日光東街道歩き旅 5
        
(結城駅から石橋駅まで)
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 結城駅-本町-安穏寺-北飯田-仁良川-薬師寺跡-多功-石橋-日光街道合流地点    19.7km
 

 2014年1月12日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■結城駅~称名寺
 2014年の最初の歩きは日光東街道の5回目。JR石橋駅まで行ってゴールしたいものだ。
 ●JR結城駅北口を出発する。伝統ある結城市の表玄関らしく立派。しかし電車の本数が1時間に1本程度とは困りものと思うが。・・ 駅から斜め左手のスーパーの裏手を通って旧道へ出ると右手に●称名寺がある。結城家初代朝光が親鸞の高弟「真仏」を開基として建立した。結城家の菩提寺である。旧道から入ると裏門になるので、表へ回って室町時代の「御霊家門」をくぐると左手に●結城朝光の墓がある。  10:05

  ■称名寺~武勇酒造
 
裏口から旧道へ戻って、「武勇」酒造の角を右に曲がるのだが、先に●木町交差点へ回って見た。昔ここに木戸があっていわゆる「鈎の手」の形になっている。木町の名はここに木戸があったことに由来する
 左手の●毘沙門堂前に建てられた追分道標石燈籠は、道標を兼ねて、笠間、水戸へ向かう街道や小山経由・境町経由の江戸街道への道標として設置された。左の燈篭には「向、水戸海道」、右には「 右 小山 左 さかい」と彫られている。
 1本道を南に戻って●「武勇」酒造の前の旧道を東へと向かった。  10:15

 
  ■武勇酒造~城址公園
 
この先しばらく結城の蔵造り商家建築が沢山あってゆっくり見たいと思うところだけど、そうもいかないのでざっくり見て回った。結城は陸路、水運の便が良く鎌倉時代から結城家歴代の城下町で,結城紬の特産地として発展してきた。当地の「本場結城紬」は「いざりばた」という我が国最古の織機を使って生産され,国の重要無形文化財に指定されているとのこと。町並みは城下町らしく道路が屈折しており蔵等もみられる。
 右手に●慶応年間創業の「武勇」酒造。店も蔵造りで煉瓦煙突も建って、雰囲気がとても良い。駅前に続く交差点を右折した先に●秋葉糀味噌醸造は天保年間の創業で工場は古いが見世蔵は大正13年の建築。その先の●築島邸は明治13年頃の蔵造り建築。 
 10:20

 
  駅前に繋がる交差点を左折するのが旧道だが、結城巡りを続けるためここを直進しておく。右手にあるのが●健田須賀神社。結城家ゆかりの須賀神社と、結城国造の竹田氏ゆかりの健田神社が明治時代に合祀されたもの。浦町交差点の辺りに「桜長太郎商店」や「鈴木新平商店」などが建っていた。交差点を渡ると突き当たりになる。このあたり「結城紬」の店などが点在している。
 突き当たりを左折していくと、右手に薬師堂や大日堂があり、この先の通りには見世蔵通りといわれるだけに古い建物が沢山並んでいた。左手にあるのが●明治中期建造のキヌヤ薬舗。その奥に「つむぎの館」がある。
 結城小学校前ずっと学校沿いに進み、県道を道なりに進むと、左手に玉姫の墓の看板が立って、真っ直ぐ参道道が造られている。突き当たりに●玉日姫の墓というものがある。関白九条兼実の七女で親鸞の最初の妻となったと云われる女性の墓である。但し現在の本願寺では正式に認めていないと云われる。  10:45

 
 ■城址公園~神明神社
 
結城巡りをもっとやりたいところだけど、旧道へ戻らないといけないので、玉日姫の墓から本町交差点まで戻って来た。角に見世蔵が一軒。●甘味茶屋 真盛堂で、明治36年の建築。
 旧道である県道35号を北上して行く。みだり手奥に弘経寺、妙国寺がある。小さな曲尺手の様になっている先に●立派な楼門を構える安穏寺がある。奈良時代に律宗の寺として創建されたが、室町時代初期の応安4年(1371)に結城家8代直光が源翁和尚招き禅宗に改修し再興した。源翁禅師は那須で人々や鳥獣に害を与えていた殺生石を二つに割り中にこもる悪霊を成仏させたことで知られる。その為石を砕く槌をゲンノウと言うようになったという。
 安穏寺の先で県道35号は右に折れ、県道147号が左斜めに分岐している。旧道はそのまま細い道を直進して進む。右手に●神明神社がある。  11:10

