塩の道・秋葉街道を歩く3
   一の瀬~秋葉神社上社
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 一の瀬-花立茶屋-八幡神社-田能-小奈良安-瑞雲坂-犬居-秋葉下社坂下秋葉寺秋葉上社 18.4km


 2023年10月17日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■一の瀬~乙丸
 袋井駅前、朝6時52分発、乙丸行きの秋葉バスに乗り、一の瀬に着いた。元開橋から乗客は自分のみ。、早速●「戦国夢街道ハイキングコース入口」の階段を上ります。今日は秋葉山上社までの少々強行軍になります。階段を上がると、馬のモニュメント下に"徳川家臣 鵜殿藤五郎光成戦歿之地" という石碑があります。天正2年、家康と武田方との「一の瀬の戦いで」徳川方の武将「鵜殿藤五郎光成」が討ち死にをとげたという碑です。「一の瀬の戦い」といっても、家康が秋葉山麓の瑞雲院に本陣を張ったというので、案外と広い戦場だったという感じです。上った先は●林間の土道で、木の階段や、ロープもあり、よく整備されていて、10分位で、●地蔵像がある舗装路で出ました。「歴史の道調査報告書」では、秋葉道と乙丸村村道との分岐点に建てられ、道標も兼ねているという。  8:18

 ■乙丸~花立茶屋
 左折して坂を上がって行きます。左手に、「左一ノ瀬 四百米」「右大久保二千米」の "石標"がある。右手に「←花立茶屋800m」の木標が見て、先に進むと、●「万歳坂」という所へ来て、案内板が立っています。"案内板" 。・・この地域一体は、浜松城城の徳川軍と犬居城の天野軍(武田方)の戦った古戦場である。戦いを優勢に展開した天野軍が、この附近で勝どきをあげたので、ここを「万歳坂」と呼ぶようになったと言われている・・。 その先右手に民家がある。左空き地に「阿弥陀像」があり、道標を兼ねている。 その先に●東屋が建っていて、脇に"案内板"が色々立っている。秋葉街道は「通行不能」の道のようで、通れない。 ここは「石張歩道」を行くことにします。 "花立茶屋の案内板"●石張歩道に入りました。8:35

 ■花立茶屋~八幡神社分岐
 ●石張道の途中"「馬墓地」"という案内板があります。戦国時代、この地域は徳川と武田の戦いの舞台となり、多くの死傷者が出たが、馬も数多くたおれた。その馬をここに葬ったのが初めと云われている。明治、大正、昭和初年までは、この森は公認の馬の墓地であったという。 やがて、先の県道が合流してきて、●5差路になっている所へ出た。案内板が立っていて、右方はコース外、真ん中は県道で、「三丸・塩の道コース」となっている。 左方からは「半命(明)コース」が合流してきている。この半命コースは三倉から栄泉寺を経由する「塩の道ウ-ク」のコースと思われ、ここで合流して、一緒に秋葉山へ向かうことになるのでしょう。
 すぐ先に、●「戦国夢街道」の旗と、「←八幡神社800m」の案内板があるので、左手へ入って行きます。 8:40

 ■八幡神社分岐~八幡神社
 これから先は「秋葉道踏査研究会の」案内板が要所々に立っているので、それに従います。 右手に地蔵堂があり、「地蔵森」の案内板があったが、まあよかろうと思って通過した。 左右に茶畑が広がります。 右手に●「←八幡神社500m」の木標と、「研究会」の案内板があり、矢印に従って左に行く。 その先、前方の道が三方向に分かれるが、一番右の道へ入ります。 「大久保」の集落の中を通過して行く。 "「権現森(大久保)と霧吹谷」" という案内板あります。天正2年の家康の犬居城攻めは撤退を余儀なくされたが、谷からの濃い霧に守られたという。 しばらくして、●「←大慶寺200m」、「八幡神社100m→」の木標と、「研究会」の案内板がある所へ来て、案内に従い、右へ曲がります。 ●八幡神社への近道のようだが、右側は急な崖で、ロープが張ってあり、注意しながら、進みます。 8:52

 ■八幡神社~
 左手に●八幡神社に到着。 "案内板" このあたりでは規模も大きく、由緒有りそうな感じ。隣は●旧大久保小学校の跡地。 県道に下りた先の、真新しい住宅が数軒並んでいる所が眺めが良く、「戦国夢街道景色図」という、案内板がある。●中央のこんもりした山が「白山、右が菰張山」というらしい。 9:05

   ~若杉家跡
 しばらく進むと、●右手後方からの道との三叉路になって、「戦国夢街道 若杉の屋敷跡」の石標やベンチやらが置いてあり、チェックポイントになっています。左手の●茶畑は若杉家の屋敷跡ということで、"案内板" が立っています。当地は秋葉街道と百古里(すがり)街道が交差していたために人の行き来もあり、武田方の軍師山本勘助が一夜の宿を借りた所でもあったという。
 その先、●二股があり、「戦国夢街道」の幟旗、「研究会」の案内板などに従って。左手の上り坂を行きます。 9:11

