西国街道を歩く 3 
   (桜井~西宮神社)
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 桜井駅-石橋-軍行橋-千僧-昆陽-武庫川-上大市-門戸厄神-広田町-与古道町-西宮神社   18.1km
 

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■桜井駅~阪急の踏切

 2011年6月12日 朝9時前、阪急電鉄 桜井駅到着 前回の終了地点から街道歩きを再開。
  駅前から西南に進む道は2車線から1車線の狭い道に変わっている。●瀬川・半町宿へ入って来た。
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  4 瀬川・半町宿
 江戸時代の瀬川と半町は共同で宿場を勤めていた所で、寛永年間に瀬川の宿駅が整備され、宝暦年間に半町も瀬川本陣同様の建物を造り、半町本陣を名乗るようになった。
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 というわけで、古い落ち着いた町並みではあるが、特に宿場らしい雰囲気が残るというわけではなかった。左手に連子格子、白壁の家があった。右側に箕面自動車教習所があるが、ここが瀬川本陣跡ということであった。当然写真を撮ったが帰ったらなぜか、コントラストが薄くてだめで、写真はなし。案内板によると、建物が一部残っているように書いてあったが、残っている様には見えなかった、 この先弁慶の鏡水と瀬川神社を見る為、「瀬川2」の信号の手前を右に入って行った。●瀬川神社は奥、突き当りに見えた。正式には「天児屋根命神社」といい、藤原氏の祖神である天児屋根命(アメノコヤネノミコト)を祀る。街道に戻る際、弁慶の鏡水という史跡を探そうとあちこち探し回ったが、結局見つからず、あきらめた。あとで調べたら、荒廃してしまって、案内板も無くなっているみたいだった。 街道は今井橋の所を左に曲がる。●阪急箕面線の踏切にぶつかる。このあたりは市の境界線がおかしく、豊中市の飛地になっている。  9:37 

  阪急の踏切~石橋阪大交差点
 
踏切の上が国道の高架になっていたり、道が交差して複雑であるが、道なりに進み、歩道橋の先の●細い道を右手斜めに入って行く。池田市に変った。このあたり境界線が入組んでいる感じ。
 、左手に●玉坂地蔵尊の祠がある。「玉坂新池弁財天供養塔」、「新池 無縁仏供養塔」などの新しい石碑が立っているが、由縁などはわからない。 ●石橋阪大下」交差点で国道176号線と合流するが、国道を斜めに横断した先を右方向へ進んでいる、細い道へ入る。

  ■石橋阪大交差点~住吉神社
 
細い道を入って、左手に●「辻の地蔵堂」があり、境内が小公園になっていて、金網に案内地図が架かっていたけど、それを見ると、地蔵堂のすぐ前に石橋が架かり、能勢街道がクロスしているような感じに見えたが、そんな街道はなく、おかしいと思いつつ、先に進むと●阪急宝塚線の踏切がある。踏切手前の右手に旧石橋村高札場跡の案内板があった。地図も書いてあり、ちょうど踏切の所が川になって、石橋が架かり、能勢街道がクロスしているのであった、
 能勢街道は大坂へ向う街道で、多くの人々や物資が行き交い、この辻には高札場があった。先ほどの地蔵堂は「辻の地蔵堂」と呼ぶにはちょっと距離があるように思う。 西国街道は正面の●細い道を進んで行く。   10:03 

  ■住吉神社~十二社神社
 
途中、「夜泣石」があるという正光寺を探し出して、行って見たが、門が閉っており、脇の民家の所から入れるので、入ってみたけど、案内板もなにもなく、どれが「夜泣石」だかよくわからなかった。
 また先に進み、大きな交差点の向うに●亀の森住吉神社がある。幼稚園が併設されている、大きな神社で、「このあたりは大昔は広々とした入江でしたが、応神天皇の頃、忽然として亀形の小島が現われ次第に土地が開け、 光仁天皇の代の宝亀元年(770)お告げにより住吉大神を奉した。」という。 境内に神武天皇遥拝所などというものもあった。
 道は、その先で●中国自動車道の高架にぶつかる。高架脇の右手に●「十二神社」がある。 珍しいことに、境内左側に「防空壕跡」が保存されていた。  10:33

