西浦賀街道を歩く
        (戸塚~逗子)
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 戸塚-八坂神社-上倉田-宮前-大船-離山-鶴岡八幡-名越切通-久木-逗子駅    15.14km
 

  西浦賀街道
 浦賀街道は、浦賀道とも呼ばれ、江戸から浦賀へと到る東海道の脇往還である。保土ヶ谷宿と戸塚宿より延びる2本の道があり、三浦半島各地へ向かうための交通路として利用されていた。
 江戸時代では、下田奉行所が享保5年(1720)に浦賀へ移転すると、特に黒船来航など外国船がしばしば来訪して、重要性が増した。
 鎌倉を通る西浦賀道は宝亀2年に東海道が武蔵国を編入するまで、三浦半島から対岸の上総国へ抜けており、古代のヤマトタケルの東征道と推定されている。東西浦賀道は横須賀市大津で合流し浦賀奉行所へ向かっていた。ここではその西浦賀道を戸塚から出発します。
 参考資料
 「街道の日本史 21」(吉川弘文館)
 横須賀市HPなど


 2024年9月23日  画面をクリックすると拡大します
 ■戸塚駅~八坂神社前
 今年の暑い夏も9月後半になって、やっと落ち着いてきそうなので、街道歩き再会することにしました。今回は浦賀街道。東西ある方の西側。戸塚から浦賀です。江戸と浦賀奉行所つなぐ、脇街道だったが、ペリーの黒船来航から重要性が増した街道です。又鎌倉から先は古東海道として、「ヤマトタケル」が「オトタチバナヒメ」と共に通った道と推定されています。
 出発は●戸塚駅前「バスセンター」交差点から始まります。この通りは江戸時代の東海道で当然通過している訳だけど、記憶にありませんね。 しばらく行くと右手に●東海街道戸塚宿、渡邊本陣跡の表示があります。「明治天皇行在所」の石柱も立っています。その先右手に●八坂神社があり、戸塚宿の鎮守でありました。 元亀3年(1572)に牛頭天王社を勧請したのが始まり。9:53

 ■八坂神社前~上倉田南
  ●八坂神社前交差点が実質的な「西浦賀街道」の出発点です。ここを左に曲がります。交差点の右向側に"「かまくら道道標」"が立っている。この交差点は鎌倉へ向かう戸塚道と東海道の追分に当たる訳だが、高島橋一帯の道路工事の為、移設されているようです。道標には何の説明もありません。左へ曲がると●高島橋架替工事の真っ最中。ここは浦賀街道でもあり、鎌倉道でもあります。 東海道線のガードをくぐり、県道203を右に曲がり、真っ直ぐ南下して行きます。左手に●「出羽三山供養碑」が建てられている。寛政10年(1798)の建立で"道標を兼ねており"「月山 湯殿山 羽黒山」の下に「右かまくら道」とある。10:17 

 ■上倉田前~交番前
 その先、「下倉田」交差点を左折、道なりに行き、前方に●道標の立つ所を右折します。"道標"は親鸞聖人ゆかりの英勝寺への道標で、「めんかけ如来 かさこひ太子 右かまくら道」とある。マンションの脇を歩いた正面にあるのが●「下倉田延命地蔵」。 その先は又県道203へ合流します。●下倉田交番前交差点を左折すると・・・  10:31 

 ■交番前~正安寺
 左手に●「南谷戸のおおわらじ」という、巨大なわらじが架かっている。長さ3.5mで、 家内安全、五穀豊穣を願って、大正期に農家の青年達が南谷戸の象徴として松の木に吊るしたのが始まりだとか。"説明板" 下倉田交番前交差点を右斜めに曲がって、「豊田小学校」の塀をぐるっと回って又県道に出ます。このあたり何か障害でもあったのでしょう。●「環状3号線」のガードをくぐった先信号を左へ入り、直角に右へ曲がり、県道を横断。細道を左へ曲がると●正安寺があります。ここも変な曲がり方をします。「正安寺」は元は天台宗で、貞永元年(1232)、親鸞が一夜の宿をとり、布教したことが縁で 浄土真宗に改めたという。 10:53

  正安寺~宮前
 正安寺前の脇道から県道に戻って、その先の坂道は●かいがら坂といい、頂上に道標が立っています。この地から貝殻が出たからだという。事実このあたりの台地から貝塚が発掘されているようです。 この先、クネクネと県道を通過し、●スギ薬局手前を左折、右折しながら又々県道に合流すると、左手奥に「三島神社」があります。石段が高いのでパスしました。 ●JR根岸線のガードをくぐります。 11:12

