川越・児玉往還を歩く 1 
            (川越~高坂
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 川越-札の辻-石原町-入間川-平塚-下子坂-塚越-島田-九十九橋-高坂                    13.53km  

 川越・児玉往還

 川越・児玉往還は、川越から高坂、嵐山、奈良梨、児玉町等を経由し、上州の藤岡へ通じる街道である。江戸から上州への中山道の近道となる道で、中山道の脇街道的機能を果たし、通行者はかなり多かったといわれる。嵐山から先は鎌倉街道上道と一致している部分がある

 宿場は
 石井・塚越、高坂、菅谷・志賀、奈良梨、今市・赤浜、小前田・原宿、広木、児玉・八幡山にあった。  

 距離は57km程度。交通の便が良くなく、継いで歩くには工夫が必要。

 参考資料
 「歴史の道調査報告書 川越・児玉往還」(埼玉県教育委員会)

 1 川越~高坂  2 高坂~奈良梨  3 奈良梨~児玉  4 児玉~群馬藤岡

2016年5月22日
■川越市役所前~札の辻
 東武線「川越市駅」を下車、20分程歩いて●川越市役所前交差点に到着した。●川越城大手門跡碑と太田道灌像が立つ。以前川越街道を歩いた時ではここをゴールとしていた。今回はここを川越・児玉往還の出発地点とした。
 早速西に向かって歩き始めた。今日は高坂駅までを予定している。
 200mも行くと●札の辻。札の辻は川越城下の中心地にあたり高札場があった所である。左手に目を転じると風情ある●蔵造りの町並みを望むことができる。現在の蔵造りの多くは明治の川越大火後に建てられたもので、江戸の景観を受け継ぐ重要な歴史的遺産として「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。本来はゆっくり眺めていきたい訳だが、今日の目的ではないので一瞥するだけで過ぎた。   8:55


■札の辻~石原町
 札の辻を過ぎ左手に「菓子屋横丁」が現れるが、朝早いせいもあって大半の店が開いていないので面白くなく、ここも覘くだけ。
右手に●六塚稲荷神社がある。 太田道真がこの地にあった6つの塚を崩した代わりに、6つの稲荷社を建立し、後に5社を廃し1社にまとめたという。●本殿に江戸彫の彫刻がはめ込まれていて特徴的らしいが、改修中らしくシートで覆われていたので説明板の写真から借用しておく。
 裏手は新河岸川が流れ、●高沢橋を渡る。 明治時代には石造のアーチ橋で、「めがね橋」と呼ばれていたそうだが洪水で流出し,その後鉄橋に架けかえられた。 橋を渡った右手には●本応寺がある。川越藩国家老の高田繁文の墓がある。高田繁文は殖産興業で功績を残したという。 9:05

■石原町~石原北交差点
  ●石原町に入る。江戸時代は川越城下への出入り口にあたる所で長さ2町あまりの町の半数以上が旅館だったという。現在は旧家はあまり残っていないようで右手の●動物病院くらいなものかと思う。右手に旧家らしい鋸鍛冶屋さんがあったが、写真を撮り忘れてしまった。
 石原町交差点を過ぎた先、左に入った公民館の裏手に●愛宕八坂神社がある。「牛頭天王縁起絵巻」が秘蔵されているという。
●石原北交差点を直進して行く。   9:35

■石原北交差点~入間川
 交差点を渡ると●途端に道幅が狭くなり、右手は畑が広がり、左手にパイオニアの工場が広がっている。しばらく行くと「寺山」交差点に出る。真っ直ぐ進むところ、 ここで左折して、右折して入間川土手下の●八咫(やた)神社に寄った。 この神社は夏祭りである「まんぐい」、秋祭りで行われる「獅子舞」で知られている。境内に 説明板がある。 この後土手伝いに元の道に戻り、入間川の土手を進んで、●平塚橋を渡る。現在の平塚橋の下流100mほどの所の木造の旧橋があったそうだ。冠水橋で大雨の時などは取り外したという。●現在の入間川は水流が少なく、土手からは水が流れているのが見えないくらい。   10:08

