山陽(中国)街道を歩く 18
              (海田市〜廿日市まで)
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 海田市−船越峠−長尾東−猿猴橋−胡通−平和公園−広島西−高須−草津−五日市−廿日市     23.6km        
 

2013年3月22日
■海田市〜船越峠
 京都発の新幹線で広島へ。山陽本線で●海田市駅に8時54分到着。ほぼ半年ぶりである。直ちに前回の終了地点行く。
 左手には●千葉家がある。千葉家は海田宿の脇本陣を勤め、宿送り役をはじめ、天下送り、年寄、組頭などの役職を勤めていた。江戸時代中期の建物が残っている。すぐ左手にある●大きな旧家は角形の虫籠窓、少々朽ちた黒壁で風情がある。9:15

 27 海田市宿
 海田は古くから交通の要衝で、上市、中市、下市と市が開かれかなり繁栄していた。中世以前では、山陽道は畑賀から日浦山の北側甲越えを府中に抜けており、海岸沿いに海田市を経由する道路はまだ十分整備されていなかった。その後江戸時代に入り、寛永年間の幕府巡見使の視察を契機に、広島藩内の道路制度は、画期的に整備が進められた。参勤交代制の確立の時宿駅として指定された。本陣の御茶屋の外、脇本陣、馬15匹が置かれていた。

 新町に入って、十字路の右手前角に●「旧山陽道海田市の一里塚跡」碑がある。
 ●海田市の町中に入ってきた。家の建て方がジグザグになったりしている。姫路などにも見られたが、大名行列が早く見えなくなるよう工夫されたという説明されているらしい。
 光明寺の先に●桝形があり、ここから二手に分岐し、右手の方は旧西国街道で、左手の方は新西国街道と呼ばれる。ここは左手を行くことにした。  9:30

 ●新西国街道を進む。右側は急激な崖になっており。旧西国街道の方はこの崖の上を通っているような気がする。険しいので新街道が開発されたのであろう。
 右手に●常夜燈がある。ここで新旧の街道が合流している。
 緩やかな上り坂になって、しばらく行くと● 船越峠に到達した。広い舗装路になっており特に峠という感じはしない。  9:48

■船越峠〜府中大橋
 峠を下っていくわけだが、途中「府中永田」バス停の所で左に入って行く脇道があり、そこを通過して行く。この脇道は程なく元の道路に合流する。
 「永田」の交差点へ来て、新幹線のガードをくぐり、右斜めに進んだ。交差点の脇に面白い●石の玉が二つ置いてある。上面に案内地図が載せられていた。
 浜田橋の所を右折した。角に恵比須神社がある。
 やがて●「府中大橋東詰」に出た。府中大橋を渡って、4車線の広い県道84号線を進む。右手にキリンビアパークがある。昔はキリンビールの工場だったそうで、今はイオンセンターになっている。   10:25

■府中大橋〜長尾東
 芸備線のガード下をくぐって、すぐ右斜めの旧道●長尾東1丁目の町へ入って行く。
 突き当って左折するのが旧道であるが。ここは右折して先にある才蔵寺に寄って行くことにした。
 ●才蔵寺は関が原の合戦で福島正則の武将として活躍した可児才蔵を祀っている。山門の正面に可児才蔵の銅像が立っている。境内の地蔵堂には正則が徳川家に改易とされた時、戦いに備え食料を集めたという故事の●みそ地蔵がある。この地蔵の顔にみそを乗せて祈願をすると希望校に合格するといわれ、受験生に人気の場所であるという。   10:52

■長尾東〜猿猴橋
 長尾東2丁目で街道は急激に左折するのだが、これは福島正則が入城してから、広島城の南側を通すように改変しているので、その曲口ではないかと思う。
 猿猴橋へ真っ直ぐ向うが、途中左手に●三本松がある。西国街道沿いに植えられた松の名残で、豊臣秀吉が名護屋からの帰りに広島に立寄り並木松を植えさせたとの伝説がある。県道を渡ると右手に愛宕神社がある。
 その先愛宕踏切を高架橋で渡った。その先300m程で●猿猴橋(えんこうばし)に至った。この変った名前の由来は「猿猴川」に架かる橋からなのだけど、猿猴とは河童の一種で広島県及び中国・四国地方に古くから伝わる伝説上の生き物だそうだ。橋の袂右側に、猿猴橋水道橋の説明板が立っている。
 猿狼橋水管橋は明治30年完成してから原爆の爆風にも耐えて、戦後も大型台風で市内に被害が出るなか、その役割を果たし続けた。しかしついに平成19老朽化のためその役割を終えたという。   11:20