 ■十二社神社~今在家
 
中国自動車道の●高架の地下道を二つくぐり、向う側へ出た。街道は高架の為に寸断されてしまっている。地下道を出てからに黄色いテントの弁当屋屋さんの裏を通って行くのであるが、その前に国道171号の北側にあるという、●「弁慶の泉」を見ておいた。 800年前、頼朝により西国に追放された源義主従がこの地を通過した際、弁慶がこの水を飲んだといういわれがある。
 街道に戻ったあたりは●「北今在家」というようだ。地図では池田市豊島南1丁目となっているが、昔の地名らしい。10:53

 ■今在家~新開橋
 右手に●「北今在家広場」があり、その奥に木に囲まれて遠慮がちに、土地を寄贈した橋川家の記念碑がある。橋川家は江戸時代庄屋を務め、麻田藩の米方として藩政に貢献したという。
 右手受楽寺門前左手に●春團治碑というのがある。三代目春團治が初代、二代目への御恩報謝の意を込めて、門弟達と建立したもので、 受楽寺の住職とも交流があった縁で建てたという。
 道を進んでいくと●府道10号線の高架に突き当る。本来はくぐってはだめで、右手の小さな鉄橋を渡り、箕面川を越えて、国道と合流しないといけない。 左手は「大坂空港」が広がっていし、飛行機の飛ぶのを見たかったので、ちょっと寄道することにした。  11:04

  ■新開橋~大坂空港
 
●大阪空港(旧伊丹空港)
 府道の高架をくぐって、箕面川に沿って南下すると、左手に下河原緑地公園がある。 ここは「エアポートオアシス下河原」といって、飛行機が見られるスポットになっている。 伊丹空港の滑走路が見渡せる展望台で、しばし飛行機の離陸を堪能した。国内線でジェットあり、プロペラ機ありで面白い。 

  ■大坂空港~軍行橋
 
下河原中橋など箕面川に架かる橋を適当に渡って、国道へ向う。 軍行橋を渡る前に、右手にある●浄源寺を訪れた。
浄源寺は蓮如上人が有馬に向かう途中、説法を行った場所がのちに寺になったという。浄源寺の銀杏の木は樹齢300年で、街道の一里塚的存在だったといわれる。
 寺の隣に建つ、蔵がある屋敷は●入江家と中村家といい、伊丹市景観形成建造物に指定されている。
 猪名川に架かる●軍行橋を渡るが、渡る前の右側土手の所に「東宮御野立所の碑」が立っている。 明治44年に猪名川を挟んで行われた第四師団大演習の際の東宮行啓記念碑で、軍行橋の名前はこの演習のために橋を架けたのが由来だという。  猪名川渡しは人足による歩渡と「百姓自分渡舟」と呼ばれる、地元百姓による渡舟とがあり、冬場は板橋もあったという。(伊丹市博物館の資料)現在ではもちろんこの軍行橋を渡って行く。  11:51

  ■軍行橋~北伊丹1丁目・多田街道辻の碑
 軍行橋を渡りきると左折して、土手の下の道を行くようだが、歩道が無く危険なので、そのまま土手を歩いた。
 「国土省水質観測所」の隣の土手下に、●芭蕉翁あゆみの地の碑や新建石橋碑、廻国供養塔とが立っている。あゆみの地の碑は元禄元年(1688年)、芭蕉は須磨、明石などをめぐったあと,西国街道を通り猪名川を越えて京へ帰った、ということを記念して立てられた。
 「松谷化学」の所を右折して JR福知山線の踏切を越える。細い道を直して駄六川を渡る。府道13号の手前に、●「多田街道」の看板が立つ辻があり、元禄14年建立の 「従是多田御社江 一里半」の道標や、その奥に「史跡 辻の碑(いしぶみ) 」という石碑がお堂に入っている。銘文は「従東寺拾里」だけ読め、東寺から40キロ歩いてきたことになる。 
 元の辻に戻って、左側に入った所に●水車小屋があった。  12:18

  ■多田街道辻の碑~西皇太神社
 
府道13号の交差点の先は上り坂で●「伊丹坂」という。左手に和泉式部の墓の矢印があり、それに従い左折して左へ坂を上がって行くと、 左手奥に●和泉式部の墓というものがある。 鎌倉後期の花崗岩製の五輪塔の内、火輪と地輪が欠けたものだった。 和泉式部は摂津国川辺郡平井出身の藤原保昌と再婚していることから、この地に供養塔が建てられたということだった。和泉式部の墓はあちこちにあり、中山道の御嵩宿の手前にあったし、ついこの間、京都の新京極にある「誠心院」でも見た。こちらは宝篋印塔だったが。
 次は少し進んだ通の右手奥に屋根が見えている「妙宣寺」を目指すが、路地が入組んで近づけないので、バス通の方に戻って行ったら、手前に●西皇太神社があった。ごく普通の神社だったが、珍しいのは境内に「茶碗樋」という石組みが保存されていて、瑞ケ池の水を巡って荻野・鴻池の両村と争い、茶碗の大きさの穴の樋を引くことにより解決したというもの。12:43