 ■宮前~笠間交差点
 しばらく歩くと●新橋に来ました。ここは鎌倉街道中道との追分のような場所で、中道は左へ折れていきます。以前中道を歩いてきた時は、向こう側から来て、右へ曲がった記憶があります。正面に"延命地蔵""「とつ加道道標」刻まれた道標があります。とつ加道とは今まで歩いてきた戸塚からの道のことになります。 新橋の下を流れる●いたち川。 漢字では「㹨」。「けものへん」に「由」と書く。二級河川の普通の川であるが、鎌倉時代の「吾妻鏡」にこの字で書かれていたくらい由緒深く、名の由来は鎌倉街道の出立点としての「いでたち」の転用とされている。 県道23と203の交差する●笠間交差点を越えます。 11:26 

 ■笠間交差点~大船郵便局
   左手の●今泉村不動。台座は道標を兼ねており「今泉村不動江之道」と刻まれています。その先、●庚申塔、青面金剛像など4基、集められている。 その先、左奥に「青木神社」が鎮座しているのだが、石段があまりに高く、気後れしてパスしました。 「砂押川」に架かる「松竹大通橋」を渡ってすぐ、●大船郵便局脇を曲がって、郵便局の裏手を左折して進みます。11:44

 ■大船郵便局~離山
 先の●交差点を横断。右を曲がった先は「JR大船駅」、左を曲がった先にある「ヨーカドー」や「鎌倉女子大」は「松竹撮影所跡」になります。 しばらく、ほそ道を進むと、左手、●交差点際に●「離山富士見地蔵尊」が鎮座。鎌倉街道中道を歩いて来た時は、正面だったものが、今回は裏手から見ています。その昔、「長山」、「腰山」、「地蔵山」という三つの山があったことから 離れ山 と呼ばれたが、今は削られて無くなってしまっている。その、地蔵山にあったので「離山富士見地蔵尊」という。左側の石柱側面に 「旧鎌倉街道中ノ道」 と刻まれている。 12:00

 ■離山~鎌倉街道
 その先、JR横須賀線の踏切の手前、左手に見える茅葺の門は●成福寺山門。茅葺の門は風情がある。 三代執権北条泰時の子泰次によって開かれた鎌倉で唯一の浄土真宗の寺。 泰次が「亀の窟」というのがあるのだが、裏手に「窟」がいくつか開いていたが、説明も何もないので、わからなかった。 踏切を渡り、●県道を左折する。右手、手前に "観音道標"が立っています。 左に曲がるといよいよ、「円覚寺」、「建長寺」など大寺が立ち並ぶ●鎌倉街道のメインの街道に入ります。 12:26

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 ■北鎌倉駅~建長寺
 ここから先、円覚寺、建長寺とか超有名な大寺が並ぶ訳なのだが、参拝して回るのに時間を取られるし、今更紹介しても意味もないかなと思って、ほとんど門前だけで済ませます。但し、縁切り寺で有名な「東慶寺」だけは行ったことがないので、石段を上がって行きました。●茅葺門の「東慶寺山門」は あっさりしているが、境内全域撮影禁止ということで、写真一枚撮れないので、あきらめました。  その先の●浄智寺は29歳で没した北条時頼の三男・宗政の菩提を弔うために創建。苔むした参道と 鐘楼のある山門が印象的。
 ●建長寺は鎌倉五山第一位。鎌倉幕府五代執権北条時頼が建長5年(1253)に建立した禅寺。広すぎて街道歩きでちょこっと寄るというわけにはいかないです。 12:59

 ■巨福呂坂洞門~鶴岡八幡宮西鳥居
 建長寺の先に●巨福呂坂洞門が開通している。 この道は明治に入ってから開削が行われたもので、鎌倉時代の巨福呂坂は消滅している。 その先、右手の●何かお店のような入口が旧巨福呂坂の出口であるように思います。旧道の途中までは、鶴岡八幡宮の自動車お祓い所前から入ることができるが、最後は民家の敷地で終わっています。 旧道には途中庚申塔や道祖神などが並んでいます。
 その先、●鶴岡八幡宮西鳥居から流鏑馬道に入ります。 13:14

 ■八幡宮西鳥居~若宮大路
 流鏑馬道に入ると公衆トイレの前に●「よじべえ石」という大石が横たわっている。説明板が無いので詳しいことは分からないのだが、調べると・・・関東大震災で海底が隆起して現れた大石で、漁などに支障をきたすので、青年団らの手で引き上げられ、鶴岡八幡宮に納められたらしい・・・。   流鏑馬道を進むと●鶴岡八幡宮が現れる。石段途中の「公暁のイチョウ」は2010年に倒木してしまったが、14年たった現在、結構大きくなっていました。 この先は三の鳥居をくぐって●若宮大路・段蔓を進みます。13:24

