川越・児玉往還を歩く 3 
          (奈良梨~児玉)
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 奈良梨-能増-寄居境-今市-北柏田-赤浜-花園橋-川端-小前田-原宿-猪俣-広木-小山川-児玉連雀町-児玉駅  23.42km


2016年7月17日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■奈良梨交差点~奈良梨宿
 東武小川町駅から国際十王交通バスの9時発熊谷行きに乗って約10分、前回終了した●奈良梨交差点に復帰した。今日はここから八高線の用土駅あたりまで行こうと思うが、早ければ児玉駅まで行ってしまおうかと思う。
 交差点右手の八和田神社の標石隣に●享保6年の庚申塔がある。左側の商店の敷地にあったものが移されたのだと思う。
 交差点から先、●左斜めにはいる道が旧道であるので曲がって行く。●入ると上り坂になって、ここが旧奈良梨の宿場筋であるという。奈良梨は鎌倉街道時代からの重要な宿場といわれ、戦国期に北条氏は平時に馬3匹、戦時に馬10匹を備え置くことを定めている。入って直ぐ右の防火水槽の脇に●大正5年の馬頭尊がある。   9:25

■奈良梨宿~能増
 旧道を緩やかに上る。右に万福寺、左に普賢寺があって、●道の両側に古い石垣があるあたりが奈良梨宿の中心だった所という。石垣のある切通しを過ぎると、高台に農家が続く。左右の土手のような所に石碑が散在していて、キョロキョロしてしまう。左に●年代がわからないが如意輪観音。その先に●明治34年の庚申塔が立つ。さらに行くと● 高さ3m近い大きな寛政5年(1793)の馬頭尊が下り坂の途中にある。
   坂を下りきり、水路に遮られるので水路に沿って曲がり、県道に合流する。合流して少し先右手の奥まった所に奇妙な丸い石造物が見える。●修験南光院開山の塚と伝わるという。
 その先以前鎌倉上道で通った時、●能増の鎌倉街道の跡が残るという案内板があった所に来たが、今回何故か案内板がなくなっている。単純にいたずらかそれとも史跡価値がなくなったから外したかわからないが、以前の案内板にはこう書いてある。奥に入ると鎌倉街道の跡が残っているといわれていて、入って行けばいいのかもしれないが、民家の敷地に入り込む恐れがあるみたいで、前回も今回もできなかった。   9:42

■能増~寄居町境
 その先右手に●多数の石仏や地蔵が並んでいる場所がある。通称「百万遍」といわれているが、阿弥陀堂があった場所という。
 また少し進み、「高見」に入る。●四津山神社入口という標柱が立ち、奥に●高見城のあった山が遠望できる。頂上に四津山神社が祀られている。   小川町と寄居町との境目の右手、●一里塚と思われる塚と庚申塔が立つ。  10:00

■寄居町境~今市
 街道はこの先●建材工場の先で消滅している。旧道は目の前の丘陵に向かって直線上に登っていたという。現在は進めないので県道を円弧状に迂回して進むことになる。坂を上がり終えて信号を左へ行くと、正面に●今市地蔵堂がある。地蔵堂は無住のようである。中に祀られている地蔵は●延命一体地蔵と呼ばれ、昔、鎌倉へ地蔵像を運ぶ途中、この地で動かなくなってしまったので、仕方がなくここに安置したとも伝えられる。 この先が●旧今市の宿場であり、真っ直ぐな道が続いている。今市宿は戦国時代から設置されていたようだが、江戸時代では川越、児玉往還の宿駅として賑わっていたという。  10:22

 ■今市~北柏田
 宿は真っ直ぐに1km程続く。左に高蔵寺がある。真っ直ぐな道が●左へ折れるあたりが今市宿の終わりにあたり、左から鎌倉街道上道が合流してきて、そのまま右へ抜けている。児玉街道は真っ直ぐ進む。この右角に●寛政2年の百万遍供養塔、天明2年の廻国塔などが並んでいる。 街道は左へ少し折れて「牟礼」に入る。この境目右手に●文化7年(1810)の庚申塔、その左に享保7年(1772)の庚申塔などがならんでいる。 ここから250m程で旧道は右へ入って行く。県道を迂回する道で、男衾小中学校の裏手を通り、●長山道と呼ばれるようだ。  10:45

 ■北柏田~赤浜
 「北柏田」交差点で県道と合流した旧道は吉野川橋を渡る。途中の三叉路の角に昭和の牛頭天王尊がある。道は赤浜に入り、進んで行くと、県道81号の手前左手の●火の見櫓の足元の所●馬頭尊や庚申塔など石仏群が並んでいるが、5基の内2基が倒れてしまったりしている。  県道に出て左折すると、すぐ右手に●出雲乃伊波比神社がある。ちょうどお祭りの準備らしく御神輿が出ている。神社の創建は不明だそうだが、名前からして古めかしく、古代の出雲族に関係あるのかも知れない。式内社との伝えもあるという。
 神社の前の通りに開けていたのが●赤浜宿である。赤浜には馬継ぎ場が置かれ、人足3人伝馬2頭が常備されていた。ここも今市宿と同じように真っ直ぐな道が600m位続いている。  11:06

