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![]() ![]() 2012年6月4日 福山駅から福塩線にて神辺駅到着8時0分。隣のかわいい駅は●井原線の神辺駅。こちらは無人駅。 早速歩き始める。国道313号を南下して行き、国道は右折をして行くが、街道は真っ直ぐ行く。●山裾の道になって、いい具合に車があまり来ない。が、前から高校生の自転車が沢山やって来た。今日は月曜日。ヒマなのはこちらだけの話。 |
![]() ![]() ![]() ため池を左に見ながら、右折し、左手に「天理教」の建物がある。一度313号へ出て、182号の下をくぐり、すぐ左折するとゴルフ練習場の前に出る。 ここのゴルフ場がすごく、●蓮池に向って打込むようになっており、球はすべて池ポチャになってしまうのだ。こんなの見るの始めて。球の回収をどうしているのだろうか。 山裾のの道を「福塩線」に沿って歩き、●鶴ケ橋を渡るが、橋の袂に●「出雲大社道の道標」がある。 8:50 |
![]() ![]() ![]() 鶴ヶ橋を渡ってすぐの「新茶屋」信号を左折する。右手に千鶴幼稚園と正善寺があり、左手に●ホロコースト記念館というのがあった。ナチスの大虐殺の展示、学習館という。 その先のカーブミラーのある路地を右に入って行く。芦田川に突き当たり、●大渡橋を渡るのだが、「ひげの梶さんの本」によると、昔はこの辺りから渡船により渡っていたようだ。大渡橋を渡って右折して行く、土手下に●大きな石碑があるが、文字沢山書かれているが、かすれて読めず、なんのことだがよくわからなかった。右手に小さい道標がある。 9:20 |
![]() ![]() 大渡橋から芦田川を南下するわけだが、ここで大きくコースが二つある。「太陽コレクション 山陽道」のコースは山裾をくねくね巡って、三本杉へ達している。もう一つは「ひげの梶さんの本」、「山陽路48次 中国新聞」、その他の説の土手沿いを真っ直ぐ行くコース。明治33年の地図では土手沿いのコースが山陽路として書かれている。おそらく江戸時代では山裾の道を行っているのではないかと思うけど、ここは安直に土手沿いの道を選んだ。 土手の上は車で危険で、中程に●歩行者道があったので、ここを進んで行く。途中●二本松の石碑がある。 大渡橋から約2.5km程で三本松バス停付近に達し、右折して土手を離れて行く。 9:55 |
![]() ![]() ●山手の町並。広島県史によると、山手に「間の宿」が置かれたとしてあるが、そんな雰囲気はなかった。備後赤坂駅までほぼ真っ直ぐで、南西の方向に延びている。 山郷橋を渡って、山手町3丁目、右手に「見守地蔵 祈念往来無事」と書かれた地蔵尊がある。 「山手町江良」信号左手に大きな「榎木」があり、●「一里塚跡」がある。ここには大きな榎が立っている。反対側にあった松の木は枯死してしまって、この榎も有志が植樹したもの。 |
![]() ![]() ![]() 左手、少し高いところに●湯傳稲荷神社がある。その先の「小田川」は天井川になっている。「谷尻」のバス停の所に●地神と地蔵像などが立ち、山陽新幹線の高架を越えた先の、●「坂部」のバス停の所にも、地神の石碑と、「昭湖墓」と彫られた大きな石碑が並んで立っている。昭湖墓とは誰のことかはよくわからない。 10:40 |
![]() ![]() そのうち山陽本線が近づいてきて、道は少し上り坂で、右折をして、備後赤坂の町並みに入って行く。右手のお屋敷は●岡本家、江戸時代は飛脚問屋で、今でも国道2号沿いで郵便局をされているという。土地の名家であるのだろう。 円弧を書くように、左へ曲って、「備後赤坂駅」の北側、上手の方を通過していく。 右手に大きな病院があるが、●街道の雰囲気の感じでは、こちらの方が間の宿」のような感じがしないでもない。 11:35 |