 ■若宮大路~下馬交差点
 若宮大路は南下後、「下馬」交差点を左折していくのだが、途中の旧跡を2.3寄り道します。「ホテルメトロポリタン」裏の●大巧寺は源頼朝がこの寺で行った軍評定により大勝したことから、 それまでの大行寺を「大巧寺(だいぎょうじ)」に改めたという。
 少し南の●本覚寺は、敷地が幕府の裏鬼門にあたることから、源頼朝が鎮守として夷堂を建てた場所。この夷堂を佐渡流罪を許された日蓮上人が布教活動の拠点としたいう。 その後、鎌倉公方・足利持氏がこの地に寺を建て 、日出(にっしゅつ)上人に寄進したのが本覚寺。 右手の "現在の夷堂" は昭和56年に再建されたもの。 本堂の左手の "宝篋印塔"は名刀の作者、「五郎入道正宗」の墓にあたります。 若宮大路に戻って、●下馬交差点を左に曲がります。  13:48

 ■下馬交差点~名越坂踏切
 左に曲ると、名越切通しまで続く●大町大路に入って行く。この道は鎌倉から浦賀方面へ続く道であるが、一説によると、※走水から上総へと渡る、古代東海道の道筋でもあったといわれ、「ヤマトタケル」の東征ルートと同じと云われます。この道を進むと横須賀市、馬堀から走水へとつながります。(※東征ルートは諸説ある)
 横須賀線脇の「延命寺」は北条時頼の夫人が建てたと伝わる。 左手の「安養院」は「政子」ゆかりの寺で供養塔がある。その先の信号は左の旧道に入り、「安国論寺」は日蓮が「立正安国論」を執筆したという寺という。・・とまあ、有名な寺が並ぶのであるが、いずれもパスして通過しました。 ●JR横須賀線の踏切を渡ったらすぐ左に曲がり、線路沿いの細い道を進みます。 やがて右手に●日蓮乞水(こいみず)という井戸が柵に囲まれてあります。鎌倉五名水の一つで、日蓮が名越を通って鎌倉に来た時、こここで水を求めると、この水が俄かに湧き出したという。空海が錫杖で突くと水が湧き出したという伝説が各地に残るが、それに似た話です。  14:27

 ★名越切り通し
 JR横須賀線の踏切りを渡り、右折していくと、「名越切通 ↗」の表示があって、●名越切通しは右手の上り坂を上がります。登り切ると、コンクリート板の床となっったり、横須賀線との関係か、●コンクリート製の塀で狭められたりします。●灌木の茂る山道となって、石段を上がります。 14:34

 ■切り通し出口~亀ヶ丘団地
 三差路になって●国指定史跡、「←長勝寺方面」、「→名越切通、まんだら堂やぐら群」の案内板があるので、まんだら堂へ入ってみました。そしたら"フェンス"がしまっており、「令和6年度初夏の公開は6月2日で終了しました。次回は10月19日~」ということだった。9月の三連休なのだから、開けてくれてもようさそうではないか・・と思った。 この先は、有名な●「第一切通し」。岩が迫り、とても甲冑を着た武士達は敵、味方にかかわらず通れそうもないが、敵の侵入を防ぐためではなく、発掘調査によれば何回かの地震によって岩肌がせり出したためらしいです。 やがて、●名越切通し出口に到達。目の前は「亀が丘団地」が広がります。    "説明板"   14:30

 ■亀ヶ丘団地~久木新道バス停
 「亀ヶ丘団地」は丘陵のトップに所在するので●急坂を下って行く。ちょっと住むのには、自転車も難しいと思うので、大変だろうと思います。途中●分岐を左へ行くところ、そのまま通過して、下り終えてから気づき、元に戻るのが大変でした。●県道311に出た。旧道はそのまま、県道を渡り、横須賀線も越えて行くようなのだが、正面に「防災倉庫」があり、踏切もないので、ここは県道を歩くしかないようです。 15:06

  ■久木新道バス停~久木郵便局前
 ●県道311を一路南下。「エネオス」の隣に細い道があり、●小さな踏切を渡って、旧道に復帰します。踏切を渡って左折した先、マンションの脇に「庚申塔群」があったというが、見逃しました。 ●久木郵便局前交差点を左折しますが、きりがいいので、JR逗子駅から帰宅することとしました。 15:20

    2 逗子~東浦賀合流点