山陽(中国)街道を歩く 12
                     (吉備津~三谷まで)
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 吉備津駅-板倉-惣爪-足守川-国分尼寺跡-宿-山手-清音-川辺-吉備寺-矢掛町境-三谷駅        23.9km  
 

■吉備津駅~真金十字路
2012年6月2日 8時50分吉備津駅到着
 前回の最終地点の●吉備津神社鳥居前から歩き始めた。伯備線の「吉備津踏切」を渡る。右手高台の墓地に吉備津神社代々の宮司を勤めた「藤井高尚」の墓所があるというわけだが、早速見逃してしまった。
 踏切の先は、板倉宿になる。●板倉宿」の看板と文化4年(1807)の常夜燈がある。板倉宿は吉備津神社の門前町(宮内)と山陽道の宿場であった板倉宿が発展し形成されたとされる。   9:10

 ●宿の面影を残すものはほとんど残っていないが、道幅、家並などに宿場の面影がいくらか残っている。
 右手●「鯉山コミュニティハウス」が板倉宿本陣跡で、「江戸時代の板倉宿場図」が掲示されている。
 右手に見事な蔵造り、なまこ壁、うだつ、千本格子のある●旧家平松家がある。

 16 板倉宿
 板倉宿は寛文・延宝期(1661~81)に、宮内村にあった本陣(中田家)を板倉村内の東方家に移して形成された宿である・宿駅の負担は両村で半分ずつ負担していた。本陣などは残っていないが、本陣と脇本陣、旅籠、茶屋もあり、筑紫紀行には「板倉宿七八町ありて、茶屋宿屋多し。例の芸子遊女もありとぞ。」と指摘している。

 ■真金十字路~惣爪
 街道は「真金十字路」にぶつかった。山陽道と北西の備中松山城へ向かう松山往来、南の庭瀬の陣屋町に向かう道が交差分岐している交通の要所であった。
 交差点の右端には●不動明堂と供養塔、記念塔が建ち、南から延びてきた道路の分岐の間に●「右松山江八里 足守江二里」の道標がたっている。
 西へ向い、●東惣爪の集落を通って行く。左手に「御埜立所」と刻む大きな石碑があった。明治天皇が軍事訓練観閲で、この地を訪れた時の記念碑の様なものとは、帰ってから仕入れた知識。   9:25

■惣爪~足守川
 
足守川の堤防にぶつかって、「矢部橋」を渡ろうかとすると、土手上の左手奥にこんもりした、古墳のようなものがあるので見に行ってみた。
 
途中土手下の所に石柱が立っているので、見てみると、● 惣爪廃寺塔跡の石碑がある。奈良時代前期の廃寺の塔が立っていたという。
 その土手上に●「明治天皇惣爪御野立所」跡である。明治43年軍事訓練の観閲を記念したものらしい。  9:55   

■足守川~千足
 足守川を渡るが、昔は長さ24間の板橋が架かっていたという。矢部橋を渡って、U字形に少し戻って、左折すると、●大正4年の指差し型の道標があり、「川辺 やかげ道」などと彫られている。右手に●鯉喰神社が見える。
 鯉喰神社は温羅(うら)征伐にちなむ神社で、敗れた温羅が洪水を呼び、鯉に変じて逃げのびようとするのを、大吉備津彦命がこれを退治したという伝説がある。
 山陽自動車道の下をくぐり、右折すると、再び岡山市へ入る。県道270号を越えて行くと、左手に●嘉永3年の道標がある。「従是比帝釋天十五丁」などとある。   10:35

 ■千足~国分尼寺跡
 街道は●千足の集落を過ぎる。右手奥の方に岡山県下第一の「造山古墳が」見えている。
 その先、県道に合流してから100m程行った右手に「左いなり道」「従是五十二丁」と記した道標が立っている。ここは、●太陽の道と日時計という公園になっていて、日時計が置いてある。造山古墳がある地帯は夏至の日没方向に当るそうで、記念して作られている公園。
道は総社市へ入り、市境から300m程行った所で、右手に曲って行く。    10:50

 右手に入ってしばらくすると、右手の工場の角に●足守、矢掛への道標が立っている。ここを右手に入ると、備中国分尼寺跡へ繋がっている。
 ●備中国分尼寺跡には、金堂礎石跡や築地土塀跡など残っている。寺域は東西108m、南北216mに及ぶ。伽藍は南北朝の戦火で焼失したと伝えられる。更に西へ向い、案内板に沿って行くと●こうもり塚というのがある。自然の丘陵を利用して作られた、100m程の前方後円墳。石室がむき出して見えている。街道は国道を越えて南西に走っているので、そちらへ向う。国道脇に備中国分寺の五重の塔が見えている。

