日光東街道歩き旅 4
        
(境車庫から結城駅まで)
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 境書庫-谷貝-山田十字路-仁連-諸川-七五三場-武井-田間-竹ノ谷-結城駅    21.7km
 

 2013年12月22日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■堺町車庫~谷貝
 第4日目は●境車庫前から。 しばらくバス便がないので今日は結城駅まで20km程度歩く予定。
 旧道を真っ直ぐ進み、県道と合流する手前に●完全に風化した石仏らしきものがある。感じからして庚申塔で青色金剛像であろうか。 県道に合流して●谷貝に入る。谷貝宿があった所である。枡形らしき痕跡もないのでどこから宿場が始まっているのか全くわからなかった。宿場らしき雰囲気は全く無い。   10:55

 ★谷貝宿
 ●延命地蔵堂があるあたりが宿場の中心らしいと思う。お堂の中には「延命地蔵尊」が祀られている。お堂を左折して行く。
 左手に●千手観音堂があって、こちらには「千手観音像」が祀られている。路地の奥には●遍照寺がある。天台宗の寺で猿島板東三十三札所の10番目にあたるようが、本尊阿弥陀如来は鎌倉時代の作と云われ、町指定の文化財である。もっとも見ることはできない。 11:00 

 
  谷貝宿の本陣は「初見家」が勤めていたようで、谷貝には初見姓が多い。●初見美容室、初見電気、初見自動車販売、初見肥料店など結構目に付く。参道入り口の左斜めの所に●欅の大樹と大きな記念石碑がそびえている。石碑には「初見関吉翁事蹟・・・・・」と書いてあり、地域経済の発展に尽くした人物であったということがわかる。初見家は地元の大地主だったらしい
 その先の県道が左に曲がるところに●黒板塀で延々と囲った屋敷が現れた。ここも初見姓「初見肥料店」とあった。 11:17

 
 ■谷貝~山田十字路
 少し行った右手の鋼材屋の裏手に●香取神社がある、ここの常夜燈の柱にも「初見家」の銘が見られた。
 東山田に入ってしばら行くと●大きな長屋門のあるひいらぎ幼稚園がある。堂々とした武家屋敷のようで幼稚園とは面白い。「乱太郎」のキャラクターが並んでいるのが武家屋敷らしいところ。
 ひいらぎ幼稚園の県道を夾んだ左斜めに●大日寺がある。真言宗の寺で本尊は大日如来。   11:55

 ■山田十字路~仁連
 ●山田十字路で県道56号と交差する。ここからはバス便があり、古河駅に出られるようだ。この先からはバス便がなくて、結城駅まで歩いてしまわないといけない。
 交差点を過ぎたすぐ角、右手に●大きな石碑がブロック塀に隠れるように立っている。歌碑のようで、表面には「筑波嶺の男女の 流れ 千代かけて 渡し結ばむ 縁のかけ橋」と刻まれている。建立の由来はよくわからない。
 その先 左手に立派な●長屋門を構える農家がある。この先あちこちに大きな長屋門が見られた。さすが日光の脇街道という感じ。右手にも長い塀を巡らせた民家があって、けやきだろうか大木が聳えていた。   12:10

 ■仁連宿
 街道は10分程で直角に右折して●仁連の旧宿場に入っていく。仁連宿は東街道の宿場であって、宿駅の成立は、正保4年(1647)頃と云われ、本陣は鈴木家が務め、名主・問屋も兼ねていた。脇本陣はなかった。
 街道をはさんで左に●妙厳寺、右に●東漸寺がある。このあたりが宿の中心であったという。
 すぐ先左手に塀で囲まれた奥に●鈴木本陣跡がひっそりと建っていた。宿場は500m位で左へ曲がり、県道を北上して行く。次の諸川宿までは特に見るべきものはないので、ひたすら歩く。  12:30

 ■仁連~諸川
 20分位歩くと、諸川小学校の所でわずかに右折しており、枡形の痕跡かもというところ。諸川宿に入ってきたのだろうとは思うけど、●諸川交差点へやって来た。交差点の先、左手に●向龍寺がある。向龍寺は時宗のお寺で境内には●室町時代の板石塔婆が多数残されていた。 向龍寺を過ぎると、今までとは大違いで古い家並みが続いている。  13:08

 ★諸川宿
 ●諸川は非常に古い町並みが良く残っている感じで、旧宿場の雰囲気を良く感じられる場所になっている。右手●染谷商店は米穀、肥料を扱う店で、大正7年の創業。黒漆喰壁の重厚な蔵店である。
 続いて、左手奥まったところにある●中村家が諸川宿本陣を勤めていた所。普通の建物で本陣の面影は留めていない。
 左手の「小林藤兵衛商店」の看板が掛かっている長屋門を備える屋敷が●脇本陣の小林家である。  13:15

