山陽(中国)街道を歩く 11
                (上道〜吉備津まで)
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 上道−藤井−長岡−追分−百間川−京橋−表町−奉還町−岩井−吉備津       20.3km        
 

■上道駅〜鉄
2012年3月19日
 前日岡山ユニバーサルホテル泊。このホテルがすごかった。夕食も付いて、5,000円以下。尤もお仕着せの定食だったけど。別に贅沢言わないの、でこれで十分。民宿より安いホテルは始めて。岡山から上道駅まで戻って来た。
 早速●駅裏口の農道から始めた。8:30スタート
 この先上道北方という集落となる。このあたり家の壁を焼き板で覆っている家が目に付く。
 「鉄」(くろがね)という集落に入ってしばらく進むと、左手に●「経塔」、「安国寺経塔の由来」の石碑が立っている。安国寺は足利氏が自分の勢力諸国に建立させたものである。備前の安国寺は明応年間に、戦火で焼失して荒廃した寺を眼室宗安禅師が再建したとある。    8:50

 ■鉄〜藤井
 
その先、●藤井の集落に入って行く。ここに藤井宿が置かれた。町並に面影を残すと言われているが、そうは感じなかったが・・・・・・。平日のせいか人の姿がない。
 右手に●総社八幡宮がある。参道入口には「藤井」についての案内板が置かれている。
 参道入口に、文化9年(1812)建立の常夜燈、天保4年()の鳥居などがある。     8:56

 八幡宮の前、街道左手に東本陣であった●角屋西崎家がある。さらにその先右手にも本陣だった●安井家が建っている。両方とも立派な屋敷であるが、案内板などが立っていない。個人宅なので、わずらわしいのかも。
 本陣一つでは不便があったため、創設されたもので、西崎家を東本陣、安井家を西本陣と称した。
  9:10

 14  藤井宿
 宇喜多秀家の時代に、藤井の西端より西南に新たに道を造り、岡山城下を通過する山陽道を建設した。このため従来の宿場であった「宿村」に代って整備された。江戸時代になり参勤交代制に伴い、岡山城下町以東、最初の休泊地として本陣(安井家)、旅籠等が整備された。さらに本陣が増設されている。

■藤井〜古都宿
 右手に入る道があり、案内板が立っている。●新往来という。幕末、幕府は元治元年(1864)長州征伐を断行した際、備前藩では諸藩の藩士が岡山城下を通過することを回避するため、一時的に山陽道の岡山城下の通過をやめ、その北方を迂回させたという。
 すぐ右手に●素戔鳴神社がある。天保2年建立の燈籠と慶応四年(1868)建立の鳥居がある。    9:15

 ■古都宿〜長岡
 
藤井の集落を過ぎて、山の南側をぐるりと進むと、宇喜多時代以前、宿場だった「古都宿」という所に入る。
 山の裾野を北西へ「四御神」という所へ向う道があるが、これが、従来の江戸時代以前の街道であったという
 左手の●「古都コミュニティハウス」は「古都役場跡」である。南西に進む道は●山陽新幹線の高架下をくぐり、山陽本線の踏切を越えて行く。道は南西へ真っ直ぐ向っている。
    9:35    

■長岡〜追分
 
右手に「東岡山駅」を見る、長岡郵便局の脇に●明治38年に建てられた道標がある。「長岡駅 西大寺観音道」、「岡山玉島 神戸大坂京道」と刻まれている。
 ここあたりは、旧の国道で、現在の国道2号線に平行に走っている。
 まっすぐな道を1.5kmほど行くと、右にゆるく曲がる所がある。ここは●追分と呼ばれている。追分と呼ばれる理由はよくわからないが、南北に続く道があったようで、追分の茶屋もあったらしい。        10:15

■追分〜百聞川
 
追分を右に曲がると、今度は真西に向かってまた直進する。「幡多小」の北側を進み、「藤原」には一里塚があったという 「百間川」手前の信号で、左折して、●百間川に突き当たる。土手に上がると石仏群がある。以前は堤防のカット部分を通り、河川敷にあった、小橋を渡っていたという。
 現在は少し上流に架かる●原尾島橋を渡る。百間川は旭川の氾濫から岡山城下を守るため、江戸時代初期に岡山藩主池田光政の命により築造された。名前の由来は、「二の荒手」(中島竹田橋直下流)の幅が堤防を含め百間(約180m)あったことによる。       10:45