■猿猴橋〜胡(えびす)通り
 橋を渡って、駅前通りから斜め右へ入って行くと、●京橋へ出る。この橋も被爆しているが、落下せず現存している。
 橋を渡ったら真っ直ぐ進み、幟町交番前の所を左折する。
左折して進むと、●胡町・薬研堀通りの看板の架かる所へ来る。ここを真っ直ぐ入る。薬研堀は江戸時代にあった水路で、堀の形が薬を作る薬研に似ていたためその名前が付いた。現在では胡町と繋がって市内有数の歓楽街となっている。 
  12:02

■胡通〜元安橋
 薬研堀へ入り右折するのだが、方向は右手奥に「キリンビール」の看板が架かる所。
 右折してすぐ右奥に●胡神社がビルの中に鎮座している。慶長8年(1603)の創建で、祭神は事代主命・蛭子命・大江広元。大江広元は12代前の毛利元就公のご先祖ですと。
 このあたりは飲み屋ばっかりだ。
 中央通りを過ぎて行くと、丸善ビルの所で枡形の様になっている。屈折して進むと●本町通りはアーケードになっている。このあたりは広島宿であったし、現在でも市内一番の繁華街の様だった。   12:20

28 広島宿
 福島正則は広島城を築城後、西国街道を城の南側に付け替え、町場を設けて商業地として発展させた。普通城下町では止宿を遠慮することが多かったが、広島城下は賓客が多く止宿設備が設けられた。
 猿猴橋あたりに「東の宿場」を設け馬60匹を置いた。また堺町2丁目に「西の宿場」が置かれた。広島の宿場の特色は本陣の役割を勤める御茶屋が置かれたことで、町の有力者の屋敷がその役割を勤めた。

■元安橋〜平和公園
 ●平安橋を渡ると平和公園に入る。元安橋の手前右手茂みの陰に●広島市道路元標がある。 この地は、主要街道が交差し太田川の水運の利もあって広島城下の中心地だった。当時この地に高札場があり、付近には馬継場や藩の公式の宿舎、お客屋などがあった。広島からの里程(みちのり)はすべてこの地点から起算されていたと説明板にある。
 右手奥に●原爆ドームが建っている。これは説明するまでもないだろう。   12:35

 ★平和公園
 元安橋を渡った左たもとにある●「広島市レストハウス」が建つ。この建物は昭和4年大正屋呉服店として完成し、戦争が激化した昭和19年県燃料配給統制組合に買収され、燃料会館となった。原爆により、コンクリートの屋根は大破、内部も破壊炎上し、地下室にいて奇跡的に生き残った1人をのぞいて全員が犠牲となりました。戦後直ちに改修し、会館として利用され、都市の復興の拠点として貢献しました。・・・という様な説明がある。
 右手に「原爆の子像」、左手奥に平和記念資料館などがある。右手のこんもりした塚は●原爆供養塔。原爆により亡くなった引き取り手のない遺骨を供養している。  12:45

■平和公園〜西広島
 本川橋を渡って「堺町」に入る。大坂の堺から商家の境屋が移住し命名されたという所。「土橋」という信号を渡って左手に●頼山陽煎餅本舗藝陽堂がある。頼山陽に因んだ煎餅を焼いている。
 天満橋を渡ると右手に●天満宮がある。西の宿場が置かれてから、火災から頻発したり、水難も被ったので、災難除けとしいて天満宮祀られたのが始まりだという。原爆により灰燼に帰したものの、昭和21年には再建されている。天満宮の前に「ここは旧山陽道」と書かれた新しい石標がある。   13:06

■西広島〜高須
 己斐橋を渡ると西広島。JRの手前で急激に左折する。東広島の長尾の所で急激に左折する場所と対応するので中世は長尾からここへ繋がっているだろうと思われる。
 左折して●己斐本町の町並の中を通って行く。左手に広電西広島駅がある。
 左手に広島電鉄の「別れ茶屋踏切」がある。ここは見送りの人がここまで送ってきて別れを惜しんだという所。南からの合流する沖道は草津、井口方面から広島市内へ鮮魚を運ぶ行商人の列が続いていたという。角の●パン屋さんは往時の別れの茶屋といわれる。   13:40