 ■入間川~平塚
 入間川を渡って、土手を歩いて●旧橋があったらしい場所に来た。河原敷は運動公園になっている。土手を下りて真っ直ぐ進みたいところ、道がありそうでなく、●円を描くように道が続いている。この円状の道はかっての入間川の堤防だったというのだが、なぜ円状なのかわからない。そこの道端に●文政13年の馬頭観世音があった。 右へ向かうと県道に出るが、手前に●天満宮がある。   10:20

 ■平塚~下子坂
 県道256を進み●棘橋(とげばし)を渡る。この橋には「でえだらぼう」の伝説がある。・・・・長いのでこちら(川越専科)を参照願います・・・・
  橋から土手を降りて行くと右手角に●馬頭観音が一基ある。摩滅が激しい。  更に進み、信号の先の●小路を左に入るのが旧道という。
 集落の中を行くと、右手ヤブの中に●明治の馬頭観音と昭和の観音供養塔が並んである。この先に北向き観音があると調査報告書に書いてあるが、見つからなった。      10:36

 ■下子坂~大穴橋
 この脇道は直ぐ元の県道に合流してしまう。合流してから10分程の●三光建設手前に●天明3年の馬頭観音が立つ。こちらは三面の像であまり見たことがないもの。
 この先の2分岐を右へ進む。 中小板地区を貫いて進み、右手に東坂戸団地が広がっている。団地の入口のこんもりとした林の中に●大穴城跡がある。誰が築いたかわからないが、中世に築かれた城を江戸時代に陣屋として使われたと考えられるとある。当時の面影を残す土塁が少し残っているとあるが、それすらわからないというのが正直なところ。
 大穴橋を渡ってすぐ●田んぼのあぜ道を行くのが旧道らしいので、特に何もないけどこだわりで進んでおいた。三角形の2辺で300m程ある。11:20

■大穴橋~塚越
 「観音堂」というバス停がある。このあたり観音堂らしき建物があるはずとあたりを探すも何もない。ただ公民館らしき平屋の建物があって、その敷地に●石仏群や常夜燈があった。常夜燈は「下廣谷村 光西寺」とあり、このあたりの石仏を集めたものと思われる。 その先左手に●「湯殿三山 西国 板東秩父 四国 順拝供養塔」という、なんかすごい供養塔があった。
 圏央道の手前、●年式のわからない古い地蔵が立っており、これが調査報告書にいう「宝暦6年(1756)地蔵とすると、この前の小路は鎌倉街道にあたるのではないかと思う。圏央道ををくぐる。坂戸市へ入った。
  左手の●八坂神社がある。 小さいながら蔵造りの堂々とした社である。「天王さま」と親しまれ、夏には「塚越ばやし」が奉納されている。「塚越信号」を過ぎると「塚越の宿」だが、その面影は全くない。300m程で●三叉路にぶつかった。道は左手を進むが、ここで右手へ少しの寄り道をする。 12:35

■塚越~住吉神社
 三叉路の信号右手脇に●大宮住吉神社標石の新旧2基が立っている。左の新しい方は「大宮住吉神社 是より東五町」、右の古い標石には「川越江二里」とあるそうだが、摩滅して読めそうにない。ここを東へ入って行く。5分程行くと●塚越神社がある。直径8m、高さ1.4mの円墳の上に乗っており「義家塚」と呼んでいる。 文治三年 (1178)九月,源頼朝の命によっ て, 源義家の忠魂を勧請したものである。塚越の地名の由来ともいう。
 その先思いがけない案内板に出くわした。案内板の所が●東山道武蔵路の通った跡だという。西国分寺を通過していた「武蔵路」は真っ直ぐ北上してこの場所を通っていたわけだ。道幅は11m
 その先に●大宮住吉神社がある。天徳3年(959)山田長慶という人が長門一の宮、住吉神社の分霊を勧請したことに始まり、康平年間(1058~)源義家が奥州平定の途中に反徒の鎮定を祈願し陣鉦を献じたといわれ、頼朝により北武蔵十二郡の総社に指定されたという由緒ある神社である。
 現在でも神職はこの地の豪族で村山党の勝呂氏の子孫が勤めているとか。  12:50

