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![]() ![]() ![]() 2012年6月3日 井原市のホテル、「歴城荘」を出て、井原線で戻り、●三谷駅、8時18分到着。本日は三谷から神辺まで行きたいと思う。 さて、駅の北側、前回の終了地点から始める。井原線の高架をくぐって、そのまま真っ直ぐ進むと、矢掛町、行部で小田川に突き当たる。右折して小田川沿いに進むわけだが、左の角に●行部の道標がある。「左 大坂道」「右 玉しま道」と刻まれている。道標と反対側の小田川河原に下りた所に、●安政5年の山上講供養碑と安政6年建立の常夜燈などが建っている。 8:56 |
![]() ![]() 行部を右折して、少し行くと、右手に曲る道があり、これを通る すぐ先、右手に、古びた●清水地蔵と呼ばれる地蔵堂がある。中の地蔵群はきれいに整備されて、納められていた。 右手の茶臼山には●中山城跡がある。天正10年の備中高松城の水攻めのあと、毛利元清が高峻な猿掛城を不便として、この城を増改築して11年に入城したという。 |
![]() ![]() その先右手に●矢掛神社がある。もとは丑寅神社と称し、大正元年に矢掛神社となった。鳥居は元禄13年(1700)、庭瀬藩主板倉氏の寄進と伝えられる。鳥居の前には矢掛宿、脇本陣を勤めた高草喜定と喜厳、寄進の弘化4年)と、文久2年の常夜燈がある。また堂内に「伊勢参詣図」絵馬が架かり、一行が洋傘を手にしているのが面白い。 矢掛神社出て、真っ直ぐ田んぼの中を進み、「宮の前橋」の所に矢掛神社が昭和17年に●郷社に昇格した記念碑が建っている。 9:18 |
![]() ![]() 矢掛宿に入って来た。 左手角の焼板を壁にした建物の所に、●「矢掛一里塚跡」の石標がある。北側の松が明治16年積雪で倒れ、南側は昭和16年バス路線の拡張の為、伐採されたという。 ●矢掛宿の町並。 全国でもここだけという、本陣・脇本陣がそのまま残る宿場であり、基本的に大きな変化がなく、岡山県町並保存地区に選定されているほど。古い町並が良好に保存されて、あちこちに、藏造風な建物が残っている。 9:25 |
![]() ![]() 宿場の両替商で庄屋役でもあった髙草家が勤めた。堂々たる門を備え、特に白壁、張瓦の堅固な建築様式が美しい。 ●矢掛宿本陣石井家 国指定重要文化財であり、間口20間、約千坪敷地である。石井家は、毛利元清の家臣が先祖で、大庄屋を勤め、酒造業を営む豪商であった。篤姫が家定に嫁ぐ時、泊ったという。 9:32 |
18 矢掛宿 矢掛の名前は、古代清流に家屋の影が美しく映ることを「屋陰」と呼んだことに始り、後、矢尻の生産で有名になったということに由来するという。矢掛の町は小田川水運を中心にした水陸交通の要として栄えた。江戸中期以降、参勤交代が瀬戸内海から陸路に変ってから、本格的に繁栄するようになる。町並みは東西1kmにわたり、本瓦葺、妻入り、通り土間のある伝統的な商家が軒を連ね、宿場の面影を色濃く残している 特に旧矢掛宿本陣と脇本陣が江戸時代からそのまま残るのは全国でもこの矢掛宿だけである。 |
![]() ![]() 矢掛宿も西端の●美山川で終わり、県道と合流する。現在は「栄橋、新栄橋」と二つ架かっているが、昔は、この川は「矢掛川」と呼ばれ、徒歩渡りだったようである。いま、「高通川徒渡し跡」と書かれた新しい石標があるが、「高通川」という名前の意味がよくわからない。こんな名前の川はないのだけど・・ 県道が旧道ではないのは言うまでもなく、右下に製材所があり、●天保13年建立の先祖供養地蔵がある。旧道は製材所の中を通っているようだ。 9:45 |
