山陽(中国)街道を歩く 17
                   (西条から海田市まで)
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 西条駅-友待橋-飢坂-八本松駅-大山峠-一貫田-出迎えの松-海田ふるさと館-成本-海田市駅    25.6km        
 

■西条駅~半尾川
 2012年9月30日
 本日は予定では本郷、西条間を歩くところ、台風17号により、瓦坂峠、松子山峠が危険と思われたので、順序を逆にして、西条、広島間を先に歩くことにした。台風の割にはシトシト雨でよかった。ホテルのある西条から、本郷へ戻り、街道歩きを再開。
 駅東側に四日市(西条)の本陣にあたる、●御茶屋が復元されている。駅前を東西に走る通りが旧道であるので、●旧道へ入って行く。街道に面している建物は普通だが、藏元の建物があったり、所々古いものがあったりするので、雰囲気は好ましい。奥まった所の方に古いものが残っている様に思う。   8:35

  街道左手、「ふじたストアー」辺りに脇本陣があり、その隣に賀茂郡用所があったそうだ。
 右手にある蔵造りの古めかしい建物は、●太田邸という。海鼠壁の蔵も備えている。
 その先、●半尾川を渡る。土手が石垣でできていて、道が盛上がっている。昔はこの川を境に東条と西条に分かれて、その後西条は西条町として発展していき、東条の名は消えていってしまった。その先東条のの方に「賀茂郡御役所」があって、右手にその碑が立っている。広島藩の代官所が置かれていた。   8:45

■半尾川~友待橋
 すぐ先、左手には、西条の酒蔵の一つの●賀茂輝酒造がある。創業は明治28年
 賀茂輝の向かいは真光寺がある。雁行の外壁構造となっているのが特徴というのであったけれども、よくわからなかった
 県道を横切り、進んで行く。やがて国道に合流し、「下寺家バス停」の所で左折して、左斜めに●旧道へ入る。この道は江戸時代から昭和37年まで使われていた道で、側面に石積みが残されている・・・と説明されていたが残念ながら、フタがされて見ることができなかった。国道を少し行き、「トヨタ」の所からまた左へ入って行く。   9:05

■友待橋~飢坂
 一旦国道と接して、すぐの「友待橋」信号を斜め左に入って行く。ここから本格的に旧道に入るが、手前でオーバーズボンなど付けていたら、ごみ集積場のそばにあるという、「時友一里塚跡」碑を見落した。
 旧道に入り、黒瀬川に架かる時友橋を渡ると、●田園風景になってきた。左手に祠がある。上り坂になり、住宅地の間を抜けると、右手に「飢坂」と書かれた案内標識があり、●飢坂に入って行く。
 最初は舗装道路だが、そのうち土の坂道となった。飢坂の名前の由来は二つあり、江戸時代、飢饉の時に、ここで多くの人が飢えで力尽き亡くなったことからこの地名になったという伝説と、昔、牛を救って長者となった牛満長者は、助実の歌謡坂)から朝早く田植を始め、昼に浜田まで仕上げ、夕方に当地に達したところで、空腹となり飢坂(カツエザカ)の地名がおこったというもの。
 左右の池の間の道を抜けると、再び●林間の山道になった。このあたりが頂上らしい。雨で濡れているが、問題はない。       9:35

■飢坂~清水川神社
 峠を下ると眼前は●シャープの工場。工場で旧道が寸断されているので、迂回する必要がある。
 また、「旧国鉄材修場跡」碑が立っている。明治、大正期、山陽鉄道の機関車の修理などのために材修場が設置された為の記念碑。
 シャープの工場を右回りに迂回して、工場の反対側に出ると、旧道がつながっている。
 しばらく行くと、●清水川神社の鳥居が見え、この奥に清水川神社がある。この神社には、神殿が北向きだったのが、街道に面していたため、通行人が下馬せずに通るとどんな偉い人でも落馬したので西向きに向きを変えたという面白い話が残っている。     9:55

■清水川神社~八本松駅
 右手の妙福寺が見えるあたりから、●八十八石仏めぐりの石仏を見るようになる。大正時代の終わり頃に「人の集えるものを」と地元の資産家によって建てられた。
 昔弾薬の運搬に使われたという道路を横切ると、途端に●道幅は狭くなった。
 この道は国道にぶつかってしまい、先に進めない。 旧道は国道を抜け、JRの線路を越えて進んでいたらしいが、消滅してしまっているので、右折して●八本松駅前を通り、駅の北側に出て、旧道の接続地点へ向う。   10:25