![]() ![]() 左手に「金毘羅大権現」と刻まれた大きな常夜燈が立っている。更にその先右手にも、●もっと大きな金毘羅神社常夜燈が立っている。 さらにその先右手に●「神村町二区クラブ」という看板がかかった所にも地神と常夜燈が立っていた。 このあたりはこのような大きな、形の変った常夜燈が多く、見かけることができる。 国道2号線の高架をくぐって進む。 12:10 |
![]() ![]() 高架をくぐると、左手JRの線路を越えた先に●「今伊勢宮」がある。社殿によると、応永33年(1426)、平朝臣太夫末次が伊勢に参宮した折り、西国へ供奉せよとの霊夢を見て、当地に持ってきた石を安置し、社殿を創建したと伝えられる。石段が高いが上がってみた。かなり疲れる結果になった。 街道に戻り、先に進むと、少し先で2号線に合流する。 「神村小学校入口」の看板が立っている所を右斜めに入っていくが、又すぐに2号線に合流する。その先●「福山西署入口」信号から再び右斜めに伸びる旧道に入る。 12:50 |
![]() ![]() 「松永の町」に入ってきた。松永は製塩業とゲタの生産で有名だったという。その関係からか、「はきもの博物館」が駅前にある。 途中で左折し、一度国道へ出て、駅前を過ぎ、バスセンター前から右斜めに延びる旧道に入る。吾妻橋を渡ると●今津の町に入る。今津は山陽道の宿駅で、幕末はワラジを売るだけで生活ができ、宿場駕籠も5.60台あり、「今津に嫁へやれば、つえ1本あれば養うてもらえる」というほど繁盛した。 右手に●平櫛田中の旧宅跡があった。田中は明治15年に今津町平櫛家の養子となり、明治の一時期、今津町で暮らしている。 13:25 |
![]() ![]() 。右手に薬師寺がある。少し先右手に●今津宿本陣跡がある。ここは代々庄屋職を務めた河本家で、明治4年(1871)の百姓一揆で主要な建物は焼失したが、表門や広大な屋敷地を巡る石垣等が残っている。 左手に●「高諸神社」がある。式内社で別名、剣神社」(おつるぎ神社という。その昔、新羅国の帝らが今津の地に漂着し、帝は須佐之男命の生まれ変わりだったといい、剣を授けこれを祀りしたという面白い由来を持つ。 13:30 |
![]() ![]() 右手に●「陰陽石(いんようせき)宮」という変った神社がある。陰陽石を祀っており、誠心明生会本部という看板が立ち、新宗教のようである。備陽六郡志に「街道より北、田の中にあり。陰石は西にありて、陽石東の方に相臨めり。天地自然の造物、本朝無類の名石なり」とあるというので、結構由来のある神社かもしれない。 13:45 |
22 今津宿 今津に宿駅が開かれたのは福島正則の芸備入国後の慶長7年(1602)と伝えられる。開設当時は三原-神辺の単なる中継ぎに過ぎなかったが、参勤交代や一般庶民の往来が激しくなって、本陣が設けられ、宿場らしい形態が整えられた。文化6年の戸数は300を越え、幕末はワラジを売るだけで生活ができたという。本陣は河本家が勤めた。 |
![]() ![]() 街道は藤井川に架かる●真田橋を渡り、川尻の集落に入り、2号線に合流する手前で、尾道市へ入った。 「今宮中」信号の、右手、高台を上った所に●「高須八幡神社」がある。鳥居は享保2年(1717)のものだが、社殿は新しい。行程記では昔は、神社の下一帯は海だったと伝えている。 この神社の所から西へ旧道が伸びているのでここを行く 14:20 |
![]() ![]() 右手に●「恋乃水」と刻まれ、伊勢音頭が刻まれた石碑と祠が立っている。広島の地に何で、伊勢音頭なのだ?、などと思うが、何も説明文がないので、よくわからず。 右手に「掘出地蔵」という祠が建っている。掘り出された石地蔵を祀ったのかもしれない。 ●山裾の道を進んで行く。道は大通りへ出る手前で、右へ急激に曲っている。コンクリートの壁に「関の地蔵尊 すぐそこの上」という看板が架かっていたので、右折してから階段を上がって行った。 |