![]() ![]() ![]() ![]() 県道をしばらく行くと、右斜めに入る細い道がある。この道の途中右手には●常夜燈がある。400m程進むと、●「旧山陽道大曲」の表示の所を直角に左曲がって、又堤防上の県道と合流する。 左手に●「旧山陽道備中國江良村下原下座所跡」と書かれた新しい石標がある。下座所というのは上級の役人や参勤交代の際、下座して迎える場所というのであろう。 9:57 |
![]() ![]() 消防所の前に「岡山元標」の石標がある。 しばらく先の右手に入る道の入口の所に●「史蹟旧山陽道備中國本掘村庭下 下座所跡」という長い名前の石標がる。ちょうど手前の家の犬が塀から頭を出して、レンズの先を見ていた。 すぐ先、左手の「ここから浅海・小田」と書かれた看板の所の、ガードレールに隠れるようにして「史蹟旧山陽道備中國浅海村才の前下座所跡」という新しい石標がある。矢掛はやたらと下座所跡の石標があちこち立っているが、なんでだろう。左手に毎戸池があり、池のほとりに天保5年と弘化4年の●光明真言供養塔がある。 10:36 |
![]() ![]() ![]() さらに左手、井笠家畜保健衛生所前に「史蹟旧山陽道一里塚跡」と書かれた石標がある。 この先、左斜め前方に入って、●堀越というに宿場に入って行く。但し、現在の地名は「小田」になっている。寛延2年(1749)頃、家数が78軒あり、近郊、6ヵ所を定助郷とする、間(あい)の宿であったという。また本陣もあったらしい。二階に漆喰に特徴がある模様が美しい。この道は「小田西」交差点でまた県道と合流する。しばらく進むと井原市境になる。●井原市の歓迎看板が立っている。この先で旧道は井原鉄道を越えなくてはいけなく、ガードをくぐって「押延」地区に入る。ちょうど●電車が横を通過して行った。電車は1両だけ。井原鉄道は高架線路などは立派なのだが、赤字線らしく1両だけが、トコトコと走っている。11:15 |
![]() ![]() ほどなく又県道に合流する。「平井入口」バス停付近の信号の右手に「髙越城址 寶蔵院」と書かれた石標がある。右手の●髙越山には髙越城跡がある。後の北条早雲の出身に関わる城だといわれている。 「青木東」バス停手前で、右斜めに入って行く。角に地蔵堂があり、地蔵、小さい五輪塔などがある。 「青木」バス停で一度、県道に接近し、また県道と別れて行く。右手に「近代化産業遺産」のプレートの架かる「日本綿布株式会社」の味わいのある木造の社屋が建っていた。この先が●旧今市宿である。細い旧道が真っ直ぐ北西に通じている。 「東町」バス停の先、左手に純和風の立派なお屋敷が建って、「旧山陽道(参勤交代街道)」と書かれた白い木製の標柱がある。本陣と思ったが違って、本陣はもっと先にあった。 12:22 |
![]() ![]() 今市宿は人家100軒余、茶屋宿谷あれど間の宿」なりといわれ、矢掛と西の七日市との間の宿場だった。 本陣は「小嶋や」、「難波氏」が勤めた。左手に●「史蹟今市駅本陣跡」と書かれた白い木製の標柱がある。黒壁や漆喰の模様に特徴がある家が並んでいる。 「中堀城跡」と書かれた標柱の所を右に入って行くと、●甲山八幡宮がある。神功皇后の三韓遠征の帰路、この山に玉歩を運ばれ、中国地方の平和を記念するため、宝の冑を頂上にうめられたということに由来する。高台にある本殿は、神社の裏の小山に甲山古墳があり、史跡となっている。 |
![]() ![]() 雄神川を渡って、少し行くと「田中生誕地」というバス停があって、一瞬、(たなか)とは何だ?と思ったが、すぐ田中(でんちゅう)の生れた所とわかって、少し戻った左手の家の庭の中に●「平櫛田中生誕之地」と書かれた石碑があった。この家が生れた家であろう。「平櫛田中」は高村光雲、荻原碌山、朝倉文夫などと並び、日本近代を代表する彫刻家の一人である その先が枡形のような形で曲っており、左手の家の前に「史跡相田嘉三郎邸旧宅」と書かれた白い木製の標柱がある。本新町公民館の先の十字路の右角に●延命地蔵堂と常夜燈と宝筐印塔とが一ヵ所に集っている。 13:00 |
