京街道歩き旅   5 守口宿から大坂高麗橋まで 歩行地図
   守口一里塚-盛泉寺-本町-京阪本通-今市-千林-高殿-野江-都島-京橋-天神-高麗橋   9.4km   
 

 57 守口宿(東海道57次)
 守口宿は江戸から57番目の宿場で、秀吉が造った文禄堤の上に造られた。南北約十町(1km)、東西は約1町(109m)の細長い宿である。大坂から2里の近距離にあったため旅人の宿泊は少なく、さらに時代が下がるとともに淀川舟運が発展し、交通量は少なくなってしまった。しかし、米・菜種・綿花などの農産物の集散地として重要な機能をはた商業活動は活発だった。宿場通りには今でも伝統的は商家なども所々に残されていて、当時の面影をしのぶことができる。また豊臣秀吉が文禄6年(1569)に淀川左岸を修築して作ったいわゆる文禄堤の京街道は、その多くは消滅してしまったが、八島交差点から義天寺まで1kmほどに往時の面影が残っている。
本陣1、脇本陣0  旅籠27  

1 追分~伏見宿  2 伏見宿~淀宿  3 淀宿~枚方宿  4 枚方宿~守口宿

 2010年1月31日 
 浜町~八島
 
守口の一里塚がある所は守口宿上見附というようで、大名が宿泊や通過する時は、問屋や庄屋などの村役人が、麻上下などを着てこの一里塚まで送迎した。
 一里塚の先の「浜町」交差点が国道1号線で、右折すると大阪城方面へ通じている。このまま横断するが、ここは昔、瓶橋という橋が架かっていたようで、旧親柱が左手に残っている
11:52

 浜町信号交差点を横断し、浜町1丁目を進むと左手に盛泉寺がある。慶長11年(1606)に教如上人が開基した。
 本堂は1835年(天保6)に再建されたもの。明治元年大阪行幸の際の「内侍所奉安所阯」として史蹟となっている。この時の行幸は幻の大阪遷都ともいわれるもので、三種の神器の内の、八咫の鏡を持参したといわれる。
交差点を越えた左側は難宗寺(なんしゅうじ) である。 難宗寺は、蓮如上人が開創したと伝えられる寺で、角に石碑が4つ建っている。「左京 すぐ京」、「すぐ守口街道」などと刻まれている。山門左の3階建ては太鼓楼で時間を知らせる為のもののよう。 守口も浄土真宗の盛んな地域で、盛泉寺は「東の御坊」、難宗寺は「西の御坊」とも呼ばれる。

 八島~京阪本通
 お寺を出ると、竜田通りを西に向かう。 この通りでは市が開かれ、道幅も15mもあった。問屋場や本陣があった所で、いわば守口宿の心臓部であったためといわれる。 道の左側の焼肉屋の駐輪場が守口宿本陣跡である。
 八島交差点で、すぐ左側の斜めの道に入り、ゆるい坂道を上がって行く。この先が「文禄堤」の上に存在した守口宿の跡が続いている。文禄堤は豊臣秀吉が文禄5年(1596)、毛利輝元、小早川隆景などに淀川左岸に堤を築かせたもので、京街道のうち27kmにも及ぶが、八島交差点からこの先の義天寺までの約1kmの間だけ残っている

  。この通りには、宿場跡の情緒がする連子格子、虫籠窓、卯建ある家が残っていて、歩いていて気持が良い。
 道は回りより数段高くなって、左側の「京阪 守口駅」の高架よりいくらか低いくらいの不思議な光景となっていた。
 守口宿が「文禄堤」の上に存在するとは、市街地の真ん中にある現在では想像もつかないが、淀川は度重なる氾らんを繰り返して大改修が行われ、西の彼方を流れていて、現在の姿に至っている。
 義天寺の角を右折して急坂を下りると宿の終りとなる。

 京阪本通~関目高殿
 左折していくと「日吉公園」があるが、この先は又「向陽書房」の本と「イラストマップ」では方向が食違っていて、「本」では国道1号に合流して、左折したら「今市」交差点まで真っ直ぐ行っている。しかしマップでは国道の一本南を行って、「守居神社」脇を通り、右折して国道にぶつかっている。
 そこで「本」のコースを採用して、国道に出て真っ直ぐ「今市」交差点へ向った。
 国道には「京かいどう」の石碑が建つ。
 「今市」交差点では右手を行き、三角形の2辺をぐるっと行き、「今市1北」で国道を渡り、真っ直ぐ南下して行く。すると●千林)商店街のアーケードが見えて来る。商店街の中は旧道ではないので入口の前を右手に行くことになる。