 小林家の道向かいの屋根に「醤油」の看板が架かる●大橋醤油店は江戸末期創業の老舗で、裏手に昔ながらの工場が広がっていた。
小林家の横の●三和諸川郵便局も蔵造りである。
 その右隣にも●薬医門に長い塀をめぐらせた屋敷がある。今までの東街道の中の宿場では諸川の宿場が一番、昔の面影を残しているように思った。     13:18

 ■諸川~七五三場
 先に進んで、西仁連川に架かる「宝来橋」手前右に少しばかり旧道が残っている。右手に●大きな記念碑と大洪水位石標が立っている。 川にぶつかり、左折して宝来橋を渡ると結城市に入った。橋を渡ると●七五三場(しめば)集落である。七五三と書いて「しめば」とはとても読めるような名前ではないと思う。相当な珍名。 注連縄(しめなわ)に由来する名前らしいが、なぜ七五三と書くんだろうか。 右手に●馬頭観音の石碑がある。半分に折れていて繋いであり、表面も摩滅してほとんど読めない。  13:30

 ■七五三場~武井
 七五三場立派な門塀を備えたり、蔵を備えた建物が目に付いた。公民館のあるバス停脇に●3基の石碑がならんでいる。右は七五三村女人講中による延命観世音で、中央は平成11年に再建されたものだが、元は寛政6年(1794)建立の十九夜供養塔。左の大きな石碑は不明。
 街道は南茂呂で県道124号と交差する。少し先の左手道端に●二基の石碑があったが、摩滅して良く読めず。
 北茂呂車庫には廃線になったバス停が沢山置いてあった。どんどん進み、右手にしもふさ東部CCがある。●「大戦防」交差点で県道54号を横切る。「大戦防」とはすごい名前だが、昔は「台仙坊」「大仙坊」などと書かれていたものらしい。交差点に入ると旧「武井宿」となる。 14:25

 ■武井宿
 ●武井集落に入って行くが家並みはごく普通。ここもどこから宿が始まるのかよくわからず、宿の面影は見当たらない。「武井集落田園都市センター」の標識がかかる一角に●地蔵、十九夜塔が髙屋で囲まれてある。路地を入って行くと結城百選の標柱が立ち、旧泰平寺墓地に戊辰戦争で戦死した●二人の官軍兵士の墓がある。明治元年官軍と大鳥圭介の旧幕府軍が戦った時のもの。 14:45

  官軍の墓の奥に立派な墓が建っていて、右側が●問屋を勤めたという「斉藤家」の先祖代々の墓。その左隣が●本陣を勤めた武井家の墓●武井家宅は公民館の道向かいで長いブロック塀が廻らされた広い屋敷という。事前に予習しとかないと全くわからない普通の家であった。

 ■武井~田間
 本陣跡の少し先の左手に●大きな長屋門を備える家がある。問屋を勤めた斎藤家といわれる。
 この先結城駅まで県道を行くだけになるのでここで寄り道をしておくことにした。右手の「城西観光」の所を左へ折れて、すぐ右に折れていくと●大日如来堂が見える。ここの前の道が旧鎌倉街道だったということだ。案内看板も立っているとのことだったので探してみたが、結局わからなかった。お堂のの裏の畑の間を抜けて北へ進むと、県道の一本西側を●旧鎌倉街道が続いている。
  15:20

 ■田間~竹ノ谷
 直進して行くと、左手奥に神社が見えたので寄ってみた。●三蔵神社という神社である。扉が青く塗られているのだ特徴である。
 また鎌倉街道に戻って500mばかり北上すると、突き当たりになり右折して県道に合流した。
 それからどんどん県道を進む。史跡、旧蹟の類は見当たらない。●竹ノ谷交差点で県道292号を横切る。右手角に●堂々とした長屋門がある。相当な規模を誇っていて、かなりの旧家、名家でないとこれだけの規模の門は作れないだろうと思うけど、なんの説明もないので由来はわからなかった。私宅みたいなのでちょっと寄るわけにもいかない。    15:55

 ■竹ノ谷~結城駅
 城南小北交差点で国道50号を横切り、吉田用水沿いを結城駅へ向かう。旧道は●交差点からすぐ先で県道右手細い方の道へ入って行く。大橋町交差点を過ぎ、●JR水戸線の踏切手前まで来た。このあたりから結城宿が始まっているのかもしれない。薄暗くなってきたので、本日の歩きもそろそろ終わりにしようと思って、●結城駅南口から東北線「小山」経由で帰宅した。結城宿めぐりは次回にしてみたい。  16:40

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