■国分尼寺跡~宿
 
国道を越えて進むと、●宿という集落へ出た。宿は山陽道の宿場町として栄え、街道沿いには当時の名残をとどめる家が沢山あります。北には備中国分寺や尼寺跡、南側には寺山古墳などが存在し、吉備路の中心に位置します・・・・という案内がある。宿の中心には「三宅酒造」がある。宿場といっても、江戸時代の宿場には指定されておらず、国分寺が存在する地域から考えて、、もっと昔の鎌倉、室町とかの宿場ではないかと思う。
 北にある●備中国分寺は聖武天皇の発願になるものだが、建物は南北朝時代に焼失したと伝えられ、現在の建物は江戸時代中期以降に再建されたもの。   11:30

■宿~山手
 
「宿」を出て、小さい川を渡ると、「守安馬太之碑」というのががあった。
左手奥に●角力取山(すもうとりやま)古墳がある。5世紀の古墳で、全国でも珍しい方型古墳で、かって地域の豪族の墓といわれている。古くから古墳の西側に土俵を設け、秋祭りに奉納相撲が行われていたことから、角力取山と呼ばれるようになったという。
 ちょっと先の右手に●山手村郷土館がある。江戸末期に建てられたと伝えられる旧友野家住宅(商家)を村が買収し、一般に公開しているというものだが、公開している雰囲気ではなかったが・・・・・・・  12:10 

 ■山手~持坂
 
左手に吉備好古館と書かれた●石碑と神社の石標が建っている。入って行くと、ちょっとした森になっていて、大化の改新当時、吉備の国窪屋郡の郡家(郡役所)のあった所であるとされる。古代の唯一の大路、山陽道が通っていて、東に「津坂駅」があったそうである。森の中には「御崎神社」が鎮座している。またこの地は仁徳天皇が郡司の娘「黒日売」をしたってここまで行幸されてきたという伝説も残る。
 右手に●吉備好古館が建っている、ここも申込んでおかないと入れてもらえないみたいだ。   12:16

 山手郵便局の先、十字路の角に●一里塚跡がある。一里松という地名になっている。岡山、矢掛の方向を示す、道標が立っている。
 民家の中を進み、県道へぶつかるが、手前左手は「山田池」というため池がある。池のほとりにお地蔵さんもあった。
 県道270号に合流する。ここからの上りは、●持坂と呼ばれている。
 坂を越えて、すぐに左の細い道に入って行く道が旧道である。歴史の道報告書の地図ではこの迂回路は記載されていない。   12:42

■持坂~清音
 
細い道を行くと、左手は「清音ふるさとふれあい広場」という公園になっていて、池がある。
 池に向う道との角に●「左 大かく大僧正道」と書かれた古い石標がある。
 再び県道に合流し、一直線に高梁川に向うことになる。「清音小学校」のあたり、道の右手に●藤原為貞宝篋印塔と地蔵堂がある。藤原為貞についてはわかっていないが相隣と宝珠が無くなっているが、宝篋印塔としては大型で、の嘉暦3年(1328)年の銘文が残っている。   13:10

■清音~川辺
 
その先で伯備線の踏切を渡り、ちょうど特急電車が通過して行った。
 高梁川の堤防に突き当たった。川辺橋を渡るが、下流側に歩道専用の橋があるので、そちらを渡る。●高梁川は渡船で渡っていたようである。渡って左折した、堤防下に、●「史蹟山陽街道一里塚の新しい石標がある。その先は●川辺宿になる。   13:45

●川辺宿
 宿には蔵造りの家、虫籠窓、なまこ壁などのある古民家が見られるが、高梁川の洪水で度々被害を受けている。
 左手歯科医院の前に●「川辺本陣跡」の碑がある。川辺本陣は醤油屋であった「難波氏」が代々勤めた、明治26年大洪水により流出してなにも残っていない。
 右手に脇本陣もあったが、ここも駐車場に変っている。
 その先右手に●艮御崎神社がある。神社入口の門柱の文字は犬養毅元首相の揮毫になるもので珍しい。
 吉備津神社本殿の丑寅の方向に艮宮があり、温羅(うら)が祭られ、たたりの神として恐れられている。艮御崎神社も吉備津系の神社であるとされる。    14:02

 17 川辺宿
 高梁川が合流する川辺は交通の要衝として、山陽道の宿場町として栄え。特に高梁川が川留になった時などは多くの宿屋を必要とした。しかし、同時に度々洪水の被害も多かっので、当時の宿場町の面影を残すようなものは何も残っていない。

■川辺~二万口
 「川辺バイパス西」信号で●県道281号と合流する。少し行った先の末政川は両端が高くなっており、天井川になっていることがわかる。
 ●「二万口」という交差点で直角に曲って細い道を更に左折することになる。ここは、大曲といって、調査報告書では・・『吉備町史によると、「古老はこれを猿掛城を守っていた毛利が人工的に作って、西進してくる敵方の兵数を後方に注進するため」と説明しているが、条里制の基本線のずれに対応するためとも思える』・・・と言っている。   14:32