 関目高殿~野江
関目5丁目交差点にさしかかる。このあたりから先は「七曲り街道」といって、複雑に曲がりくねって造られている。秀吉が通う街道を開く際に、軍備防衛上の必要から、曲りくねって造らせたといわれている。特に「関目高殿駅」付近にその跡が残っている。
 交差点を左折して国道に入り、すぐ右(西)に入る細い道を行く。右回りに行くと「都島通」に突き当たる。横断して細道へ入っていく。再び「都島通」へ出て、行くと歩道の正面に「旭国道筋商店街」という看板が架かる商店街が見えてきた。

 野江~京橋
 「おおさか東線」のガードをくぐり、右斜めに入る道を行く。入口に「京街道」の石柱があってわかりやすい。「京橋口から2.3km」と彫ってある。あと1時間位でゴールになるので、いささか足回りが早くなってきた。このあたりも「七曲り」になって左右に曲っている。
 その先、「城北筋」と呼ばれる大通りに突き当たるので左折して「野江4」交差点を右折すると、また「都島通」へ出た。
 「野江3西」信号あたりを左折して進むと、右手榎並地蔵の所に京街道の絵図が貼られていた。その先がリブストリート(京橋中央)と名前が付いたアーケードの商店街に入って行く。

 ドーム型の広場に出たが、ここは右手へ行き、少し歩くとまた小さいドームの下に出た正面のガードには「京街道」の文字が書いてあった。
 この先は「京阪京橋駅」とJR」京橋駅」が交差する、結構な繁華街で、人出が大変多い。旧道は「京阪京橋駅」の北側というので、駅の北側を通った。このあたりに道標があるらしいが、放置自転車が多くてわからず、人に聞いても関心ないだろうと思って、そのままにしておいた。

  京橋~天満橋
 その先を全く道がわからなくなり、一応「片町」の信号で左折して京阪のガードをくぐってから、京阪の左側を線路に沿って歩いた。 突き当りを左折すると「寝屋川東詰」に到着した
 交差点を渡ると、その先の歩道橋の下に、「京橋川魚市場跡碑」が建っている。  市場の起源は石山本願寺の時期に設けられた鮒市場とされ、その後幕府に川魚を独占的に扱うことを公認された。
 京橋を渡る。秀吉時代の京街道はここが起点であった。
 ちょうど「大阪女子マラソンン大会」の日で、雨の中、選手が走っているのをしばし見物。

 日本経済新聞社ビルの裏を通り、その後は大阪歯科大学の裏あたりをジグサグに行くのが旧道らしいのだが、マラソン大会の規制で自由に歩けず、「土佐堀通」を真っ直ぐ進んだ。大阪歯科大学の角に「豊臣時代大坂城三の丸北端の石垣」が移築復元されている
 「天満橋交差点」を渡り、ちょっと行った左手の永田屋昆布本店が八軒家船着場の跡になる。大阪と京都を結ぶ淀川往来の船の発着場で、八軒の船宿があったことから八軒家と呼ばれている。当時は上りが1日、下りが半日で往来した。

 天満橋~高麗橋
 北浜東2信号
のある丁字路角に「熊野かいどう」と書かれた石碑があり、熊野へ至る街道がここから始っている。いつか熊野街道を歩く日も来るのだろうと思う。何年か前にちょっとだけ中辺路を歩いたのだけども
 さらに土佐堀通を西へ進み、天神橋」交差点にやって来る。交差点右手には、大坂の天満橋、灘波橋と並ぶ3大橋の1つで、土佐堀川と堂島川にかかる天神橋が見えた。橋の下は「中之島公園」になっている。

 その先「今橋」交差点をを左折して高麗橋に向かう。次の信号の所が「高麗橋」である。江戸時代幕府が管理する公儀橋の中でも格式が高く、高麗橋は常夜燈の付いた風格ある造りとなっている。西詰めには高札場があり、江戸日本場と同じく、西国諸国への里程元標となり、石碑が建っている。江戸時代はここが京街道の終点となった。
 これで東海道は日本橋から京都三条大橋までの53次と、大名行列が歩いた、大阪までの57次をすべて終了したことになるわけである。このコースを1泊2日、実質15時間程度で歩いたわけだけど、ゆっくり見て回る時間がなかった。2泊3日ぐらいが良いのではないかと思う。雨がひどくなり早々に近くの「北浜駅」から、JR「新大阪」へ出て、新幹線で夕方東京へ到着した。

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