西近江路を歩く 1 
       (大津市~海津町)
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 1 札の辻-北国橋-唐﨑-下阪本-比叡辻-苗鹿-雄琴温泉-衣川-堅田まで       21.3km

  西近江路
 
   西近江路(にしおうみじ)は、近江国(滋賀県)から越前国(福井県)へ通じる北陸道を指し、交易上重要な街道であった。人々の往来が多いだけでなく、壬申の乱、藤原仲麻呂の乱、源平合戦、織田信長の朝倉攻めなどでは大軍がこの道を移動している。また、平安時代の遣渤海使もこの道を通 って都へ向っていた。
 近世の北陸道は西近江路、北国海道、北国道 などとも呼ばれた。
 起点は大津の札の辻であり、琵琶湖岸を北上し  海津町へ向い、海津から七里半越えを経て敦賀へと通じていた。
  宿場は衣川(堅田)、今宿(志賀)、木戸、北小松、河原市(新旭)、今津、海津の7宿。距離は海津町まで68km程度である。
 
参考資料
 歴史の道調査報告書 西近江路 (滋賀県教育委員会)   
 

■札の辻~小関越え ※ 写真をクリックすると拡大します
 2013年1月12日
 今回は琵琶湖西岸を北上する西近江路を歩きます。実は一時居住している坂本のアパートからすぐ近くで、散歩道だったのだけど、一度きちんと歩いて見たいと思いました。
 西近江路は東海道大津宿の札の辻から始まる。京町1丁目交差点が●札の辻であって、旧東海道は東から西進してきて、ここにぶつかる。そして左折して逢坂の関へ向うわけ。西近江路はここを直進して、三井寺の方向へ向っている。昔は高札場があったので札の辻というわけだが、今は左手に●大津市道路元標がある。
 札の辻交差点から西へ進んでいく。左手に町屋風な古い店が見える。鮒寿司専門店の●阪本屋鮒寿司店。江戸時代、膳所藩の御用料亭を勤めていたという老舗である。始めて鮒ずしの商品化に取り組み、明治2年に鮒寿司専門店として開業したという。右手に西友があり、道が少し左に曲っている。左手は光西寺など寺が多い。
 道は突き当たりを右に曲がる。すぐ左手に細い道が続いており、東海道「逢坂の関越」の間道、小関越の入口にあたる。小関越に入って●200mも進んで行くと、左手に●小関越えの道標が立っている。「右 小関越 三条・五条・いまく満 京道」などと刻まれている。  10:25

 ■小関越え~北国橋
 旧道に戻って、次の路地を左にいくと左手に「大津絵」の店がある。大津絵は大津宿の名物であり、最初は仏画として描かれ、次第に風俗的、風刺的な絵になっていった。
 突き当りは朱色の楼門が鮮やかな●長等神杜。長等神杜は三井寺の鎮守社である。創建は天智天皇の時代、須佐之御男大神を祀る。
 街道にもどり、北へ向う。このあたり旧町名は北国町で北国海道の趣を感じる町名であったが、今は「長等1~3丁目」で味気ない。 北国橋が見える手前で、左折して行くと「長等小」前に●三尾神社がある。三尾神社は長等山の地主神で、祭神は伊弉諾尊。尊は常に三つの腰帯をつけており、その色は赤・白・黒その形は三つの尾をひくのに似ていたので三尾明神と名づけられたという。
 道は「北国橋」で琵琶湖疎水をわたる。疎水は琵琶湖の水を京都へ送る為に明治18年より工事が開始された。北国橋よりすぐ東側、三保ヶ崎の取水点から取水し、北国橋の西側●大津関門を経て、京都へ向っている。

  ■北国橋~観音寺町
 北国橋を渡ったら、京阪線の踏切手前を右折する。この先で京阪線の踏切を渡り、やや複雑な六差路の●観音寺西交差点へ入る。すぐ左の遊歩道は「大津絵の道」といい、以前「江若鉄道」が通っていた軌道跡である。角に●文政10年の道標が建っていて、「左 三井寺観音道」「右 山王唐崎道」と刻まれている。左は今まで通って来た、大門通りのことで、西近江路は右がこれからすすむ旧道である。 「大津絵の道」の一本北の道を進み、観音寺の静かな町並みに入る。町名は江戸時代前期琵琶湖の船奉行を勤めた、観音寺家の屋敷があったことに由来する。少し行くと●道の食違いが見られる。街道によくある「鍵の手」のようである。熊野川を越えると渡ると●尾花川の町並。このあたり古い家も少し見られた。右側に「琵琶湖競艇場」、東側は「皇子山運動公園」となっている。