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![]() ![]() やがて高須インターの所へ出た。国道2号線、西瀬戸内自動車道のインターチェンジが複雑に交叉している。どう進めばいいかわからないように見えるけど、そう複雑でもなく、まず、前方の左右の高架が●2号線で、2号線に沿って左へ、左へと単純に曲って行けば良い。 高架下を3本くぐって行くと、右手にトラックステーションが見え、坂道を上っていくと、右手に「新池」という池が見えてくる。その先にもう一つ池があり、この池との間を行くのだが、角に●徳本上人の「南無阿弥陀仏」の六字名号石碑が建つ。ここを右折して2号線の下のトンネルをくぐって進む。15:15 |
![]() ![]() ![]() ![]() 10分足らずで●防地峠頂上へ着いた。峠と言っても、大きな舗装路が交叉している、普通の場所だった。ここは広島藩と福山藩との境界で、道路の向う側、西側に●「従是西藝州領」、手前側に●「従是東 福山領という境界石が立っている。両方の藩の番所が建っていた所で、福山側の高台に●東の番所跡の建物が昔のまま残っているが、ここは個人宅で立入れできないので、下から遠望するだけ。 また樹木に囲まれてどういう形だかよくわからなかった。 15:42 |
![]() ![]() ジグザグに峠を下って、高速道路の高架下を通るが、その手前に大きな●題目石が右手に立っている。南北朝、尾道に日蓮宗を伝えた、京都妙顕寺の妙実上人が尾道を去るとき、信者がお見送りをした地に建てられたと伝えている。 高架下をくぐると、●下り坂になり、海岸縁までまっしぐら。 途中右手の山の上に三重塔が見える。「西国寺」の三重塔である。ちょっと距離があって、寄れなかった。左手に「尾道東高校」があり、「林 芙美子」が卒業した学校である。 |
![]() ![]() 推古24年(616)聖徳太子の開基と伝えられ、鎌倉時代に荒廃し、再建後焼失したりしたが、嘉暦2年(1327)に本堂外が再興され、現在に至っている。本堂、阿弥陀堂、多宝塔などは中世仏教様式を残し、境内地がそのまま国宝に指定されている。 ●「防地口」まで戻って来た。旧道は2号線を越えて、右手に入る細い道である。尾道は神社、古寺が大変多く、「古寺めぐり」のコースがある。ゆっくり見ようとすると、とても一日掛けても終らないくらいなので、浄土宗だけで終りとした。千光寺などは以前見て回ったことがある。 16:20 |
![]() ![]() 久保町2丁目の枡形の様に、カギ型に曲る先あたりから●アーケードになっており、ここが尾道宿で、街道がアーケードの下を通過している。 尾道郵便局のところで一旦アーケードは途切れ、左を見ると、尾道渡船フェリー乗場で、海の向うは●向島。2隻のフェリー船が行ったり来たりで忙しそう。 その先で再びアーケードに入る。アーケードは駅前まで続いていて、かなり長い。旧宿場の雰囲気は全く感じられず、本陣や「奉行所跡」の石碑が立っていたらしいが、見逃してしまった。 16:40 |
![]() ![]() 街道はここから国道を越えて●JRの踏切を越えて、三原方面へ向っている。・・・・・・・・・・ 今回の2泊3日の旅はここで終えることにした。次回は三原から広島駅まで進みたいと思う。3日間で80kmを越えた。かなり疲れたけれど、楽しかったです。 16:50 |
23 尾道宿 尾道市は古く平安時代の嘉応元年(1169年)備後大田庄(後、高野山領)公認の船津倉敷地、荘園米の積み出し港となって以来、瀬戸内の代表的商港都市として発展した。町は久保町、四日市町、土堂町から成り、土堂町に本陣が置かれた。本陣 笠岡屋家が勤めた。 |
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