■高須〜草津東
 右手崖の上に●旭山神社がある。崖の上なのでちょっと行って見る気がしなかったが、毛利元就は厳島合戦の折、この八幡宮に参拝して戦勝を祈願したという。その際ちょうど朝日が昇ったため、元就は高揚し士気を高めたことから、この付近の山を旭山、社名を旭山八幡宮と名付けた。
 JR山陽本線の踏切を越え、西広島バイパスの高架下をくぐる。高須3丁目に来ると、右手に大きな●延命地蔵がある。側に「是ヨリちたふ(ぢぞう)道」と書かれた道標がある。13:56

 その先右手に●茶道「上田宗箇流]家元の屋敷がある。案内板は特にない。上田宗箇)は浅野家に仕え、家老として広島入りし、小方一万六千石を領有した。千利休、古田織部らと親交も深く、武将茶人として名を馳せた人物で、作庭家としても名高く、広島の縮景園をはじめ、和歌山城や名古屋城、旧徳島城の庭園など数多くの名園を残しているとのこと。
 広電、古江駅を過ぎて踏切を渡ると右手に●鷺森神社がある。往古このあたり一帯は海辺であり、漁船の出入りが多く、の船着き場として栄え、海の神、市杵島姫命をお祀りした。社殿は原爆の爆心地から約5km。爆風にも耐えたそうである。  14:20

★海蔵寺 
 そのすぐ先を右に入り、石段を上がって、JRの踏切も渡って行くと、高台に●海蔵寺がある。応永年間(1394〜)に中国僧、慈眼禅師の創建といわれている曹洞宗の寺である。
 浅野時代は本家家老、東城浅野家の菩提寺として明治初年までつづいた。
 墓地には東城浅野氏歴代の墓の外、秀吉に攻め滅ぼされた小田原城主●北条氏直のものと伝えられる墓がある。不思議な話で、真偽のほどはわからない。また山中鹿之助の二女盛江の墓もある   14:30

■草津東〜草津南駅
 御幸橋の手前、右手に大きな古い旧家が見えた。●小泉酒造という。案内板が立っていて、江戸時代の終り頃の建物。大きな屋根に煙り出しが付き、軒が長く低い。
 明治18年に明治天皇行幸の休息所に利用された。その記念碑店の前に立っている。
 このあたりは間の宿、草津宿があった所といわれる。
 神功皇后の征韓伝説で軍津浦輪(いくさつうらわ)と呼ばれ、軍船が集結したとされる。草津宿は広島城下と廿日市宿との中継地の間宿として繁栄していた。しばらく進んだ左手に●大釣井がある。このあたり新道ができるまで、海であったといわれ、漁民や町人の貴重な飲水に使われ、また防火用水としても使われたという。   14:40

 草津は宝暦年間から文化年間(1751〜1817)の間に何回もの大火に見舞われており、町並みには●うだつを備える家が多く見られた。あまり本格的なうだつではなく、軒うだつ程度ののものであった。
 街道は国道2号線に接して、すぐUターンして進む。 
広島電鉄の踏切の手前左手に大石餅跡がある。このあたり景色の良い所で、旅人はここの茶屋でひと休みして次の旅への元気を出したと思われる。店の前に大石があったので大石餅と呼ばれた。平成10年に惜しくも閉店し、●旧井戸などが民家の奥に残っていた。   14:50

■草津南駅〜八幡橋
 広電の踏切を渡って、JRに沿って進み、山陽線西原ヶ尻踏切を渡る。
 ●新井口駅前を右方向に進み、井口の旧町並みを通る。真っ直ぐ進み正順寺の手前まで来た。本来の街道は寺の北側を通り、「龍神山を登って進み、更に鈴が台の住宅を通過して行かなければいけないようだが、道が消滅してしまっているようなので、寺の手前の「おおすみストア」の所を左折した。案内図が広電「井口駅」前に立っていて、よく理解できた。黄線の様に進んだ訳である。途中右手に●塩釜明神がある。右手に「鈴峯女子短大」があって、卒業式姿の学生と出会った。八幡川に架かる●八幡橋を渡った。左手に山陽本線「五日市駅」がある。   15:40