  ■観音寺町~唐﨑神社
 やがて●国道161号線に合流する。ここからしばらく国道を歩くが、旧道の旧蹟を伝えるものは何もない。
 国道は●陸上自衛隊大津駐屯地の所で左へ曲っていき、旧道はグラウンド内に消えてしまっている。
 自衛隊を右に見ながら進むと●「唐崎1丁目」交差点にやって来る。旧道は右に入って行き、少し先の電柱の脇に●天保7年の白鬚神社の上部が欠けた道標がある。

 ■唐﨑神社~四谷交差点
 旧道を入っていくと●唐崎神社がある。唐﨑の名前は韓崎、辛崎、可楽崎などの字をあてる場合もあるが、「万葉集」にもあらわれる大津京時代からの地名である。古くは、湖上交通の湊と考えられ、「枕草子」に湖畔の名勝として紹介されている。
 境内には近江八景の一つ「唐崎の夜雨」で知られる●唐崎の松がある。古くから多くの歌人に好まれていた。現在の松は3代目の松で、大正10年に枯死した2代目の松の実生木を移植したもので樹齢は150年から200年と推定されているという。
 神社を出て国道に出ると、すぐ右手が●唐﨑苑という公園。昭和10年にオランダ人が別荘を建てた跡。

 ■四谷交差点~坂本城跡
 国道に出て500m程で●四ッ谷交差点。旧道は左の細い方の道へ入って行く。町の名は「下阪本」で、ここから旧街道の趣の残る町並が続いている。道の両側に虫籠窓や格子を備えた民家が点在し、歩くのに気持が良い。
 左手に●志津若宮神社がある。志津の名前が付くことから、中世の下阪本にあった湊の一つ「志津」がこのあたりに比定されるという。 天井川となっている四ツ谷川を越え先に進む。下坂本は1丁目から6丁目まであり、旧町名はよくわからないが、ここも味気ない町名と思う。●町並が続くが、道幅があちこちで違っており、開発の都合だろうか。人出もあまりない静かな道が続く。

 ■坂本城跡~両社の辻
 自治会館のある丁字路の右折すると、前方に●赤い山王鳥居が立っている。4月の日吉大社の山王祭で、7基の御輿が船渡御に出発する場所で「七本柳」とよばれる。祭りではここから御輿を乗せた船が出発し、唐崎の沖合まで渡御し比叡辻の若宮神社裏の船着き場まで運ばれるて行く。 少し先に右手に●坂本城跡の石碑がある。右折して国道を渡った所が●坂本城址公園である。公園内に明智光秀の石像が立っている。元亀2年(1571)の比叡山焼き討ち後、光秀はここに坂本城を築くことを信長から命じられた。山門の監視とや交通路の確保が目的であったといわれている。天正14年(1586)拠点が大津城に移されて15年ほどで廃城となった。

  ★両社の辻
 城址の碑から250m進むと●「両杜の辻」という四つ角に来る。この先の道路幅は3分の2位に狭まってしまっている。左へ入ると松の馬場を経て比叡山無動寺へ通じている。両社の辻の名前は左折すると道を挟んで2つの神社が鎮座していることによる。
 左へは行って行くと、右手にあるのが●酒井神社で、左にあるのが両社神社という。この二社はかって一社であったが、信長の焼討ち後、元和6年(1620)広島藩主浅野長晟が再建された時、道を挟んで二社に別れた。一間社流造、檜皮葺でほぼ共通した造になっている。

 ■両社の辻~比叡辻
 下阪本の通りには●白壁で虫籠窓を持ち、格子のある家があちこち残っていて、好ましく感じる。藤ノ木川手前、左手に●幸神神社がある。鳥居の前の石灯籠は江戸時代の鉱物学者「木内石亭」が寄進したものという。
 藤ノ木川を渡り、大宮川を渡った先が●比叡辻という。左へ行くと日吉大社の表参道に通じ、比叡山の宗務庁や比叡山高校がある坂本の中心地へ向うことができる。中世には、このあたりは馬借の集住地でかなりのにぎわいをみせた交通の要衝だった所。

 ■比叡辻~聖衆来迎寺
 辻の東側に●若宮神社が建っている。山王祭では七本柳を出発し、唐崎までの船渡御を終えた神輿が若宮神社を下船場として、真直ぐに日吉大社へ還御する。
 先に進むと右に「カネカ」の工場が見えてくる。左手に「聖衆来迎寺」へ石碑が立ち、真っ直ぐ寺への参道が続いている。聖衆来迎寺は延暦9年(790)に最澄が開いたという古刹で、ここは本堂より隣の●客殿の方が重要文化財で、寛永16年(1639)の建築で、柿葺の江戸初期の代表的な客殿となっている。
 境内に●森可成の墓がある。森可成は織田氏の家臣。宇佐山城主の時、浅井、朝倉、比叡山僧兵の連合軍との戦いで討死している。比叡山焼討ちの際に可成の墓所のある聖衆来迎寺だけは手出しをされなかったという説がある。

