淀川土手-鵜飼橋-八雲-守口東見附 12.9km       全線地図
 

 56 枚方宿(東海道57次)
 枚方宿は京都と大阪の中間にあり、 淀川の京都伏見と大阪八軒屋浜とを結ぶ三十石船の寄港地として、また陸上の交通の要衝として重要な位置を占めて繁栄した。宿は岡新町村、・岡村、・三矢村、・泥町村の4ヵ村で構成され、東見付から泥町の西見付まで13町17間(1477m)あった。現在の枚方市は当時の建物や景観の保存に熱心で昔の宿場の面影が残されている。
本陣1 脇本陣2 旅籠67  

1 追分~伏見宿  2 伏見宿~淀宿  3 淀宿~枚方宿  5 守山宿~高麗橋

2010年1月30日 淀宿からの続き  17:21
東見付~枚方市駅
 東見附跡には大きな案内板が立っている。「河内名所図絵」には淀、伏見宿方向へ向う大名行列が「天野川」に差掛かり、見送りに出た宿役人が待受ける光景が描かれている。 ここを右折して、枚方宿に入って行く。ベージュ色に舗装された道が続き、宿内であることを示している。こんなことで宿場の保存に力を入れていることがわかる。

 左手にある風格のある旧家は「旧枚方宿問屋役人小野平衛門家、屋号八幡屋」。小野家は江戸中期より、村年寄と問屋役人を兼ね、当家には、正徳6年(1716)建築の古図と鬼瓦があるが、現在の建物は幕末だろうとのこと。尚近年の主屋改築で、明治18年の淀川洪水による軒先浸水時の鮒がミイラとなって屋根裏から発見されたという。
 右側にも虫籠窓、漆喰壁の旧家がある。このような旧家があちこち見られた。この先車の多い交差点にぶつかり、正面には旧道を示すカラー舗装が続いている。17:30

枚方市駅~三矢町
 さて、交差点を左折すると「枚方市駅」だけど、夕方暗くもなり、本日の目的地に達したので、本日はこれで終り。朝8時から9時間半、休憩なしで歩いたが、日程的にはきつく、あんまり寄道できなかった。ホテルは枚方市内ではなく、なぜか門真市駅前に予約してしまっていた。
 2010年1月31日  8:15
  前日の交差点を直進して京街道再開。  
 右手に枚方橋跡碑というのがある。ここに昔は川が流れ土橋が架かっていたということで、親柱が残っている。

 道なりに左に折れて行くと、正面に黄色いビルが見えて来て、「左近の辻」という。角に文政9年の道標が残されている。 正面に「右 大坂みち」、側面に「願主 大阪 和泉屋・・」とあり、「阪」 の文字は江戸時代は一般に「坂」の字が使われて「阪」の時は明治からというので、大変珍しい道標である。しかし反対側に「左近辻の道標」があったとは気がつかなかった。
 左手の岡本町公園前、ビオルネ側に「枚方宿の案内地図」が造られていて、東見附から西見附までの地図や主な史跡の案内が載っていた。  その先から細い道が続き、両側には歴史的な古い建物が沢山残っている。特に右手に漆喰の壁に袖卯建のある建物は、享保年間から続いている塩熊商店の、旧小野邸宅を「くらわんかギャラリー」として一般公開しているもので、郷土品の展示や民芸品の販売を行っている。しかし早朝のためか開いていなかった。
 8:27

三矢町~堤町
 その先の交差点の先にある「淀川資料館」の案内板に従って、右折していくと、淀川の土手にぶつかり、上がって行くと、淀川の雄大な風景が広がっている。河川敷は「枚方水辺公園」となっている。 土手の脇に建つのが「淀川資料館」。ここも開館前で寄る時間がなかったが、淀川河川事務所内の施設で、淀川に関する展示や資料が豊富ということだ。
 旧道に戻って、右手角の工事フェンスに囲まれた所が本陣跡で、発掘調査中だった。 8:33

 「三矢町」に入り、右手に西御坊の浄念寺がある 枚方は浄土真宗とゆかりの深いところで、浄土真宗が東西に分裂したため、京阪踏切を挟んで、反対側にある「願生坊」を東御坊、浄念寺を西御坊と呼ぶ。
 浄念寺の先は大きく右へ曲って、すぐ左折する枡形となっている。最初に右折する辺りの、右手に枚方宿問屋役人木南喜右衛門家の重厚な屋敷が建っていた。
旧枚方宿問屋役人 木南喜右衛門 屋号は田葉粉屋。案内板には「木南家は江戸時代初期から庄屋と問屋役人を兼ね、くらわんか船の茶船鑑札を所持し、宿と村の運営に大きな影響を行使した。現在の建物は明治期の建築で、長い間口に出格子と虫籠窓が連なる伝統的な表屋造りで、広い敷地内に四棟の土蔵を配した大規模な町屋である」とあった。 