■二万口~吉備寺
 
「真備北」交差点を過ぎた先に、「吉備真備公産湯の井戸右350m」という標識があるので、右折して行ってみた。
 右手に●吉備公館址の石碑が建っている。このあたりはかって、天原(てんばら)と呼ばれた地名で、吉備氏の居館があり、吉備真備が生まれた屋敷跡だと伝えられている。
 対面に●真備公産湯の井戸というのがある。案内板によると、・・・・吉備公ご生誕の前夜、この井戸に星が落ちたので、この井戸を「星の井」と呼び、この水で産湯を使われたので、それからこの井戸が「吉備大臣産湯の井戸」と言い伝えられている。    14:50

 吉備真備(695~775)について
 吉備真備は奈良時代の学者、政治家。正二位、右大臣
備中の下道郡(現在の真備町・矢掛町付近)の豪族下道国勝の子で、若くして遣唐留学生に選ばれ、在唐19年の間、儒学・歴史学・政治学・経済学・法律学・数学・天文学・暦学・兵学・音楽など多方面にわたって学び、奈良時代の諸制度の整備、文化の繁栄に計り知れない貢献をいたといわれる。また伝説ではあるが、囲碁の始祖であるとか、カタカナの発明にも貢献したともいわれている。

 井戸のある場所から西へ向い、少し南へ下がると、まきび公園があり、中に●吉備寺と吉備公廟がある
 吉備寺は吉備真備の菩提所であり、本尊薬師如来像は行基の作と伝えられる。当時の建物は足利直義の時代に焼失し、現在の本堂等は江戸時代の建造である。境内の庭石は、当時の礎石を利用している。公園の中には真備が遣唐使として派遣されたことに因み、まきび記念館」といった中国風の施設が設けられている。
 ●吉備公廟は、南側の石段を登った所にある  15:05

■吉備寺~矢掛町境
 公廟を出て西へ向う。すぐ右手の民家の陰に「史蹟山陽街道一里塚」と書かれた新しい石碑がある。
 県道486に合流してすぐ、右斜めの細い道に入ると「熊野神社」があった。「備中石田」バス停の先でも右斜めに入って行く。こちらは少し長い。右手のこんもりした山には「鳥ケ嶽城跡」がある。
 右手に●井原鉄道の高架、左手に小田川を見ながら進む。「「琴弾橋」手前で県道は左へ曲って行く。旧道真っ直ぐ進んでいて、県道の下の農道を通っていることになっている。まっすぐ進めないので、適当に右折して農道を通ることにした、
 そして又県道に合流すると、左手の小田川の対岸に●琴弾岩が見えている。吉備真備が、晩年帰郷し、中秋の名月の夜に、この岩の上に琴を置いてかなでたと伝えられている。  16:20

■矢掛町境~福頼橋
 
そのまま進むと、矢掛町に入る。●矢掛町の大きな看板が立っている。あと5㎞あるが、着きそうにないので、途中の「三谷駅」で本日は終りにしようと思った。
 矢掛に入った直後に「史蹟旧山陽道一里塚跡」と書かれた新しい石碑がある。
 右手に●筆塚というのがある。矢掛町出身の書家「田中塊堂」が中心になって、真備公の遺徳を顕彰するために建立したという。  16:34

 筆塚の所を右へ入って行くと、「吉備真備公園」として、整備されている。入口に「吉備公館址」の石碑が立ち、●吉備大臣宮がある。案内板を見ると、ここも吉備公居館跡があり、西の端には真備が産湯に使ったという」星の井」という井戸がある。先の吉備町の史跡と全く同じようであるので、どっちが本当なのか疑問に思うが、どうなのだろう。
 公園内には●堂々とした吉備真備公銅像が立っている。この姿はよく教科書でお目にかかる姿をしている。また「囲碁発祥の地」という記念碑もあった。  16:37

 ■福頼橋~三谷駅
 
●「福頼橋」手前から、右側に入って、ここからは県道をはなれて、しばらく山裾の旧道を歩くことになる。
 上り坂になっていて、しばらく行くと、右手高台に●「吉備公累代墓域碑」と刻んだ石標が見える。行かなかったけれども、山道を登りつめると、「下道氏公園」があり、ここで元禄12年(1699)真備の祖母と思われる骨藏器が発見されたそうである。
 さてしばらく農道を進み、時間も遅くなってきたので、左手●井原鉄道」三谷駅」が近く、ここらで終了することにした。ホテルが付近になく、総社でも取れなかったので、そのまま井原へ向い、「歴城荘」という所であった。ちなみに井原線は1時間に2本。三谷駅は無人駅だけど、駅舎はレンタサイクルの事務所になっているようで、おじさんが数人、閑そうにしておった。  17:10

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