  ■聖衆来迎寺~苗鹿(のうか)
 道は●国道に合流し、しばらく国道を歩く。正面の小高い岡は「木の岡古墳」と呼ばれている。頂上にある本塚古墳は弘文天皇の母である「伊賀采女宅子娘」の墓と云われ、陵墓参考地となっている。
 ●苗鹿(のうか)3丁目信号で左の旧道に入る。旧道入口に●堂々とした「苗鹿の常夜燈」がある。弘化4年(1847)のもので、近江路沿いの常夜燈としては最大規模を誇る。
 旧道に入ってすぐく右手に●那波加神社がある。天智天皇の時代の創建で、祭神は天太玉命。老翁となった天太玉命の農事を鹿が助け、苗(稲)を鹿が背負って運んだというので「苗鹿」という地名になったという。 道の左手に別宮の「荒魂神社」がある。

 ■苗鹿~雄琴温泉
 ●苗鹿の町並。細い旧道が続き、やがて●雄琴温泉の旅館群が見えてくる。国道に一度合流する。左手に観光交流センターがあるのでしばし休憩した。 またすぐ左手の旧道へ入り、しばらく国道に並行して進む。雄琴温泉は1200年前に最澄が開いたという歴史を持つ温泉であるが、一時期いわゆる特殊温泉で有名になってしまい、イメージ離れをまねいてしまった。近年は旅館名の改名やサービスの改善が進んでいるようで、その方面の変なイメージは全く無いようだ。
 左手に「雄琴神社」への看板が立っている所から100m先で、●右へ細い道を入って行く。真っ直ぐ進む道は後世に開かれたものという。

 ■雄琴温泉~衣川
 右へ曲ると正面に地蔵堂が建っている。ここは●一里塚の跡といわれる。
 ここを左へ曲り、県道を横断して、雄琴川を渡る。真っ直ぐ行くと●国道に合流する。ここからしばらく国道を歩くと「国道衣川」や「衣川」という表示の信号が目に付くようになる。国道を夾んで東側が「堅田」、西側が「衣川」という町名になっている。江戸時代、衣川は大津に続く西近江路の宿場であった。今では宿場の面影は全く無く、わずかに左手にある●円成寺が真宗中興の祖、蓮如上人の足跡を伝えるだけ。

 ■衣川~浮御堂
 天神川橋を渡り仰木口交差点で旧道は左に入っていくのだが、ここはしばらく右折して、浮御堂を見に行くことにした。
 「堅田高校」、「東洋紡研究所」を左右に見ながら真っ直ぐ進んでいく。左手に町家造りの●「湖族の郷資料館」がある。
 堅田は琵琶湖の最狭部を位置して、琵琶湖を利用した水運の中心地として栄えた地であった、下鴨神社に魚類を献上する役割を担う見返りに、漁業権や通行権などの湖上特権を獲得してから、水路権を握った堅田衆と呼ばれた人々によって、琵琶湖最大の自治都市を築いていく。
 左の奥にある●本福寺は蓮如ゆかりの寺である。寛正6年(1465)に起きた比叡山の衆徒による「山科本願寺」襲撃事件(寛正の法難)により本願寺を追われた蓮如は堅田湖族を頼ってこの寺に3年身を寄せ再起を計ることになったという。
 先に進むと●浮御堂が湖畔に浮んで建っている。満月寺という寺の仏堂で、平安時代、恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願して建立したという。初代の浮御堂は室戸台風で倒壊し、現在のは昭和12年の再建である。
 本福寺の隣の「光徳寺」は「堅田源兵衛の首」にまつわる寺である、北方の旧堅田港に道標と三島由紀夫文学碑があり、天然図画亭があったり・・・とこのあたりさすがに歴史のある地域で、歩いて見ると結構歴史を感じて興味の尽きない思いがした。

 ■浮御堂~堅田駅
  国道の「仰木口」交差点までゆるゆると戻って来て、交差点を左に折れる。仰木道信号の先に●榎木の高木と白髪大明神道標があって、旧道は手前の細い道を奥に入っていく。榎木は一里塚の役割を果していたともいう。道標は天保9年のもの。
 ●堅田駅前の道をまっすぐ過ぎて行くと●堅田駅に到着した。西近江路の旅の1回目はここで終りとしたい。