  ■西皇太神社~千僧
 
神社の隣が●妙宣寺であった。妙宣寺は正平年間(1346~)の干ばつ時に、法華宗の僧、大覚が雨乞いの祈祷を行ったら、雨が降ったというので、住民が真言宗から法華宗に変わった際、その中心になった寺という。山門を出たところに、●竹塚」というのがある。大覚大僧正がさした紫竹の杖から紫竹が群生したというものである。また西南100mの所に「御塚」というものがあるというので、それらしき方向を探してみたが、わからなかった。
  街道に戻ると右手の公園に●「旧西国街道」の看板が下がっていて、大鹿会館には「大鹿村」の昔の絵図と道標がある。

  ■千僧~昆陽
 
交差点を●千僧(せんぞ)地区になる。千僧という地名の由来は「行基」が昆陽上池、下池などを築き、新田などを開墾した工事による犠牲者の千僧供養を行った地であることから付けられたという説があるが確かではないそうだ。右側には陸上自衛隊の駐屯地がある。 右手に●千僧天神社がある。初めは大巳貴命を祀ったが、 昔猪名権現社と称せられ、和銅6年に行基が熊野に詣で、一夕に見ゆ神を刻んでこの地に祀り、猪名権現社と称してきたとある。境内に、「今池消ゆ」と書かれた記念碑があるが、昔行基が築いたといわれる「今池」は現在の兵庫県伊丹庁舎の敷地になって消えてしまった。現在神社の裏手に残っている「千僧今池」はその名残であろうか。 道の右側に兵庫県伊丹庁舎などが建っている。裏手に伊丹市立博物館があり、「西国街道」の資料を売っているので、寄ってみたけど、ほとんど完売されており、「むかしの道ガイドブック 20 伊丹市から西宮市まで」だけ入手できた。
 交差点を渡ると右側にコンビニがあり、ここからは●昆陽宿が始る。静かな町並で、宿らしい跡はなにもない。
  ************ 5 昆陽宿
  摂津国川辺郡昆陽村が宿駅として発展したところで、伊能忠敬が街道測量の途中、川端本陣に泊ったといわれる。
  本陣 1 旅籠 17 ************                13:54        

  ■昆陽~武庫川
 
右側にある「稲野小学校」の校庭脇に、 大名行列の前を横切ったために切り殺された子供の霊をまつったといわれる●首切地蔵がある。さすがに小学校脇で、首切の文字は都合悪いのか、案内板がない。
 同じく稲野小学校の校庭門前には●西国街道の案内碑と能因法師の歌碑と道標が建っている。
 その先の左側の長勢児童遊園という小さな公園の植込みの所に●長勢橋の碑という小さな石碑があり、 元治元年(1864)の蛤御門の変で、敗走した長州勢がここで踏みとどまって戦ったといわれていますという。  14:07

   さて街道は又、又●国道171号に合流し、少し行って左折するようになるが、国道右手にある昆陽寺に寄った。聖武天皇の勅願所として、天平5年(733)に行基が建立した畿内49院の一つ。 堂々とした●山門や観音堂は県指定文化財になっている。阪神淡路大震災で、大きな被害を受けたが大半が復旧されたという。
 国道を渡って、旧道に入り、少し行って右折すると右手に小公園がある。その奥に●「閼伽井」(あかい)がある。閼伽井は、昆陽寺の行事で使用されていた井戸で、西国街道を旅する旅人の休息の場として喜ばれていたとのこと。  14:40