■八幡橋〜五日市
 駅前通りを横切って、その先を左折し、五日市2丁目をぐるっと右回りに回り込んで行くと、●古風な2階建の家がある。左折するのが旧道だが、右へ行くと●五つ神社がある。祭神が言代主神など5神ということが社名の由来になる。こちらの道は江戸初期の西国街道であったといわれる。
 その先に光禅寺がある。門前に●光禅寺誓いの松というのがある。石井兄弟誓いの松とも呼び、忠臣蔵のヒントにもなったという伝説が伝わる。隣に原爆慰霊碑がある   15:56  

■ 五日市〜佐方本町
 元に戻って、左折して再び山陽道を行く。古浜第5踏切の所は直進しているようだが、線路で遮断されているので、古浜第5踏切を渡って迂回して行く。
 楽々園の辺りに所々●旧山陽道の松並木の名残が見られる。
 岡の下川に突き当る所に●壹里標「従是元安橋東詰三里」という。標石がある。壹=壱の異体字
 海老橋を越えてすぐ左折。三筋橋で右折する。しばらく真っ直ぐ進み、西隅の浜の交差点から崖の見える道へ入ると、右手に●大きな石碑が建っている。「西国街道壹里塚跡」と刻まれている。    16:37

 ■佐方本町〜桂公園
 佐方中橋を渡ると、左手に大きな松が一本見え、●街道松の名残の一本である。
 その先街道は直進するが、一つ先を左折して、桜尾城址に立ち寄ってみた。鎌倉時代以来320年にわたって厳島神社や佐伯郡一帯の神領を治めていた厳島神主家の居城址であり、現在は●桂公園という広場になり、桂太郎の揮毫による桂公園碑が建つ。毛利元就と陶晴賢が戦った厳島合戦(1555年)の際、毛利軍の本陣となった場所で、合戦に敗れた陶晴賢の首実検はここで行われたといわれる。   16:50

 ■桂公園〜廿日市天満宮
  公園から下りてきて、西南の方向へ進むと前方に●「石州津和野藩御船屋敷旧趾」という石碑が立っている。津和野亀井藩の屋敷が建っていた跡で、このあたりを芸藩から借用して、上方往来の中継基地としたもの。
 ぐるっと回って来ると、突き当たった所に「廿日市招魂社」がある。明治天皇の小休止碑がある。
 右手に●廿日市天満宮がある。社殿は崖の上にあり、疲れたので上がる気力が起きず下から覘くだけですました。17:01

 ★旧廿日市宿
 天満宮の所は旧廿日市宿である。左手中央公民館が●廿日市宿本陣跡になる。「芸州廿日市御本陣旧趾」と刻まれた石碑が立っている。代々山田氏が本陣を勤めた。
 その先では道が屈折し枡形と思われるが、角に町屋跡を発掘調査した写真と解説板が立っている。
 第二次長州戦争の際、広島藩士により長州軍の廿日市通過阻止と士気を高めるため町屋に火が放たれ、町屋は3日間燃え続け、三分の二が焼失したという。
 ●廿日市1丁目に入るとうだつが多く見られる民家が並んでいる。 17:20

 29 廿日市宿
 廿日市は厳島神社の神領であり鎌倉時代に厳島神社の神主として鎌倉から藤原氏が移住している。毎月廿日に定期市が立っていたので廿日市の名が生まれた。西国街道の宿駅としては馬15匹が置かれ、本陣は山田屋が代々務めた。津和野街道も通り、津和野藩の御船屋敷なども置かれている。

 ■廿日市天満宮〜市役所前(平良駅)
 道なりに曲って行き、「町の金融機関跡」とか「口屋番所跡」などはわからず通過した。
 左折して行くと、右手広電線路脇に●福佐売神社がある。貞観14年(872)、土地の人、榎本蓮福佐売を賞して位階を与え、戸内の租を免除し、その貞節を村のかどに表彰したというのが由来という。
 可愛橋を渡ってすぐ右折、斜めに進んで行くと、前方に●広電の市役所前(平良駅)がある。今日はもう遅く、きりが良いので、そのまま広電に乗り、宮島口駅へ。ホテルは「宮島コーラルホテル」だった。28km弱 良く歩いた。  17:25 終了

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