 ■若杉家跡~秋葉道標
 少し先、"「板妻の里」"という案内板が立つ所がある。男たちが伐り出した角材や板を、妻達が運搬の担い手となったりしたので「板妻の里」というようになったという。 その先●林間の中を抜けて行くと、●建物にぶつかり、右へ曲がって行く。 そこに"道標"が立っていて、「秋葉道七里」と彫られている。これは掛川からの距離が7里ということになります。 "案内板"  9:22

 ■秋葉道標~大日道標
 すぐ先、左手に"秋葉街道と信濃茶屋" という案内板が立って、●一軒の廃屋があるが、これが信濃茶屋跡なのだろうか?。江戸時代の中頃、信州出身の商人が、ここに旅籠屋を開き、繁盛していたことなどが書いてある。 その後、右手から県道が合流してきて、●三叉路になって、数軒の民家が建っています。  「戦国夢街道 小沢の宿」の石標。「研究会」の案内板などがあるので真っ直ぐ進みます。 すぐ先は二股になって、正面に「左 秋葉山方面」という石標が立つので、左手を取ります。このあたりは「田能」の集落の外れで、民家が数軒建っています。 ゆるい坂を下って行くと、浜松市に入り、●三叉路にぶつかります。左手角に"大きめの大日道標"があって、「従是大日道」と深く、はっきりと刻まれ、安永癸巳(1773)のもの。「研究会」の案内に従って、ここは左に曲がります。 9:35

 ■大日道標~瑞雲坂
 クネクネとしたゆるやかな坂を下って行くと、●小奈良安の集落に入ります。道は二股になって、左手角に秋葉山常夜燈が立っています。ここを右へ曲がると、いよいよ民家のない、長い山道を行くことになります。 多分人気がない所で、単独行動になると思うと、少々不安になる。 この地方、クマはいないらしいが、イノシシがいるらしい。 ●山道に入ります。 簡易舗装で轍があります。車が入れるみたい。 ●二股にやって来て、正面に「←堀之内城山コース」の案内板があります。 ここは直進というか、右手へ行きます。10:17

 ■瑞雲坂~
 やがて右手に●大日如来像の小祠に出会いました。ここから瑞雲坂を下って、町中へ下りて行きます。この像を見逃して、直進すると気田川の断崖に飛び込むことになるというから、恐ろしい。 如来像は宝暦2年(1752)のもの。ここまで40分位。
 右手●瑞雲坂を下る。これが案外急坂で、道も削られたか、片足くらいの幅しかない所もありで、片側、急な斜面へ滑落の恐れあり。浮き石もありで、風景を見る余裕もなく、足元に注意しながら下りた。昔は塩を積んだ馬や牛が通ったと思うので、昔の方がゆるやかだったのかもしれない。 やがて●草道の広い所へ出た。そのまま下りて、NTTのビル脇に出てきました。10:40 

               ~犬居宿
 国道に下りて、向い側に●瑞雲院。創建は養老2年(718)というから古い。天正二年の武田方との戦いの際、家康は、ここに本陣を張っている。 犬居橋を渡り、すぐ左折。 左手に●秋葉山常夜燈がある。気田川渡船場付近に建てたもので、渡船はこのあたりに着岸している。 道なりに右折して行くと●旧犬居宿に入ります。犬居宿は二俣・森方面と北遠・南信地方などとを結ぶ交通の要衝で、中世、天野氏配下のもとに市場が営まれた。江戸時代、旅籠が建ち並び「乾町」とも呼ばれ賑わった。が、浜松からの街道に当たる「領家村」の方の旅籠が発達し、衰退していったという。現在では県道が拡幅され、面影は残っていません。 10:55

 ■犬居宿~秋葉神社下社
 国道362号を横切ると右手に●春野ふれあい公園がある。その前に何度も見る、「塩の道」石標がある。 その先●二股があり、「原 ↗」の標識がある。「調査書」の地図を見ると、ここから右手の坂を上がって行き、秋葉神社裏手にあたる、「原」の集落を突っ切って、「坂下」方向へ向かっている。 また南方向から浜松からやって来る、別ルートの秋葉街道が「秋葉橋」を渡って、坂下へ向かっている。 そこで「原」へ向かうべく、右手の坂を上がって行った。途中右手に入る道があり、「←犬居城址」、「秋葉神社上社、下社→」とかの標識があったりする。どうも「原」集落を横断する道ではない気がして、迷っても困るので、そのまま通過して、県道へ下り、●秋葉神社下社の前に出ました。参拝するのは山を下りてからと思って、通過して、坂下へ向かいました。11:32