■八本松駅~大山峠
 駅を越えて、左折し、線路に沿って進み、「沓掛第三踏切」を越えて、国道486号へ出た。
 右手の「ミスターマックス」の駐車場の端に●「旧山陽道長尾一里塚跡」の石碑が立っている。左右の塚松が当時の飯田村と宗吉村とに分かれて植えられており、それぞれ1本の幹から4本に枝分かれしていたことから、八本松の名が起こったといわれている。
 駐車場の先で、左斜めに入る旧道があるので、入って行く。。住宅地の崖に「西国街道(旧山陽道)」の矢印があるので、案内に従い、高架下をくぐる。案内はこの先にもいくつかあった。
 間もなく●大山峠の入口にさしかかった。舗装道路はすぐに土の道になる。石畳の所もある。雨が降っているが、道も広く、そう難儀な道でもない。   11:00

■大山峠
 やがて●大山峠頂上へ達した。「旧山陽道大山峠」の碑と「大山峠」と書かれた大きな案内板が立っている。
 案内板には・・・「日本書紀崇神天皇〈3世紀前半)の条に「西道」のことが書かれており、これは後の山陽道のことだといわれ、そうであれば、この峠も弥生時代には既にあったことになる。その後、山陽道は京と大宰府を結ぶ官道となり、この付近に延喜式にいう大山駅が置かれていた。明治17年国道2号が新設されるまで国の幹線道路としての役目を果たした。この間、防人、元寇の急変を知らせる早馬、明治維新の志士吉田松陰や高杉晋作も通った。・・西から上ってくる坂を「代官おろし」という。これは、いかなる権威のある人でも駕籠から降りたという難所であったことを意味する・・・・」 とある。(一部省略)
 山道を下って行くと、右手に●「大山刀鍛冶之墓」の碑と「伝大山刀鍛冶の墓」の案内板がある。この付近に大山刀鍛冶の屋敷があって、たたら等出土していたという。墓は奥にあるようだったが、雨で行くことは無理であった。   11:15

■大山峠~清山
 途中雨で水路になっていたり、靴がめり込むのを注意したりしていたら、賀茂安芸郡境碑や代官おろし跡碑のことなどすっかり忘れて、通り過ぎてしまった。峠の出口あたりは、特に地面が柔らかく、注意を要した。
 無事に下りてきたら、●安芸バイパスの橋脚工事の現場に出くわした。右に曲がりながら坂道を下って行き、左折してJR高架をくぐり、国道の2号に合流した。「清山」バス停の所。
 国道を少し行くと、●左斜めに入って行く道があり、国道に沿った道を進む。しばらく行くと再び、JR高架をくぐり直し、線路の南側に出る。    12:05

■清山~中大山
 国道を横断して、●瀬野川沿いの道を進む。雨もやんで晴間が見えてきた。車の来ない静かな道で歩きやすい。
 左手に●「旧山陽道 三本松」が立っており、二代目と書かれている。そんなに大きくないので、初代は樹齢何百年かもしれない。
 しばらく行った右手の石垣に、●「凉木の一里塚跡」碑がある。    12:25

■中大山~一貫田
 国道を少し進んだりして「清水第5踏切」で線路を渡る。●線路脇の一段高い所を行くと、右手に墓があり、その一番左に●「大山刀鍛冶市左衛門之碑」がある。
 「清水第7踏切」で再びJR越える。続いて国道2号を横切り、旧道に入る。●一貫田の集落に入って来た。一貫田は間の宿として栄えた所といわれる。   12:55

■一貫田~瀬野大橋
 「下一貫田」信号で国道2号を越え、斜め前方にある「中原第1踏切」を横切る。線路の北側をクネクネと進み、又々「辰の口第1踏切」を跨ぐ。前方は「瀬野小学校」。横断歩道の脇から●瀬野の旧道を進んで行く。このあたり線路を越えたり、渡り返したりで、まことに煩わしい。
 街中を進むと、●歯科医院の所に突き当った。
 右角に●「右ハ四日市 左ハ志わ みち」と刻む道標と隣に●「旧山陽道落合の一里塚跡」碑が並んで立っている。13:40