 ■赤浜~花園橋
 曲がってから最初の信号を右に曲がり、荒川河原へ向かって坂を下りていく。●地光坂と呼ばれる。坂沿いの家並みは「横町」ともいわれるそうだが、右側は屋敷林が見えるばかりで家並みのある感じはしない。また右側の大久保家に椿の大木があり、徳川家光の弟、大納言忠長が甲府から高崎に送られる途中、当家に泊まり翌朝庭先の椿花の落ちるのを見て「明日は我が身かと、ひと粒の涙を流した」・・という椿とはどれだろうと探してみたが、案内もなく結局わからずじまい。
 坂を下りていくと荒川土手にぶつかるのだが、河原に灌木が繁茂して、水辺が見えず道を探して水辺に近づき、水面が見えた所あたりが●「赤浜の渡し」があった所と思う。草がぼうぼうでなんだかよくわからないが・・・・・・・
 この先●花園橋を渡るのだが、取り付き道路までかなりの迂回を強いられる。  11:35

■花園橋~国道140号
 橋を渡り最初の信号を左折する。その角に●川端の宝篋印塔」と呼ばれるお堂がある。中に●小さな宝筐印塔が2基納められている。左側に立派な説明板があるが、読んでもいまいちなので、帰ってからネットで調べた。・・・・この石塔は付近の金井家の井戸から出土したものだと伝えられていて、バラバラ状態の宝篋印塔部材を二つの石塔に積み上げたものという。残欠部は町教育委員会の発掘でも見つけることができなかっという。説明板ではこの塔の建立は延文3年(1359)新田氏の一族岩松氏によるとある。
 道は「川端道」と呼ばれる細道を通る。鎌倉上道は左手の荒川水面の近い所を通っていたようだ。やがて●右に折れて行くが、左手に●石仏群が固まって置いてあった。 右に折れた先に国道140号のバイパスに出る。ここから先は道は開発で消滅している。そこで適当に北上してしまったが、地図上では「アオイ化学」裏手の斜めの道が旧道の名残ではないかと思われる。   バイパスではない本来の●国道140号「旧秩父往還」にぶつかり左折する。国道は小前田宿通である。国道で車が多く宿場の感じはしないが、生け垣を備えた緑の濃い家が多く、風情のある通りである。旧家らしき家も何軒か確認できた。       12:00

■国道140号~小前田
  小前田宿通り右手に長善寺があるが、●参道脇に石仏などが沢山置いてある。この中に道標を兼ねた供養塔があるのだが、法事の車でワサワサしており落ち着かず見逃した。 小前田宿を抜ける頃、道は●二つに分岐する。ここを右手に入り西北方向へと進んでいく。200mも行くと●諏訪神社がある。文明年間(1489~)にこの一帯を支配していた花園城主藤田藤田掃部左衛門氏家が諏訪大社より分霊を勧請したのが始まりとされている   12:20

 ■小前田~原宿
 ●秩父鉄道の踏切を越える。左手に●ブロック塀の方に向いた庚申塔など4基が置いてある。調査書に云う、座布団の上の庚申塔とはこれを指すのだろうか。 そのまま進むと県道62号と交差する。「原宿」交差点である。この交差点の南西角に道標があるというので探したがわからないのでそのまま通過した。後で調べたら東北角の方へ移されていた。
 原宿を過ぎると、南から鎌倉街道上道が合流してきて、●児玉までほとんど上道と同じ道筋をたどって行く。児玉までの史跡の類は上道の時に訪れているので、時間の関係で通過していくことにした。 右手に●八幡神社がある。入口に鎌倉街道上道の看板が立てられている。    12:47

 ■原宿~猪俣
 先に進むと再び寄居町に入る。その先左手に●高さ2.5mの天保の道標には「脇往還川越道用土邑」と刻まれ、大黒天の台座に「右深谷 左八幡山」 とあり、外には庚申塔、馬頭尊などが置かれている。
 その先左手の民家の庭先に●馬頭尊など3基の石造物が並んでいる。 八高線のその名も鎌倉街道という踏切を渡る。 右手の公会堂敷地脇に寄居町と合併するまでの●用土村の道路元標がある。やがて「美里町猪俣」に入って●車も少なくなってきた県道を進む。左手奥に「猪俣」という地名があるが、武蔵七党の一つ「猪俣氏」の本拠だった所である。保元の乱や平治の乱、一ノ谷の戦いで活躍した猪俣小平六範綱と岡部六弥太忠澄が有名。猪俣小平六範綱の墓は高台院にある。上道の時は訪れたのだが、遠いので今回はパス。   13:25