  国道に又出てくるが、右手に●師直塚という石碑がある。高師直(こうのもろなお)は、足利尊氏の執事であったが、観応2年(1351)、尊氏の弟、直義との打出浜(芦屋市)の戦いで敗れ、 京へ向かう途中、武庫川を過ぎたこの付近で、敵方に討たれた、。 その後、師直らの塚が作られ、江戸時代には名所図会に載るほど有名であったが、その後位置が転々とし、現在地に落着いた。
  国道の陸橋を過ぎたあたりで尼崎市に入る。その先の●西昆陽交差点で、国道はここで左へカーブするが、西国街道はこのまま真っ直ぐ行くことになる。 
 突き当る手前で右折して堤防を越えると土手下に●常夜燈とお堂があった。ここが「髭の渡し跡」である。 街道沿いの西昆陽村に髭をはやした老人が営む茶屋があったことから、髭の渡しと名付けられたといわれている。最初板橋が架けられ、水量が増した時には人足の肩越えによる渡しが行われていが、 後には渡舟が行われるようにった。対岸には報徳学園が見える。
 現在では下流の「甲武橋」を渡って、対岸の報徳学園の所まで戻らなければならないが、これが難儀で、往復1.2km位ある。また土手の上に道路があるのだが、車が多く、歩道もないので、土手下の河原を歩いた方が無難。  15:02

  ■武庫川~門戸岡田町
 
そんなわけで橋を渡り、堤防下を少し北上し、報徳学園の建物あたりで土手を越えると、●学園裏に道が続いている。学園を過ぎて「段上小学校」脇を右折して進む。道は浄水場で右折したり道なりにそのまま進むと●山陽新幹線のガードにぶつかった。
 ガードを過ぎて線路沿いに右折して行くと●旧西国街道の標識や木製の案内板が立っている。この後は町中に入ってくる為、旧道が無くなったりしているので、これらの案内板に従って歩くことにした方がよい。   15:41

  下大市西町の交差点右手に●道標が2基ある。甲山観音と門戸厄神への道標で、門戸厄神の道標には、「日本三躰 厄神明王道」「すぐ尼嵜 大阪 左 伊丹 池田 京 道」などと刻み、甲山観音道標の方は「すぐか婦と山観音 是より 十五丁」などと刻む。門戸厄神は後で寄ることになった。又甲山観音とはここから北西部の甲山山麓にある神呪寺(かんのうじ)のことと思われる。 
 先に進むと阪急今津線の踏切があり、左手に門戸厄神駅が見える。ここに「門戸厄神参道」の案内板が立つので、30分くらい時間を取られそうだったけど、寄ってみた。
 ●門戸厄神(東光寺)とは高野山真言宗の別格本山で、愛染明王と不動明王が一体となった厄神明王を祀る。厄除で名高いといわれる。 帰りは踏切には戻らず、参道を途中で右折して、街道に戻ったので、少しだけショートカットになった。
門戸岡田町の三差路には、●神戸女学院の案内看板と厄神道標がある。文久2年の建立の指差し道標で「日本三躰 厄神明王社」と刻まれている。  16:21

  ■門戸岡田町~与古道町
 
その後街道案内板のとおり進み、中央運動公園にきたが、街道は無くなっているので、グランドの中を通り、西宮スポーツセンターの前に出て、●「カメラのキタムラ」の先を左折して進む。このあたりでは「西国街道」の案内板が全く無くなってしまった。●阪急線ガードをくぐると、左側から●「御手洗川」の石垣が寄ってくる。
 次は●JRの高架の下をくぐるが、車線よりは低くなっている。くぐると国道2号線を越える。ここは西宮市役所前で、交通量が相当多かった。   16:58

 雨が強くなってきたが、そのまま南下すると、左手に●「官幣大社 廣田神社参道」の石標が立っている。この道は「用海筋」というようである。「阪神電車」の高架を過ぎて、旧道は「天神橋」から斜めに「正念寺」の裏手を通っているようであるが、道がないので真っ直ぐ進み、高速の●高架の一つ手前の交差点へ来た。右手に●「正念寺」がある。この交差点が東からやって来る「中国道」の合流点と思われる。江戸時代の「中国道」は大坂の高麗橋から出発し、尼崎を経てこのあたりで、西国街道と合流し、西宮神社へ向い、そのまま下関へ行っている。しかしこのあたり合流点をしめす石碑の類はなかった     17:10

 ■与古道町~西宮神社
 
東方向から撮った道は●旧中国道である。西国街道は北からやって来て、右折して西宮神社へ向う。途中左手に●蛭児御輿屋伝承地という碑が建っている。古事記に出てくる、蛭児が流されて西宮に流れ着いたという伝説の場所である。その蛭児を祀ったのが西宮神社のわけだ。やがて●西宮神社、表大門に達し、西国街道のゴールとしたい。神社の中へ入って見たが、時間も遅く、雨も降り、暗くてろくな写真が撮れなかったので、次回中国街道を歩いたとき、又来るのでその時、じっくり見てみたいと思います。今日は寄道が多くてくたびれた。  17:30

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