鎌倉街道下道を歩く2
           (保土ケ谷~丸子橋まで)
 歩行地図はこちら 地図
 保土ケ谷-帷子川-峰岡町-三沢公園-片倉台-菊名-大倉山-網島-日吉-えがわ緑道-御殿町-丸子橋     21.48km


2014年8月23日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■保土ケ谷宿高札場跡~大蓮寺
 鎌倉街道下道の3日目。今日は旧東海道保土ケ谷宿の途中から始まる。下道は保土ケ谷宿を横切っており、宿場の一本北側の裏道が「鎌倉下道」といわれているので、●保土ケ谷宿高札場跡の所を右へ入って行く。
 ●旧道は左側は崖が迫り、どうということのない裏道である。左手にセント・メリー幼稚園がある。本当は手前で右折して1本東側の真っ直ぐな道を行かないといけないようだが、そのまま進んだ。この道は行き止まって右折する。
 1本東側の通りに移り、進んで行くと左手奥に、●「日蓮大聖人御霊跡、大蓮寺」がある。「仁治3年(1242)日蓮21歳の時、比叡山へ遊学の途中保土ヶ谷宿の民家に泊まった際、開眼感得を得られたという釈尊像を祀っている。  10:05

■大蓮寺~帷子川
 寺を過ぎると「神明社前」の交差点。交差点の右手に●「古東海道」・「相州道」と刻む新しい道標が立ち、その先に赤いトタン屋根の庚申堂がある。●青面金剛二体と地蔵が安置というか雑に置いてある。おまけに足元に五輪塔の残滓らしき石がいくつか放置されている。 交差点の左側には●「神明社」がある。旧伊勢神宮領榛谷御厨総鎮守といい、詳しくはHPをどうぞ。      http://www.shinmeisya.or.jp/  踏み切りを渡り、古町橋を渡る。  10:20

■帷子川~峰岡町
 古町橋の流れるのは●帷子川。渡ると天王台団地の中を通って、旧道は消滅していると思う。団地を過ぎて天王町商店街を通り越すと、国道16号の「宮田町2丁目交差点」へ出る。
 そのまま横断して●一つ目の信号を左折する。ここから先は●裁判所通りというかなりの長い坂道が続いて、いささかうんざり。車も大変そうにあえぎながら上って行く感じ。   10:30
■峰岡町~第三京浜・岡沢橋
 途中「鎌谷町」のバス停を過ぎた先、先へ歩くと鎌谷町、峰岡町、岡沢町・の町境から●右斜めに入る細道が旧古道である。なにか看板でもないと通過ぎてしまうような細道になっている。
 入って行くと右手に「鎌谷町公園」がある。尾根道なのだが両側に住宅がびっちりと建って眺望がきかない。が 時々住宅が切れている所は見晴らしがいい。狭い道なので車の往来が少ないのもとても良い
 やがて緑が深い●三沢公園になる。陸上競技場やら色々と運動場がある大きな公園で、当然旧道は無くなっているのだろう。そこで公園の西縁の道を歩くことになる。 やがて下り坂になって、下りきると左側に横浜市立市民病院がある。右手に入る狭い方が旧道で、進んで行くと第三京浜を越える●岡沢橋に出会うのでここを渡る。   11:05

 ■第三京浜・岡沢橋~片倉台団地
 道第三京浜と国道1号と新横浜通りの間の三角地帯を下りながら「三ッ沢上町」交差点歩道橋の脇に出る。頭上は新横浜通りの陸橋。ここは歩道橋を渡って国道1号を越し、そのまま新横浜通りの向側へ出る。●陸橋下から「キャベジンコーワ」の看板の方向へ上り坂を上がっていく。こちらの方が旧道である。 さて このあたりで雨がしょぼしょぼと降ってきた。あんまり降るようだと今日は短く終わりにしたいかな思う。
 上り詰めた先は●畑が広がっていて、いささかほっとする感じ。その先に中丸小学校がある。学校の左を進むとに突き当たるので。学校にそって右へ回り込むと中丸橋を渡るようになる。 橋から350mも進むと●片倉台団地にぶつかり旧道は消えている。   11:30