  ■秋葉山登山■
■九里橋~秋葉神社上社の往復

 下社を通過して北上、右手に入ると●赤い九里橋に出会います。ここから秋葉山登山が始まる。九里橋は「坂下宿」の入口にあり、坂下宿は秋葉山参拝者で賑わった所で、幕末では旅籠が11軒あったという。現在ではすべて廃業してしまいました。
 ●宿内の道は石畳で、只真っ直ぐな坂で、ふくらはぎが伸びっぱなし。●登山道取っつきは石畳が固めてあり、楽に上がれます。
秋葉山は登りが2時間、下りが1時間半位の3時間半が標準といわれる。帰りのバスが4時5分で十分間に合うと思っていましたが、後であせりまくることになりました。(;。;)。 11:47 

 ●三の鳥居。正徳4年(1714)、彦根代七代井伊直惟が銅製鳥居を寄進。昭和30年代まで残存していたという。 いきなり三の鳥居から始まったが、この場合、・・浜松からの秋葉道では、「秋葉道一の鳥居」は浜松駅前にあったが、消滅している。「二の鳥居」は遠州鉄道「小松駅」付近に存在しているということなので、この「三の鳥居は」浜松からの秋葉道の鳥居ことを指しています。  ここから●本格的な山道に入ります。 簡単な土の道ではなく、ガレ場で、木階段の段差が一定でないので、余計な疲れをかんじます。浮き石だらけで下手をすると捻挫の恐れもある。足元注意で、風景など楽しめませんでした。 朝から登山だけする場合は、楽な行程かもしれないが、一の瀬から10km以上歩いて来た身としては、楽ではなく、ちょっと上っては、一息入れる・・というような状況でノロノロと進みました。 途中、特徴的な "秋葉常夜燈" が立っていたり、"町石"が立っていたりします。1時間弱で●富士見茶屋跡へ到着。空き家が建っています。12:45

  ●左右対称の、上部が倒壊したであろう常夜燈の間を抜けると、●四の鳥居跡に着く。鳥居はありません。かつて、明和2年(1765)秋葉寺任超住職の揮毫による「最勝関」と書かれた額が架かる銅鳥居が立っていたという。 その先、●子安地蔵尊がある。・・安産祈願をし、大願成就の暁に底を抜いた杓を奉納する・・と云われ、底の抜けた柄杓が沢山奉納されている。 12:54

 やっと●秋葉寺山門に着いた。 秋葉寺は元々山頂にあり、秋葉社の別当寺として、山全体を管理する寺であったが、明治の廃仏毀釈により、廃寺となり、仏具や本尊、三尺坊は袋井の可睡斎に運ばれ、秋葉山頂上に「秋葉神社」が建てられた。その後再興が許可され、現在地に移転してきたいう。 山門は明治以降「随神門」と呼ばれていたが、現在は寺なので「山門」と呼ぶ。 「秋葉山HP」●本堂。聖観音と遠江天狗の総帥であるともいわれる神仏習合の神「三尺坊」を祀る。 時間がなさそうなので先を急ぐ。 上社まで800m。 ●「五の鳥居跡」があった。寛政十年(1798)甲州の人々が寄進した銅鳥居だったが、今は基礎部分と朽ちた柱が横たわるだけ。 13:42

 ●秋葉神社神門に到着。天保2年(1831)に建造された、昭和18年の山火事を逃れて今に伝わる。 すぐ先が●秋葉神社上社「秋葉山本宮秋葉神社」と称する。新しくて壮大な社殿が広がっている。18年の山火事で全焼し、61年の再建になる。
 秋葉山信仰についての理解がややっこしいのだが、江戸時代までは秋葉大権現を祀る「秋葉社」と聖観音を本尊とし、護神として「三尺坊」を祀る「秋葉寺」が併存し、「秋葉寺」が別当として管理にあたっていた。 明治の廃仏毀釈で「秋葉寺」は「無住職」の寺であるとして廃寺となり(明治13年再興)、聖観音像や三尺坊は「可睡斎」に移された。その後、再興した「秋葉寺」に聖観音や仏具は戻されたが、「三尺坊」は「可睡斎」に置かれたままになった。 現在では火之迦具土神を祀る「秋葉神社」、「秋葉寺」と「可睡斎三尺坊」と3つに分かれて併存している。 14:05 九里橋からここまで2時間25分かかっています。 

  ●上社展望台からの眺め。 方角としては袋井、浜松方面。 帰りは4時5分のバスに余裕で間に合うだろうと思って、下山を始めたが、これが浮き石が多く、滑りやすいのもありで、ゆるゆると下りて行ったら、時間がかかり、おまけに道、間違えて、「千光寺」に行ってしまったりで、「秋葉神社前」バス停に着いたのが、3時50分。「下社」参拝する時間がありませんでした。 秋葉バスで「北鹿島駅」、遠州鉄道で「浜松駅」、「豊橋」へ向かい、翌日「長篠、設楽が原古戦場」廻りをして帰りました。