■百聞川〜森下町
 
百間川を渡ってすぐ左折、さっきの道の●対岸付近から旧道が通じている。
 原尾島のせまい町並を進み、県道402号を横断する。その先の道路を横切ると森下町で、一つ先の右に入る路地の所に●「惣門跡」の案内板がある。案内板によると、天正元年(1573)宇喜多直家が岡山城下町の入口として惣門番所を設けた跡という。    11:15

■森下町〜中納言町
 森下町から、古京町へ入り、御成川を勲橋で渡る。橋のたもとに「いさをはし」という石標が立っている。
 橋を渡ると「中納言町」という所に入る。町名の由来は中納言小早川秀秋の下屋敷があったことによるとか。
 ●路面電車「岡山電気軌道線」が通る県道へ出た
右折した角、右手に吉備団子の店が2軒並んでいる。●「廣榮堂本店」と、「広栄堂武田」という。奥の方に小さく見えるのが本店。共に安政3年創業だが、店の規模が全然違う。元は同じ店で、隣同士で別々に開業しているのは事情があるのだろう。    11:35

■中納言町〜京橋
 旭川を渡るが、旭川には2つの中州があり、中洲に架かる小橋、中橋、●京橋を渡る。右側に岡山県庁が見える。
 京橋を渡ると岡山城下であり、大門があって郭内に入る玄関口となっていた。京橋を渡った右たもとに、「京橋渡り初めの図」と書かれた木版画の陶板がある。昔の橋の様子がよくわかる。右手に●迷い子しるべ石が立っている。迷子を探す人、見つけた人の連絡場所として使われた。橋の反対側には●岡山県道路元標が建っている。11:45

■京橋〜表町
 京橋を渡ると●表町3丁目のアーケードが正面に見える。看板には西大寺町と書かれている。昔は西大寺町といって宇喜多氏が城下を整備するにあたって、上道郡西大寺村の商人を住わせたことが由来である。
 山陽道はこのアーケードの中を進んで行く。アーケードを入ってから「時計台」を右折して、「表町2丁目」へ続く。昔は旧下之町・伝馬町のちに栄町と呼ばれ、本陣があった。また一里塚や時の鐘つき堂もあって、鐘つき堂の所に現在は模型が置いてある。昔も現在もこのアーケード通が岡山市の中心街となっている。
 アーケードを進んで行くと、●桃太郎大通りへ出た。    12:25

15 岡山宿
 江戸時代、宇喜多秀家は岡山城下を造る際、岡山の北を通っていた山陽道を付け替え、南に迂回させて岡山城下に引き入れた。同時に国内の有力商人をこの地に呼び寄せて、領内経済活動の中心とした。これが現在の表町商店街で、本陣、脇本陣、旅籠などが造られた。その後藩主は小早川氏、池田氏と代って、明治を迎えている。

■表町〜後楽園通
 山陽道は桃太郎大通りを左折して行くのだが、岡山城を見ておきたいと思って、右折して行った。右折すると「後楽園」や「烏城公園」がある。
 ●岡山城は宇喜多秀家が天正18年(1590)から慶長2年)にかけて築城した。その後小早川秀秋、池田氏と経て寛永年間に完成している。現在のものは鉄筋コンクリート製だけど、均整がとれ非常に美しい。寄る時間が無いので、写真を撮る位で済ませるのは残念であった。
 街道に戻り、アーケードの出口を左折して行く。「柳川交差点」を過ぎて、「グレースタワ−」の所を右折して行くと、途端に裏通りになって、250m位先の右手に●金刀比羅神社がある。藩主が池田氏になってから、歴代の崇敬厚かった神社である。

■後楽園通〜奉還町
 その先、後楽園通りに突き当たり、左折する。230m程で●西川を渡る。岡山を南北に流れる農業用水路であるが、城下の西側の防御用でもあり、西側に2キロにわたり、侍町が形成されていたという。
 岩田町へ入ると、岡山駅北側の線路に突き当たる。ここあたりが「旧万町」にあたり、城下町の西ノ出口であった。城下最大の総門が備えられていた。
 線路は地下通路をくぐって、線路の西側に出た所に●智明権現と地蔵尊、石柱がある。街道脇であった印といえるかもしれない。  13:08