![]() ![]() ![]() ![]() 神戸川を越えてすぐの、二股は手前を左へ行くのだが、右手奥に「興譲館高校」があるので行ってみた。高校の由来が、嘉永6年(1853)、一ツ橋代官友山勝治が創設した郷校にある。最近では高校女子駅伝で有名。史跡である●校門はすぐわかったけど、同じ史跡の講堂は裏側にあるらしく、校内を歩くわけにもいかず、わからなかった。 街道に戻って、進むと小田川に突き当たった、この所に●「川越し上り場跡」と消えかけた字で書かれた標柱をころがしてある。きちんと立てればいいと思うが。小田川は徒歩きであったり、仮設板を用いたり、人足に背負われたりで渡っていたようだ。安政4年、一ツ橋公により木橋が架けられ、●記念碑が建っている。●現在の日芳橋を渡る。 13:30 |
![]() ![]() 小田川を渡ると七日市宿に入る。堤防沿いに下った所に●「七日市駅 川越し上がり場跡」の石碑と常夜燈が建てられている。石碑には「七日市は旧山陽道四十八次の一宿駅で、小田川(旧芳井川)を控え、ここが定人足による歩き渡り上がり場跡です」と書かれている。 ここから西へ●旧七日市宿の古い町並みが続く。左手に「七日市停車場跡」の小さい石碑がある。その昔、井笠鉄道が通っていた跡であるそうな。 13:40 |
![]() ![]() ![]() 左手に●七日市宿場本陣屋敷跡地」の石碑があるが、●跡地と思われる所は、駐車場で何もなし。 右手には●武速神社がある。当初は牛頭天王社と呼ばれたが、明治3年に武速神社に改められた。 鳥居には本陣を勤めた佐藤正左衛門真浮の名前が刻まれている。 |
19 七日市宿 井原市にある七日市宿は、一橋家江原陣屋支配で、最盛期には本陣1・脇本陣3、家数100軒余り、旅籠約80軒とある大規模な宿場町であった。 本陣は佐藤家が勤めた。 |
![]() ![]() 「アクティブライフ 井原」という生涯学習施設のある交差点を過ぎると、左手奥に●井原駅が見える。今朝泊ったホテル「歴城荘」はちょうど反対側、の右手奥にあり、ここを通ってきたわけである。 「東桜木」信号を越えて、旧道を進む。道が細くなってくる。消防団出部分団の手前に●「岩山大明神」の鳥居があり、井原線の向こうに石段が続いているが、大変そうなので鳥居だけで失礼した。 14:15 |
![]() ![]() ![]() 出部郵便局の先、民家の脇に●「旧山陽道一里塚跡」と刻まれた石碑がある。 このあたりの歩行者用のガードレールがいやに高くなっている。なぜか? 左手に●「岡山元標十三里」などと刻む里程標がある。右手に変った形の●常夜燈が立っていて、舟形の石の上に常夜燈が乗った形をしている。 14:30 |
![]() ![]() 道は「大曲公園」の所へ来て、その名の通り、大きく右に曲がる。●「大曲跡」という。曲がり角には水準点と小さな道標が2つある。正面に薬師堂と大曲の案内板がある。案内によると・・・旧山陽道では、単調な旅に変化を付けるため一里塚と共に大曲がつくられた。戦乱の世には東西へ走る敵の数を調べるのに大変都合がよく、また参勤交代の時代には殿様が駕篭を止め前後の行列を眺めては長い旅を続けたという。 その先、国道を渡り、二つ目の角を左折して行く。 左手に●「旧山陽道大橋跡」と書かれた石標がある。山裾の道を行き、髙屋川に沿ってしばらく進んだ。 14:50 |
![]() ![]() 後月橋を渡る。左手には法泉院がある。正面に常夜燈が立っていて、●高屋宿入口にあたる。 髙屋宿は備中国(岡山県)の最西端の宿になる。隣はもう備後国(広島県)である。 ●髙屋宿は昔ながらの狭い道幅の両側に古い家並みが続いている。見逃してしまったのだけど、宿に入ってすぐ右手に声楽家「上野耐之」生家があり、耐之が「ねんねこしゃっしゃりま~せ♪」で始まる子守唄を歌って広めたので、髙屋町は中国地方の子守唄発祥の地ということになっている。すぐ南にある井原鉄道の駅も、「子守歌の里高屋駅」というくらい。 |