 ■猪俣~雷電神社
 右手に●普門寺。参道が 杉並木で気分がいい。天神橋交差点の所に● 横関酒造がある。 「天仁」というお酒を造る。交差点のコンビニの裏を通るのが旧道である。上街道と同じで2度目である。●突き当たり正面と右奥に大きな●●庚申塔が見える。2基とも寛政12年(1800)のもの 。  右奥の庚申塔の所を左に入る。  13:45

 ■雷電神社~
 ゆるい坂を上がり、左手に保育園があり、その右斜めに●雷電神社がある。●社殿は覆い屋の中に納めてある。神社は征夷大将軍坂上田村麻呂がこの地に至った時、激しい雷に遭遇し、これを鎮めるためにここのと外に2社祀ったことに始まると伝えられている。
 今度は緩やかに坂を下って行くと、●二俣の所に鎌倉街道は右という案内標が立っているので、それに従い右へ進んで行く。入るとまた二俣になるのでここは左へ入って行く。先ほどの進んで来た道に合流するが、合流点に●大きな天保14年の馬頭観音、大正9年の庚申塔、右側に二十二夜塔が立つ。 ここから旧大仏村の宿通に入るようだ。 13:55

   ~駒衣西
 
旧大仏村の宿通といっても普通の通りなので普通に通過してしまった。 やがて●4差路にあたるが、ここが宿のはずれだそうだ。角に●道標が2基並んでいる 。左側には  「六道能化地蔵尊」と刻まれ、下部に「右 西 八幡山 北 本庄 大沸村庵  左 東 江戸 南 十二天 秩父 」とあり、延享2年(1745)のもの。右側は摩滅してよくわからないが、明治のもので「→駒衣古郡東児玉村ヲ経テ本庄駅(一二000米」などとあるらしい。
 ゆるく坂を下り、駒衣まで来たらすぐ前の以前は砂利道であったが、今回は舗装してある細い裏道へ進む。入口に●多数の石造物が林立している。そのまま進むとやがて●四つ角に突きあたる。●鎌倉街道の案内板が立っているので、左へ曲がる。広木の宿通である。  14:15

 ■駒井西~広木
 広木の通りは弓状に曲がった通りで、人気もなくあまり宿だった感じは見受けられない。真ん中辺りに志戸川が流れ、川沿いに南に進むと●曝井の遺跡がある。今回は寄らなかったが、上道の時に取った写真を再掲してみる。 曝井(さらしい)は調布用の織布をさらした井戸跡で、かっては水が湧いていたのだろうが、昭和45年の河川改修工事で水脈を断たれてしまった。今は水気もなく井戸らしき跡だけが残る。その先に ●伝大伴部真足女の遺跡 (でんおおともべのまたりめ)というのがある。周囲90m程の範囲を防人の檜前舎人石前(ひのくまのとねりいわさき)の館跡と称する。真足女は檜前舎人石前の妻であり、防人として九州に赴く夫に歌を詠んでいる。 志戸川の先右手に●みか神社参道が北方へ延び、石灯籠が立っている。 「みか」の文字はパソコンで表示するのは不可能。北方の国道254の北側に●社殿がある。神社は式内社で、創建は古い。 「みか」とは酒造用の大きな甕(かめ)で、当社に「みか」が保存されているそうだ。  14:25

 ■広木~小山川
 道はまもなく国道に合流し、しばらくすると右手の畑の間に●広木の古墳群が小さいながら沢山のこんもりとした古墳群が見える。(以前の写真)    工場の前に●広木の一里塚跡がある。ここを左折して行くのが往還の道筋で、陣街道とも呼ばれる。上道とも重なっている。入ると右側の広大な工場はおなじみの「ガリガリ君」を製造する赤城乳業。 進んで行くと小川が見え、以前は橋が工事中で迂回したのだけど今回は渡ることができ、すぐ右折して小山川にぶつかった。旧道らしき辺りに●えん堤があり、ここを渡った。水がわずかに流れているのだが靴をぬらすほどでもなく渡れた。  14:53

 ■小山川~連雀町
 ●本庄児玉病院脇の旧道を通って国道254へ合流し児玉町内へ向かう。 右手に●龍體稲荷神社がある。社殿脇に●寛政12年(1800)の庚申塔がある。もとは街道沿いにあったものを移転したという。この神社の左脇を北上する細い道が鎌倉街道上道である。
 その先右手に玉蓮寺参道が延びている。この寺は上道の際一度来ている。隣に●八幡神社がある。●享保11年(1726)の青銅造鳥居が県の文化財である。外にも色々文化財はあるのだが、玉蓮寺と合わせて次回ゆっくり見て回ろうと思う。    15:22

 ■連雀町~児玉駅
 神社の境内の端に●高札場が再現されている。町の文化財というので本物であろうか。その先仲町信号を過ぎると●夏祭りの最中で大変な人だかり。ゆっくり歩けるわけもなく、児玉駅入口で本日の歩きを終了し●児玉駅から帰宅の途についた。   15:36   次回はここから始め、群馬藤岡まで行きゴールとしたい。

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