 ■神明神社~北飯田
 神明神社の先は住宅街になって旧道が消滅しているらしく、神社の所で直角に左に曲がり、県道147号へ出る。神明橋を渡り●水路沿いの道を進んでいく。その先に水路に小さな橋が架かり、住宅街へ抜けている。これが旧道だろうと思われた。
 その先、県道146号に合流して小山市へ入った。●大規模な工業団地を通り抜けるだけなのでここは早足で通り抜ける。冬の空っ風を受けるだけで何にも無し。工業団地を抜けると細道になってきて●北飯田交差点へやって来た。角に商店があるのだけど買えそうなものがない。 12:05

 ■北飯田~別処山公園・星宮神社
 県道をどんどん進んで行くと、右手別処山古墳の看板が見え、県道を進んでも面白くないので右へ曲がって寄ってみた。別処山公園の球技場のかたわらに●別処山古墳があった。全長35mほどのの前方後円墳である。築造時期は6世紀後半。横穴式石室が明瞭に開口しているのが珍しい。
 公園の右側に●百体観音堂がある。堂内に十一面観音の両側に聖観音・如意輪観音・馬頭観音が並んだ百体観音菩薩像が祀られていて壮観であった。そのまま公園の東側を北上して10分程歩き、左へ曲がって旧道へ戻る途中●星宮神社がある。  13:05

 
 ■星宮神社~仁良川
 県道44号をよこぎって●仁良川地区に入る。街道沿いに●重厚な長屋門などを構える農家があったり、大規模な敷地を持った農家が多かったような感じがした。ここに秋田佐竹藩の陣屋があったといわれる所らしい。陣屋跡は右手の●プレス工業仁良川寮だという。 13:25

 仁良川下公民館の周囲には●如意輪観音像や十九夜塔などが集められてあった。●宝篋印塔が一基どんと建っている。享保時代の比較的大型のもの。塔の後ろには大杉神社と八坂神社。その後ろの●朱塗りの薬師堂。堂内に●本尊の薬師如来、脇侍の日光、月光、12神将が安置されている。公民館の斜め右手にまた豪勢な長屋門を備えた農家がある。仁良川コミュニティセンター奥の満福寺の山門左手に樹齢300年といわれる椿の大木がある。  13:30

 ■仁良川~薬師寺南
 右手に長い参道がある●愛宕神社を見て道はカギの手状に折れていく。この先10分ほどの●薬師寺南信号で新4号バイパスに分断された。バイパスの高架をくぐると●薬師寺南遺跡という看板が立って、古墳時代から平安時代の大規模集落跡という案内がある。バイパスを越えた県道146号の先で●左に曲がる細道が旧道である。左へ入り旧道を進み、突き当たりを右折して叉県道146号に合流した。14:00

 ★龍興寺
 薬師寺集落の中ほど、信号を右に入った先、薬師寺小学校の北側に●龍興寺がある。天平宝字5年(761)鑑真が唐の揚州龍興寺の舎那殿壇の法を移し、寺名を生雲山龍興寺として開基し、下野薬師寺の別院とされている。この寺には日光街道を歩いた際に訪れており、2回目の来訪。そこであっさりと見ておいた境内に●道鏡塚がある。歴史上道鏡はきわめて悪僧に描かれているが、元来サンスクリット語の素養もある学僧と思っているし、説明板でも好意的に書かれている。境内にある●礎石は下野薬師寺の痕跡を示すものという。 14:11

 
 ■龍興寺~薬師寺跡
 龍興寺をそのまま北へ抜けて行くと正面に●雷電神社が見えた。力士の「雷電」に関係あるのかと思ったが、祭神は賀茂別雷命で京都の賀茂別雷神社より祭神を勧請。以来五穀豊穣の神として厚く尊崇されてきたという。
 その先の参道を行くと●薬師寺八幡宮がある。由緒が古く、貞観17年(875)清和天皇の勅定により東北守護の大神として石清水八幡宮の御分霊を勧請したとか、天平勝宝元年(749)、下野薬師寺の守護神・仏法の鎮守神として鎮座したとかという説がある。 参道を左へ抜けて行くと●広大な薬師寺跡が広がる。ここも日光街道の折、立ち寄っているので2回目。再建整備中と思うが、前回とあまり進捗している感じはない。  14:25