20 髙屋宿 古くは石見銀山御用引継駅(備中国笠岡~石見国大森間)であったが、元禄年間(1688~1704)頃に山陽道の宿駅になった。備中国最西端の宿駅で、備後国(広島県)の県境標が立つ。国道が旧山陽道を避けて通ったので、町並みがそのまま残り、宿場町時代の面影を残している。本陣は上野家が勤めたが、上野家は上野耐之生家といわれている。 |
![]() ![]() 入口から1㎞位の所が県境で、●県境の碑が建っている、広島、岡山県の元標までの距離、七日市駅、神辺駅までの距離が刻んである。 備中から備後に入るわけだけど、普通、川とか、道路が境界になっている例が多いと思うが、ここは普通に集落が連続しているので県境を越えているという意識が出てこない。境界間際の家は行政的に混乱があるのではないかと思う、 |
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広島県に入ったら、気持、道が広くなり、家が少なくなってきた。しばらく進むと●一里塚がある。隣に菅茶山先生 「髙屋途中」という漢詩碑もある。右手に四ツ堂という東屋がある。当時の領主が、旅人の休息の場にと作ったものという。 15:40 |
![]() ![]() ほぼ道なりに進み、突き当りで左折すると、右手に「明正寺」左手に阿弥陀堂がある。 国道手前で右折したら、「上御領下組北札場案内図」が掲示されている。残念ながら「山陽道」の記載がない。 右手に●日吉八幡宮がある。参道が大変な石段で、下りてきた人に聞くと、「百数十段ある・・」ということで、もちろん上らず、通過するだけ・・・・。 街道は段々南下を始め、市道の角に「備後国分寺 南大門跡」の石碑があり、そこから●備後国分寺への参道が延びている。見事な松並木が続いて、福山市指定保護樹林となっている。当然昔の国分寺はとうに消滅して、現在の寺は元禄の再建になるもので、時間もなく参道を見るだけに留めた。 16:20 |
![]() ![]() 川沿いの道をしばらく行き、「湯野口」交差点で313号に入り、その先、井原鉄道の高架下をくぐる。 ●「東渕橋東詰」交差点で右折して、髙屋川土手上を歩く。右手土手下に「坂本デニム」の工場が広がっている。 「橋本橋」を渡って、右手方向に進むと、神辺宿に入って来たわけだ。。 右手に●「荒神社」がある。その境内に一里塚の碑も立っている。 16:45 |
![]() ![]() 右手に●廉塾並びに菅茶山旧宅跡がある。1871年頃、神辺宿東本陣を勤めた、菅波家の長男に生まれた菅茶山が京都で朱子学を学んだ後、「廉塾」と呼ばれる学塾を開いた。ここに全国から学生が集まり、頼三陽や北条霞亭らが塾頭を務めたという。講堂、寮舎、菜園などが残っている。 このあたりは七日市といい、東本陣があったが、なにも残っていない。 真っ直ぐ進むと、枡形のように、左へ直角に曲っている。正面には●蔵元「天寶一」が建っている。創業は1910年ということだけど、建物は風格を感じる。 16:58 |
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21 神辺宿 神辺宿は、七日市、三日市と十日市の3地区で構成された宿場で、七日市に東本陣、三日市に西本陣があった。西本陣は、尾道屋菅波氏が勤めており、筑前藩黒田家がおもに利用していた。 東本陣は無くなったが、西本陣は瓦葺平屋建本屋で、広島県内では唯一本陣がしっかり残っている貴重な建物である。 |
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