■奉還町〜岩井
 真っ直ぐ進むと、●奉還町の商店街に至る。奉還町は明治初期、士族に支給された、家禄奉還金を資本に、街道沿いに商店街を作ったことにちなむとか。小さい店が並び、雑然とした感じがする。
 奉還町4丁目を越え、更に国道180号を越えて、右手が堀になっている道を進む。結構、旧家があり、昔の街道の面影が残っている。
 右手には●国神社がある。狛犬の形が独特で、面白くもあり、いかんせん、石段が急で、上がるのが大変そうなので、参拝は止めといた。「三門」に入るが、「茶店多し」といわれ、繁栄した地域であった。    13:30

 ■岩井〜矢板大橋
 「三門」公園を右折して北上して行く。右手に「備前国醍醐山成願院本坊」という「常福寺」がある。
 少し行って国道180号に合流し、●「厳井富山」信号を左斜め前方に上って行くのが山陽道である。
 上るにつれて、右手は次第に見晴らしがよくなり、ドームを備えるビルが見えた。この坂は明治9年、県令「高崎五六」が車馬の往来に便利なため、整備したといわれる。
 かなり上りつめた所で左手に高台があり、●大きな題目碑と県令高橋五六顕彰碑がある。    13:45

 街道左手に●北向八幡宮の石柱が立ち、参道が奥に続いている。社殿が遠そうなので、ここも通過するだけ。普通神社仏閣は南向きに建てられるのだが、わざわざ北向きというからには理由があるのにちがいない。
 反対側、右手に●笑塚というのがあった。芭蕉の句碑で
  「八九間 空で雨ふる 柳かな」という案内板が立っている。外の説明がないので、なんのことかよくわからなかった。
坂を下って行くと「矢板大橋」に出る。   13:54

■矢板大橋〜吉備津彦神社
 大橋を越えると、●国道180号が真っ直ぐ北西に続いている。このあたり交通量が多く、騒がしい。排気ガスを沢山浴びることになってしまった
 「吉備津彦神社前」信号の左手に●一宮村道路元標がある。そこを左に曲り、●吉備津彦神社へ向う。    14:25

吉備津彦神社
 大化改新の後吉備国が備前・備中・備後に分割され、備前国一宮として崇敬される。吉備津彦及びその一族神を祀る。  同社の創建年代は明確ではないが、平安時代には歴代の国司の崇敬を集め、中世以後は歴代領主の崇敬を受けた。
 境内にとんでもなく巨大な●安政の石燈籠が一対建つ。六段造り、高さは11m、笠石は八畳敷の広さがあり、まさに日本一といわれている。文政13年、安政4年の2度にわたり、地元有志が発起し、天下泰平、国家安全、万民豊楽、五穀成就などを念願して、備前一円、浅口郡を中心に広い地域で寄進を募り、奉納されたものである。
 ●本殿は池田綱政が元禄10年に造営したもので、檜皮葺、三間社流造、飛鳥時代社殿建築の粋がつくされているということで、重要文化財。尚拝殿などは昭和5年の失火により焼失して、昭和11年に再建したものとなっている。  

■吉備津彦神社〜吉備津駅
 街道に戻って、さらに西へ進む。中川は氏を渡り、五軒屋で左へカーブして、真っ直ぐ行くと、左手に●真金の一里塚の石碑が立っている。途中左手に「備前国境石」があったらしいけど、急いでいたので見逃してしまったらしい。
 一里塚は道を挟んで、一対の塚が残るが、松、榎木は後世のものという。
 その先左手に●吉備津神社の鳥居があり、見事な松並木の参道がJR吉備線の踏切を越えて続いている。吉備津駅が近いので、本日はここまでとした。吉備津神社に参拝することにして、駅の時刻表を確認したら、40分ほどで見てこなくてはいけないので、500m程の参道を駆足で回ることになった。       15:05 

 吉備津神社
 祭神は吉備津彦神社と同じで、吉備津彦及びその一族神を祀る。備中国一宮であり、かつては吉備津彦神社とも称していたが、現在は吉備津神社を正式名としている。ちなみに、備後国の一宮は、吉備津神社から分祀されたという、広島県福山市新市町に鎮座する、吉備津神社である。
 ●南随身門は、国指定重要文化財、●本殿、拝殿は比翼入母屋造り又は吉備津造りと呼ばれる、我が国唯一の独創的様式の大建築で国宝に指定されている。これだけでも見る価値があった。   15:40終了 岡山から新幹線で帰宅

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