 ★下野薬師寺跡
 ●薬師寺跡は只今整備中で回廊がちょっとばかり復元されている。下野薬師寺は奈良の東大寺、九州の筑紫観世音寺の戒壇院と共に日本三戒壇と呼ばれている。道鏡が宇佐八幡宮神託事件の後、当寺に左遷されたことでも知られる。下野市のHPでは7世紀末、この地方をおさめていた豪族、下毛野朝臣古麻呂(しもつけぬのあそん こまろ)によって創建されたと考えられていますとしている。このような歴史を持った寺も大火災にあったり、比叡山に戒壇が設けられたりして段々衰退をしていった訳である。戒壇跡地には●安国寺が設けられ、下野薬師寺の法灯を今に伝えている。 跡地の脇にあって、特徴ある形の●安国寺の六角堂はその戒壇跡地に建てられている。  14:30

 ■薬師寺跡~多功宿
 跡地を左手に見ながら一路県道を北上して行く。やがて三川町多功に入っていく。右手に大きな●長屋門がある。結構沢山の長屋門がこの街道にはあると感心させられた。
 下多功信号で国道352号を横切って500mも行き、右折すると●旧多功宿に入ってきた。日光東街道最後の宿場で会った。日光東街道を幕府の正式名では「多功道」といっていて、この宿場の名前から付けられたと思う。その割には宿場が小さく、結城宿の方が規模が大きいので「結城道」などと称されても良いのではないかと思う訳だが。 ここも旧宿場の面影はほとんど残っていない感じがする。右手に宝光院がある。 その先左手に建つ門構えの家が本陣兼問屋を勤めた●谷中家住宅という。  15:15

 ■多功~鞘堂
 信号の所を右折すると「宿多功」というバス停がある。宿場の面影を示すものはわずかにこのバス停くらいのものかなと思う。その先石橋ゴルフガーデンの標識が立つ路地をはいると駐車場脇に●多功城跡の石柱が立っている。鎌倉時代後期にあたる宝治2年(1248)、宇都宮頼綱の四男宗朝によって築城された。小山、薬師寺から宇都宮に通じる要路にあり、宇都宮城の防衛に大きな役割を果たしたという。 以降多功氏を名乗り15代にわたって宇都宮氏を支えてきた。現在ではゴルフ場建設のために土塁や堀跡などの城の遺構の大半が破壊されてしまった。
 街道にもどり●県道をひきつづき北上する。あとは石橋の北方で日光本街道と合流するだけだが、そこまでが結構長かった。
 東北新幹線の高架が段々左から迫ってきた。県道71号の上を越えていき、「シーボン化粧品」の工場を過ぎると、旧道は完全にJR線の為に消滅しており●線路の下をくぐって行くようになる。但し信号が付いている道は車道のようで、歩道は車道と線路の中間に付いていて、車道に降りる必要はなく間違えてた。  16:00

 ■日光街道との合流地点
 線路の下をくぐって一旦日光街道(国道4号)に出た。右折して200mほど北にすすんで星宮神社の向かいを右折すると線路際から●旧道が復活している。こそを左折し●パチンコ屋の裏を抜け左にまがって●国道4号に合流する。ここが日光本街道との合流地点で日光東街道のゴールである。ゴールはあっさり。看板があるわけでもなく、日光街道を通った時合流地点を探してみたのだけど、わからなかった。 目の前の高架道は北関東道。合流地点は日光街道の石橋宿と雀宮宿のほぼ中間点にあたる。交通の便がよくなく距離の割には5回もかかってしまったが、下総台地から、利根川東遷の原点である関宿、古い建物の残る諸川、歴史のある結城など、結構変化があって面白い街道を歩けて良かったと思った。疲れたのでバスで石橋駅まで戻って帰宅の途についた。  16:15

     4 境車庫~結城駅