■瀬野大橋~矢口神社
 瀬野大橋東詰の信号で2号線を横切り、その先でJRを越えると、道は左折してぐっと山陽線に沿って、南西へ下って行くようになる。
 この先の道は●ずーっとゆるい下り坂で、特に旧道らしい雰囲気は感じられない。但し広島側から来るとずーっと上り坂で(当り前だが)、さぞ疲れることでしょう。
 右手高台に、「広島国際学院大学」が建っている。
 左手の「中野東駅」を過ぎる。
 右手には神社がいくつかあるのだが、いずれも高台にあって、くたびれてきたのでパスしておく。その中で●大年神社が珍しそうなので行って見た。中野公民館の先のコンビニの所を上がって行った所にある。どうということもない普通の神社であったが、大きなケヤキの木が特徴とみた。    14:45

 ■矢口神社~出迎えの松
 街道に戻って進んだら、青い幟が乱立しており、矢口神社の幟につられて、また結構きつい高台の先に●矢口神社がある。秋祭りの準備で人々が働いているので、じゃまと思って、石段の下から撮るだけにした。祭りで有名な神社のようであった。
 安芸中野駅の先、京田第三踏切を渡り、貫道橋の所を右折すると、川沿いに松並木が続いている。●中野砂走の「出迎えの松」と呼ばれている。案内板によると・・・芸備地域では1633年の幕府巡見使の視察を契機として、急速に領内の交通網の整備が進められた。西国街道についても道幅が二間半に定められ、その沿道には一里塚や杉、松などの並木が植えられた。「出迎えの松」の名は、当時参勤交代の責を終えた安芸国の藩主を、家来や村の有志たちがこの松のあたりまで出迎えたという言い伝えに由来している・・・・という。  15:15

■出迎えの松~海田ふるさと館
 並木を過ぎて、右斜めに曲り、畑賀川に架かる砂走橋を渡る。橋の手前に「旧山陽道蓮華寺登口跡」碑と「砂走橋跡」の石柱がある。
 山陽新幹線と山陽線を越して行くと、右手高台に春日神社があって、参道の●常夜燈が左手にある。これは結構風格ある形をしている。
 少し先を右に入ると●烏海田町ふるさと館がある。海田町の歴史が学べる資料館である。   16:00

 ■海田ふるさと館
 館の裏手が●古墳公園になっている。上安井古墳(竪穴式石室)が移築されたり、畝観音免第一号古墳・第二号古墳があったりする。
 珍しい展示では、日本人初のオリンピック金メダリストの「織田幹雄」が海田の出身で、●関連資料の展示がされている。海田町の名誉町民でもあった。

■海田ふるさと館~成本
 ふるさと館を出て、畝一丁目に来ると、民家の壁に「街道松跡」と書かれた案内板がある。25m戻った道路の幅が広い所に、植えられていた松並木の名残の最後の一本で、●「名残の一本松」と呼ばれて親しまれていたが、昭和61年松食い虫で枯れたという。●現在の場所と比べると、風情が違い、残念なことだ。
 郵便局の所を右手に入っていくと、●荒神社と胡神社とが二つの小社が背中合せに建っている。面白い形だが、両側が道で、明らかに両側から参拝する為にこのような背中合せに建てたのだと思う。   16:25

■成本~町役場前
 ●「上市」バス停付近の家並みは、宿場でよく見られる、街道に対して斜めに建てられている。甲州道中韮崎、中山道坂本、上松、本山宿で斜交屋敷と呼ばれていた。海田の場合は角度が大きいのでわかりやすい。
 左手に海田町役場があり、「旧山陽道(西国街道)」の案内板がある。
 右手に●恵比須神社がある。由来記がえらく長い。海田は、包浦、開田を経て海田と呼ばれるようになったこと。古くからの交通の要所で、海田市が開かれて、発展したこと、恵比須神社の祭礼がいかに盛大だったことなどが縷々語られている。

■町役場前~海田市駅
 海田公民館の敷地に「脇本陣跡」の案内板がある。
左手には●千葉家があり、海田宿本陣を勤めた。千葉家の先祖は上総介平忠常で、子孫が信州伊奈から、安芸国へ移り、近世初頭海田に定住し、天下送り、宿送り役をはじめ、年寄、組頭などの役職を勤めている。屋敷は江戸時代中、後期の建築様式を伝えてて貴重。
 本当は広島駅まで行きたかったが、まだ8kmもあるので、とても無理であるので、予定では帰京するところ、順序を変えて、先に海田へ来たので、●海田市駅からホテルのある西条へ戻り、明日、本郷から西条へ松子山峠のある難所を越えることになる。台風が四国沖を通過しているにもかかわらず、午後から晴れてきて良かった。   16:50

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