 ■塚越~勝呂神社
 神社から元の県道に戻ってきて先に進む。「石井下宿信号」の先右手に●宗福寺がある。 勝呂氏ゆかりの寺といわれ、その館跡の南西の隅に建っている。本堂前に●文和5年(1356)銘の「南無阿弥陀仏」と刻まれた坂戸市内最大の六字名号板碑がある。
 一つ先の信号を右へ入って行った左手の公民館分館の敷地は●勝呂廃寺跡であるという。宗福寺からこの先にある勝呂神社まで一帯は古代からの「勝郷」の中心であったと考えられ、古墳が多く、奈良時代には壮大な規模を持つ「勝呂廃寺」が造営されるなど早くから開けていたという。
 公民館の先、県道をはずれた所に●勝呂神社がある。平安時代に加賀白山の御霊を遷してまつったという伝承を持つ古社である。社殿は勝呂古墳群1号墳という古墳に乗っている。  13:50

 ■勝呂神社~島田入口
 又県道に戻って来て、先に進む。このたりは塚越と合宿だった石井宿だが、その面影は全く残っていない。右手に●須賀神社がある。お堂脇に地蔵と板碑が並んでいる。
 飯盛川に架かる「注連松橋」を渡ると、右脇に県道整備の際に残された●旧道の一部があり、ここに● 〆松地蔵が立つ。もとは手前の注連松橋脇にあったものだが、道路改修でここに移された。〆松という名前は昔注連縄(しめなわ)をかけた大きな松があったことによるそうだ。
 〆松地蔵にまつわる伝説・・・・・「むかし石井の大智寺の兄弟地蔵がけんかし、弟地蔵が兄地蔵から投げられ2kmも離れたこの地へ飛ばされてきて泣いていた。そこへ通りかかった大日如来が、「お前はここで旅人や村の人を守りなさい」と慰め諭した。その後、弟地蔵はいつも旅人や村人を見守り、慕われたという」 ・・・・・  先に進んで●島田バス停の間を入って行く。  14:15

 ★旧島田宿
 入った細い道が●島田宿跡である。旅籠などは残っていないが、宿の雰囲気は感じられる。 宿の突き当たりが●越辺川土手で、島田の渡しがあった所。平時は船2艘で渡していた。明治には木橋が架けられていたという。水害から祈る為なのか石仏が並んでいる。またここは明治40年頃に開通した。「テト馬車」という川越までの乗合馬車の発着場もあったという。
 土手の向こうは越辺川。●●木橋が架けられていて珍しい。明治の木橋がそのまま木橋のまま続いているらしいが、何回か流されて架け変わってはいる。観光用でもあり、テレビのロケにも使用されたという。  14:25

 ■島田~九十九橋
 川を渡ると東松山市に入る。こちら側は●水田の中を真っ直ぐ進む道で、ここが旧道だと云われる。●国道407号にぶつかる辺りが 日光千人同心道合流地点で、信号がなくてあぶないが、車の切れる頃を見計らって強引に渡ってしまった。
 ●九十九橋を渡って高坂宿へ入る。このあたり道標があるというので探したがよくわからなかった。   14:35

 ■九十九橋~大黒部公民館
 道沿い左手の●覆屋に享保4年(1719)の地蔵と元文5年(1740)の庚申塔が並んでいる。●ゆるやかな坂道に沿って高坂宿に入って行く。ここに来るのは千人同心道を歩いた時以来で2度目。少し進んだ大黒部公会堂前に●馬頭尊、六地蔵などが並んでいる。  14:45

 ■大黒部公民館~高坂駅
 ●長松寺、高坂小学校を過ぎたあたりではもう高坂宿に入っていると思われる。往時は沿道に店が建ち並んでいたと云われるが、当時の面影はほとんど感じられない。 未だ少し時間は早いのだけど「武蔵嵐山駅」までには遠く、今日はここで終わりとして、●高坂駅から帰宅することとした。
 第1回目終了  寄り道込みで18km程度    15:05

     2 高坂~奈良梨