中原街道歩き旅    4桜ヶ丘から中原御殿跡まで 歩行地図
 桜ヶ丘駅-厚木飛行場-早川-用田-小谷-寒川-田村-四之宮-真土-中原御殿跡    21.1km
 

 1 桜田門~  2 五反田駅~  2-2 丸子橋~  3 仲町台駅~  4 桜ヶ丘駅~ 

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2008年10月26日10時25分、地下鉄と小田急を乗り継ぎ桜ヶ丘駅へやって来た。
■桜ヶ丘駅~厚木飛行場
 ●桜株の十一面観音

 桜ヶ丘駅を下りて、桜株の踏切を渡る。左手に十一面観音像が立つ。昭和11年10月、深谷村の秋祭りと大和村小学校の運動会の帰途、村人の乗ったオート三輪と江ノ島行き電車が接触し11名即死2名重傷の大惨事となった、これを契機に冥福と交通安全を願い観音像が建立された。 道を下りながら進むと引地川と道路をを跨ぐ●新道下大橋を渡る  10:30

 ●代官1丁目の交差点で現在の中原街道は左の方に曲っているが、右折する方が旧道と思われる。明らかに新道は飛行場を避けて左折している。右折していくとすぐに●厚木飛行場が現れる。 厚木飛行場は言うまでもなく、第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官マッカーサーが降り立ったことで知られる。飛行機が飛んでいるのが見られるかと思って、しばし様子を見ていたけど、日曜なので静かなものだった。しかし市内にこんな飛行場があるなんて、地元には迷惑にちがいない。写真も広大すぎてうまく撮れなかった。 10:55

■厚木飛行場~早川
 綾瀬大橋入口交差点で左折して行きます。深谷原の信号の先左手に、左手にフェンスに囲まれた●庚申塔群がある。道標も兼ねていて、「文化11年。南大山道」などと書かれている。その先右手には旧家らしい門構えの家が建っている。やがて坂を下ると深谷の交差点角に●「大法寺」が建つ。門前の松の木が美しく整えられている。本堂も中々すっきりとして感じが良かった。 (大法寺は日蓮宗で、応永2年(1395)日叡上人によって開山された)

■早川~女坂
 深谷交番の前の角地にも●「庚申塔群」がある。左側には「堅牢大地神」という珍しい石碑がある。文政2年(1819)の文字が見られる。堅牢神とは仏教における天部の神の1つで大地を司る神だそうだ。比留川を新道橋で渡り、吉岡交差点を左に行くと、●御岳(みたけ)神社がある。鳥居脇にフェンスで囲まれた、「堅牢地神」と彫られた安政3年の碑、その横に大きな不動明王の石像がある。境内右手にも天保9年の庚申塔兼道標がある。「東江戸道 南ふしさハ(藤沢)道 西大山道 北ほしのや(星谷)道」と刻まれていると案内板にある。実物はほとんど摩滅している。

 先に進む。左手に●佐川急便の研修センターがある。日曜なのでやっていないが、教習者が何台か置いてある。右手には綾瀬浄水場があって、塔が立っている。下り坂になっていて、下りていくと「女坂」という交差点になる。
 女坂交差点を渡った右手角に●道標がある。「南無妙法蓮華経為・・・・」と書かれた卒塔婆が立ててある。どういうものかわからないけど、大事なものらしく、新しい基礎石に乗り、チェーンで囲ってある。   12:00

■女坂~用田
  しばらく進むと●新幹線の高架橋が見えてくる。手前で中将姫の祠があると聞いていたけど、案内板もなく、あたりに人がおらず、聞けなくてわからずじまい。
 「寿昌寺入口」という看板がある所、右手に新しい●双体道祖神がある。 用田の辻を渡った右角に●道標と不動明王が乗った碑がある。右下の道標には「西座間村」などと書かれている。
 12:35

■用田~小谷
 用田の辻の先は、●まっすぐな道が続いている。このあたりは古代東海道「箕輪駅」(平塚市中原)から「店屋駅」へ向かう街道が通っていると思われる場所(完全踏査古代の道、武部健一なので、その名残かもしれない。道はこのまままっすぐ進み、獺郷の信号の先でやや左に曲がる。そして大きく右に曲がった先の「大蔵バス停」の左手に大きな屋敷が見え、●見事な長屋門も建っていた。相当な旧家と思える。長屋門の前は道が二又になっていて、右側へ続く細い道がある。 13:25

■小谷~寒川
 この●二又道を右手に行くのが中原街道といわれる。この道はすぐ日産工機の敷地にぶつかって、すぐに終わってしまうので、 工場のフェンス沿いを歩き、道なりに左折して行く。右に寒川小学校を見ながら、 川町公民館前の信号をを越える。目の前の●二股道を右に行き、送電線の鉄塔をを左に坂を下ると、中原街道の案内板が立っていて、この道が中原街道と確認することが出来る。この道をこのまま行くと、JR相模線の線路にぶつかり、左手に「寒川駅」があるので、本日は寒川から「茅ヶ崎」へ出て帰宅した。 14:20

 2008年11月3日
 ●寒川神社
 寒川駅から初詣で有名な「寒川神社」に寄り道しました。ここへは学生時代一度来たことがあり、数十年ぶりで、すっかり忘れていて初めて来たみたいだった。ちょうど七五三の時期で、境内は家族連れで一杯だった。あちこちでシャッター押し頼まれた。●太鼓橋・三の鳥居を渡り、 ●神門を潜り、やっと本殿に到着。 (相模国一之宮にして、千五百年余りの歴史を有する古社で、全国唯一の方位除・八方除の守護神として知られている)  10:45

