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57 守口宿(東海道57次) 守口宿は江戸から57番目の宿場で、秀吉が造った文禄堤の上に造られた。南北約十町(1km)、東西は約1町(109m)の細長い宿である。大坂から2里の近距離にあったため旅人の宿泊は少なく、さらに時代が下がるとともに淀川舟運が発展し、交通量は少なくなってしまった。しかし、米・菜種・綿花などの農産物の集散地として重要な機能をはた商業活動は活発だった。宿場通りには今でも伝統的は商家なども所々に残されていて、当時の面影をしのぶことができる。また豊臣秀吉が文禄6年(1569)に淀川左岸を修築して作ったいわゆる文禄堤の京街道は、その多くは消滅してしまったが、八島交差点から義天寺まで1kmほどに往時の面影が残っている。 本陣1、脇本陣0 旅籠27 |
1 追分~伏見宿 | 2 伏見宿~淀宿 | 3 淀宿~枚方宿 | 4 枚方宿~守口宿 |
![]() ![]() ![]() ![]() 一里塚の先の「浜町」交差点が ![]() |
![]() ![]() ![]() 本堂は1835年(天保6)に再建されたもの。明治元年大阪行幸の際の「内侍所奉安所阯」として史蹟となっている。この時の行幸は幻の大阪遷都ともいわれるもので、三種の神器の内の、八咫の鏡を持参したといわれる。 交差点を越えた左側は ![]() |
![]() ![]() ![]() お寺を出ると、竜田通りを西に向かう。 この通りでは市が開かれ、道幅も15mもあった。問屋場や本陣があった所で、いわば守口宿の心臓部であったためといわれる。 道の左側の焼肉屋の駐輪場が ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() 道は回りより数段高くなって、左側の ![]() 守口宿が「文禄堤」の上に存在するとは、市街地の真ん中にある現在では想像もつかないが、淀川は度重なる氾らんを繰り返して大改修が行われ、西の彼方を流れていて、現在の姿に至っている。 義天寺の角を右折して急坂を下りると宿の終りとなる。 |
![]() ![]() ![]() 左折していくと「日吉公園」があるが、この先は又「向陽書房」の本と「イラストマップ」では方向が食違っていて、「本」では国道1号に合流して、左折したら「今市」交差点まで真っ直ぐ行っている。しかしマップでは国道の一本南を行って、「守居神社」脇を通り、右折して国道にぶつかっている。 そこで「本」のコースを採用して、国道に出て真っ直ぐ ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() 交差点を左折して国道に入り、すぐ右(西)に入る細い道を行く。右回りに行くと「都島通」に突き当たる。横断して細道へ入っていく。再び「都島通」へ出て、行くと歩道の正面に ![]() |
![]() ![]() ![]() 「おおさか東線」のガードをくぐり、 ![]() その先、「城北筋」と呼ばれる大通りに突き当たるので左折して「野江4」交差点を右折すると、また「都島通」へ出た。 「野江3西」信号あたりを左折して進むと、右手榎並地蔵の所に京街道の絵図が貼られていた。その先が ![]() |
![]() ![]() ![]() この先は「京阪京橋駅」とJR」京橋駅」が交差する、結構な繁華街で、人出が大変多い。旧道は ![]() |
![]() ![]() ![]() その先を全く道がわからなくなり、一応「片町」の信号で左折して京阪のガードをくぐってから、京阪の左側を線路に沿って歩いた。 突き当りを左折すると ![]() 交差点を渡ると、その先の歩道橋の下に、「京橋川魚市場跡碑」が建っている。 市場の起源は石山本願寺の時期に設けられた鮒市場とされ、その後幕府に川魚を独占的に扱うことを公認された。 京橋を渡る。秀吉時代の京街道はここが起点であった。 ちょうど ![]() |
![]() ![]() ![]() 「天満橋交差点」を渡り、ちょっと行った左手の永田屋昆布本店が ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() さらに土佐堀通を西へ進み、 ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() これで東海道は日本橋から京都三条大橋までの53次と、大名行列が歩いた、大阪までの57次をすべて終了したことになるわけである。このコースを1泊2日、実質15時間程度で歩いたわけだけど、ゆっくり見て回る時間がなかった。2泊3日ぐらいが良いのではないかと思う。雨がひどくなり早々に近くの「北浜駅」から、JR「新大阪」へ出て、新幹線で夕方東京へ到着した。 |
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1山科追分~伏見宿 | 2 伏見宿~淀宿 | 3 淀宿~枚方宿 | 4 枚方宿~守口宿 |