 ■片倉台団地~岸根公園
 団地の中は ま 適当にGPSを見ながら東北方面という方向だけ気をつけて進み、「石黒木材」という会社の脇の下り坂を下った。そのままずうーっと下っていくと、●神大寺小学校とゴルフセンターの間の交差点に出た。
 ここで右へちょっとそれ、JAの前あたりの住宅地の中に入っていくと、日枝神社の案内看板があり、その奥に●日枝神社がある。尚神大寺は(かんだいじ)と読む。
 また先ほどの交差点に戻り、通りを渡って前方右手に見える坂道を上がって行く。又かなりのきつい坂になっている。やがて緩やかな平地になると右手に一面の畑が広がっている。神大寺は畑と住宅が混在する地域のような所と思う。
 やがて「六角橋中入口」信号で県道の広い道路へ合流した。右に曲がり●県道を右へ行くと、左側は大きな岸根公園が広がっている。県道の方が一段高くなっており、公園を見下ろす形である。 雨がひどくなってきたので公園に下りて少し雨宿り。 12:00

 ■岸根公園~菊名駅
 「西岸根交差点」を渡ったら少し先で短い区間だが旧道が残っているのでそちらへ回って見た。ここは200m足らずで県道へ合流する。その先「武相台バス停」の四つ角を左折する。又尾根に上がる急坂で●半円状に右回りにぐるっと回っている。この先は尾根路で住宅で邪魔されるが左右の眺望が良い。
 前方に緑の森が見えて来た。●篠原八幡神社がある。残念ながらお祭りの準備中で社殿の前にテントが張ってあり邪魔っ気な感じ、境内の中はゆっくり見られなかった。建久3年(1192年)に武蔵国橘樹郡鈴木村の鎮守として鎌倉鶴岡八幡宮より勧請された結構由緒のある神社であった。 神社の前を過ぎ右の尾根道に入る。ここも3町の境界線の上で、鎌倉街道の定石の通り。左右は全くの住宅が並び、特に右側の住宅は新しいようだ。やがて下りが始まり、だらだらと下っていくと正面に●JR横浜線の「菊名駅」のホームが道路上に見えた。旧道はガードをくぐった右へ続くのだが、東横線の「菊名駅」で寸断されてしまった。
 ということでまだ時間は13時なのだけど、雨も降るしキリもいいので今日はここで中止ということにした。それでも13km程歩いた。 次回は菊名駅東口から再開したい。    13.00

2014年8月31日
■菊名駅~大倉山
 9時40分●東急「菊名駅」東口へ降り立つ。さて旧道だが駅舎で分断されて東口駅前から再開している。駅前から左側へ少し歩くと、交差点に出る。ここから右斜め前への道が旧道である。旧道は左回りの弓状に続き、綱島街道である県道2号に合流している。旧道に入ってすぐ左手に●「菊名神社」がある。祭神は誉田別命、天照皇大神、日本武尊、木花咲耶姫命、武内宿彌命と豪華オールスター。元々5社別々なものが昭和10年に合祀されてこうなったという。改修で近代的になってしまっていわゆる神社らしさは消えている。 港区役所裏を通るとほどなく●県道へ合流した。     10:35

■大倉山~鶴見川
 県道へ出ると右手に小さいながら深い浮き彫りが印象的な●●庚申塔がある。県道に沿って進み、太尾町のバス停の先を右へ上がって行くと●師岡熊野神社がある。左隣に法華寺があるが、熊野神社の別当寺で明治の神仏分離令で別れたという。神社は神亀3年(726)創建と伝えられ、「筒粥」という作物の豊凶を占う神事が残っている。
 県道に戻って先に進み、「大曽根町のバス停」の先、●右手のベーカリーレストランの信号で左の旧道へ入る。650m程旧道が残っていた。、県道と合流すると鶴見川に架かる「大綱橋」に出た。ここは昔より交通の要所であり、すでに応永12年(1405)に綱島橋が架けられたと云われている。   10:57