 ■寒川~田村
中原街道に復帰する。相模川手前には圏央道が工事中で橋脚が架かっている。相模川を●神川橋で渡る。渡って左折した土手の上に●「田村の渡場」跡碑がある。渡場は橋の南側100mくらいの場所にあったという。 (中原街道と大山街道の二つの渡場で、旅籠などもあり、田村の宿と呼ばれていた。)。寒川から渡しまでの旧道は中原街道の案内板あたりから、消滅しているようで、旧道はなだらかに円弧を描くように渡しへ向かっているようだけど、歩いて来た道はカクカクと急角度で曲がって来ている。 11:25

 、また渡った右手土手下には●「八坂神社」が建っている。境内には神仏習合の名残で、鐘楼も建っている。鐘楼はこの先の市内の神社にはあちこち目についた。また市指定無形民俗文化財田村ばやしの碑もある。、橋を渡って真っ直ぐ行った、「旧田村十字路」交差点右手には●十王堂跡碑と大山道道標が立つ。十王堂はあちこちに建っているが、ここは碑だけ。道標には何が書いてあるか読めなかった。田村の辻と呼ばれていた場所。

 ■田村~前鳥神社
 田村の辻を左折するのが中原街道。しばらく行くと右手に妙楽寺がある。足利基氏が開基で●山門が二階建てで見事なもの。このあたりは妙楽寺の門前で馬継の場所であったという。
 すぐ角に●田村駒返し跡の碑がある。家康が鷹狩に来た時大雨の後で道がひどく悪かったので田村の人たちが畳を出して運行の便宜を図ったので、家康は田村の人たちの苦労をおもんばかって、馬を返したと言う伝説があるという。庚申塔や道祖神もある。   11:50

 ●田村一里塚跡の碑がある。ここを右に行く●細い道が中原街道の旧道だと言う。ここを行くとすぐ国道に出てしまう。このあたりは四之宮といって、江戸初期には、田村の渡しに代わって「四之宮」の渡しがあった所であった。ここから中原御殿までの道は消滅していて、旧道について、諸説いろいろのようだ。寒川の案内板では「田村」から「御殿」まで斜めの線しか書いていない。そこで諸説研究して、出来るだけ斜めに御殿に向かうように行くことにした。その前に前鳥神社に寄っていく。  12:25

 ■前鳥神社~諏訪神社
●前鳥(さきとり)神社
 相模国四之宮で、さすがに式内社だけあって、古社の風格が漂っている。由緒によると、祭神は前鳥大神(菟道稚郎子命)は、第十五代応神天皇の皇太子で、修学、学問の神様。菟道稚郎子命を祭神として祀る神社は極めて稀であるそうです。神社名の「さきとり」は平安以前の古い地名で、相模川河原に接する自然堤防の南端で、地形名から起こったと言われています。
神社から出て、「四之宮西町」交差点へ行き、ななめ北方の諏訪神社へ行く。そこから旧道が出ているというので。

 ■諏訪神社~真土神社
●諏訪神社からちょっと手前から南西に伸びる細い道が旧道だそうだ。この道はすぐに突き当たってしまうが、その角に●庚申塔が建っている。脇にある板に「旧江戸中原御殿街道 用田 田村 真土」と書かれている。右折して先の、団地の横を左折していくと、真土(しんど)神社の脇に出る。
 13:10

 ■真土神社~中原上宿
 ●真土神社
参道脇に中原街道の石碑があったので、ここが旧道であることが確認出来る。真土神社にも鐘楼が建っていた。神社の参道の先から丸く道が南西に続いており、、「農協前」バス停へ出てくる。一つ先の交差点を右折して行くと、●「日本ムーク」というビルの脇に出てくる。その先をまた右折して行く。このあたりまことにややこしいが、この道が正しいとは限らないと思う。右折して真っ直ぐ行くと、右側には「三菱樹脂」の工場がある。平塚市は結構工場が多い。この先には「第一三共」の工場もある。13:30

 ■中原上宿~御殿跡
 広い県道61号線を横断すると、歩道上植込みに●「中原上宿遺跡」の記念碑がある。 新道工事の際に発掘したそうだが。歩道脇に「縄文時代の住居模型」などが置かれている。●日枝神社は、祭神が大山昨命と徳川家康で、境内右手に小社に祀られている。本殿左手には「左ステーンシヨ道」と書かれている庚申供養塔があり、明治20年東海道線「平塚駅」が建設され、それを記念して作られたものだそうで、超珍品というべき道標である。

 さてそろそろゴールが近くなる。神社裏からまっすぐ、中原小学校へ向かう。途中右手に●「谷川と谷川橋の跡」の案内板が立っている。現在暗渠になっている通は、昔谷川(やがわ)といって、排水路であったが、水門が設けられ、中原御殿の堀用水に供給されるなど、深い関わりがあったという。その先の交番の角に●「中原宿高札場跡」がある。御殿に向かう大手道と中原街道の交わる位置に設けられていた。 ここを右折して行く。14:15

 右折した正面の中原小学校敷地が「中原御殿」跡だった。慶長元年(1596)(諸説あり)に徳川家康の命により、江戸・駿府間の往復や鷹狩りの際の宿舎として建てられた。「御鷹野御殿」「東照宮御旅館」「雲雀野御殿」ともいった。校門の脇に●石碑が建つ。
碑文   また小学校を左へ回り込むようにしばらく西へ進むと御殿の裏門(冠木門)を移築したといわれる●善徳寺三門(山門)を見た。これで一応桜田門から発した中原街道の旅も終わりとなりました。バスで平塚駅に出て、帰宅しました。
    14:30
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 中原街道.rcm (中原街道全図です。スーパ-マップルで使用できます但し変換の問題で一部地図とずれている箇所があります) 

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