堤町~桜町
 道を直進すると右側に鍵屋資料館がある。鍵屋は枚方の代表的な船宿で、表玄関は京街道に接し、裏口は淀川に接して、船の乗降に最適な構造になっていたという。創業は天正年間。その後京阪電車が開通して、船運がなくなった後は料亭を営み、平成13年、「市立枚方宿鍵屋資料館」となった。ここも開館が9時30分で、到着が早すぎ、やむをえず通過するしかなく、「京街道イラストマップ」を買えずじまいだった。  資料館を過ぎた交差点の角が、西の見附で枚方宿が終る。そこに西見付案内板が建っていた。 
8:46

桜町~光善寺
 交差点を過ぎて「桜町」に入る。が二股になっている所で、カラー舗装された道は右に行っているので、その通りに行ったら、旧道ではなく、「水面廻廊公園」というのがあって、元遊郭があったという所だった。先の二股の地点まで戻って、左側の細い道を下って行く。
 「枚方大橋南詰交差点」へ出て、横断して真っ直ぐ進む。「西伊加賀町」となり、左へと曲って行くと県道に出た。右手のフェンスは「枚方西高」で平成18年に廃校になったそうな。

光善寺~淀川土手
 「伊加賀小学校」の脇をダラダラと行くと、「出口」集落の細い道に入り、光善寺に出た。光善寺は浄土真宗本願寺八世の蓮如上人より開かれた由緒あるお寺である。
 蓮如は越前、吉崎から京都へ戻る途中、ここ出口村でしばらく滞留した折り、村人から寄進された寺が光善寺の前身といわれる。ここを拠点として近畿一円に教化活動を展開したが、山科本願寺再建のため、2年半で山科へ移動している。

淀川土手~淀川新橋
 光善寺の前南下する道は昔ながらの狭い道で、両脇にいかにも旧道にふさわしい古い建物の並ぶ。しばらく進むと左手に大きな石碑が立ち、「 親鸞聖人 蓮如上人 御田地 」 と刻まれていた一角がある。中に丸い平らな石が置いてあり、これが蓮如上人が腰をかけて説法したといわれる腰掛石である。蓮如上人がこの石に腰掛けて、村人達に説法していたといわれるもの。
 そのまま進むとやがて淀川の土手に突き当たる。この先淀川土手を進んで行くことになる。  9:47

 防道は、自転車と人専用道路のようで安心して歩くことができる。堤防の右手は「淀川河川公園」になっていて、その向うには雄大な淀川の流れが見られたが、天気が悪くなってきた。
 土手の上をしばらく歩いて行くと、左側に茨田(まんだ) 堤碑が建っていた。説明板には「日本書紀に茨田堤の築造は、仁徳天皇十一年とあり、これは河川堤として本邦最初のものである・・・」。築造は難工事で、二ヵ所の「絶間」という場所に人柱を出すことになり、武蔵強頸(むさしのこわくび)と茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)の二人が選ばれた。強頸は犠牲となったが、衫子は、機転をきかせて助かったという伝説が残っている。  10:05

淀川新橋~鵜飼橋
 石碑の先に石段があるので下りていくと、西正寺があり、その先に太間天満宮がある。日本書紀の茨田堤の故事により、衫子が人柱になったが助かったという、「断間」があった当地に「衫子」を祭神として祀った神社である。
 淀川新橋は橋の下をくぐって進み、土手の石段を降りていくと茨田樋之跡の石碑というのがある。案内板によると、淀川から農業用水、生活用水を引き込んだ水門のようなもので、枚方ら毛馬まで八ヶ所あり、台風などの大水時に堤防が決壊するおそれがあるとして、すべてが廃止され、その跡が残っているのはここだけであるという

鵜飼橋~八雲
 土手に戻った後は土手をひたすら歩く。先には飼仁和寺大橋があり、橋の先から仁和寺という地名になるが、京都の仁和寺領があったことに由来するそうな。
 鳥飼大橋の所には「大阪モノレール」が走っている。ここは左下にある道を通り、土手を進み、左手に下りて行くのだが、堤防工事中で、本来下りる道がわからなかったか、間違えたかで、その先から下りてしまった。その為道左下にあるのはずの八坂瓊神社を見ずに通過した。「八雲北公園」を通り、府道守口線の高架下をくぐり、「八雲小」脇の細道を通って行く。    11:30

八雲~守口一里塚
 国道155号交差点に出て、右折し、「守口東高校」先の信号を右手に入るのが旧道で、この道はすぐ「北斗町」信号で国道に戻ってしまい、国道を横断して細い道へ入り、、国道1号「浜町」交差点手前右手に守口一里塚の案内板と石碑が建っていた。 ここは守口宿の出入口にあたる所で宿役人などが送迎したとある.。守口宿の上見附にあたる。11:50

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