 ■鶴見川~吉田橋
 ●鶴見川を渡る。昔は下流の屈折が激しいため、大雨で必ず氾濫し流域の村々に度々被害をもたらしていたという。 橋を渡り、綱島交差点を左折して、右斜めの「東照寺」の方へ行かないとならないところ、忘れてしまって●バス通の県道を真っ直ぐ行ってしまった。綱島はその昔綱島温泉があって、かなりの歓楽街があったといわれているが、現在はその面影は感じられない。温泉のあった東口よりも西口の方が賑わっているように思う。
 しばらく歩くと、郵便局の先、吉田橋バス停手前に●右へ行く細い道が分岐している。これが旧道で右折して進む。  11:25

■吉田橋~日吉本町駅
  右折するとすぐ右手に朽ちかけた堂がある。●「来迎寺」という。現在は無住のお寺になっているようだが、それでも草むした空き地にはいくつかの庚申塔や石仏が残されて昔は繁栄していたのだろうかと思わされた。
 「来迎寺」の脇をそのまま進んで行くと見事な長屋門に突き当たる。●飯田家の長屋門である。説明版によると「飯田家は旧北綱島村の旧家で、代々名主を務め、荒地の開墾、農業の振興、鶴見川改修などに尽力しました」・・・とある
 飯田家の先に「綱島郵便局」があり、左側の「北綱島特別支援学校」から先は真っ直ぐな道が続いている。区画整理で真っすぐな道になったが、旧道はほぼこの道筋を通っていたという。 やがて●市営地下鉄グリーンライン「日吉本町」にぶつかった。後ろは丘になっている。   11:52

 ■日吉本町駅~西量寺
 旧道は丘を上っているようであるが、その前に駅前を右折して少し行くと●金蔵寺がある。天台宗の寺院であるが、国家鎮護道場という大層な石柱が立っている。貞観年間(859~)に清和天皇の勅願により智証大師が創建したと伝えられる。江戸時代は上野の寛永寺の末寺として栄え、敷地面積は2万坪。徳川家康・秀忠父子により梵鐘が寄進された。本堂前の灯籠がハデな造りで、水屋もハデ。
 駅まで戻って来て駅の右側の少し先を左へ入ると、突き当たりになって、●階段で丘を上がる。 この先は2説あって、丘を上がる説と東へを迂回して西量寺へ回る説とがある。 カシミール3Dで明治の地図を見ると西量寺の東側は水田であるのでこっちの方が楽かも知れないが、 芳賀氏の説に従い丘を上がる道を採ってみた。
 丘を上がると、建物が建て込んでいるのだがさすがに眺めが良い。この先西光院の西側に出るのだが、住宅で道が消えている。その為適当に西量寺の方向に向かって進み●西量寺の西側の坂を上がる。   12:20

 ■西量寺~下田神社
 寺の西側の坂はかなりの急坂で結構つらい。上がっていくと広い通りに出て、目の前は●「サンヴァリエ日吉」という団地が広がる。そのまま横断して、団地の間を今度は下っていく。下りきると●水路が暗渠になっている所がある。右手に●「鎌倉街道」の新しい石碑がある。 駒が橋があった跡で「源頼朝がこの地を通過したとき、駒(馬)を橋のかわりにしたことからここを駒が橋と言うようになった」という説明が書いてあった。
 先に進み、バス通りの交差点を右へ少し行くと、左手に真福寺があり、またその先左手に●下田神社がある。  12:40

 ■下田神社~小関橋跡
 交差点に戻って細い坂道を上ると、●右側が公園。左側が住宅地の所に出た。ちょうど横浜市と川崎市との境界になっている。左側の住宅にはミニパルテノン風な玄関があったりして、面白い感じ。
 この先は中原養護学校の左側へ回るのだが、学校に沿って左へ行くと行き止まりになってしまう。そこで右側(西側)を注意しながら戻ってみると、●坂を下る細い道があった。ここを下るらしい。下る先の地名も蟹ケ谷というから谷へ下りて行くわけだ。
 入った道は細いコンクリート道で、分譲地の擁壁の間を下って行く。坂を下ると左に地蔵堂、右に庚申堂がある。
 広めの道を右に曲がって進む。矢上川を橘橋で渡り、県道を越えると●「江川せせらぎ緑道へ」出る。脇に●小関橋跡という石碑が立っている。江川は矢上川の支流で中原区と高津区の境界を流れていたが、現在は遊歩道として整備されている。
 この先のルートはわかっていないが、芳賀本では「江川を渡り、東へ曲ってから大戸神社前に出たのであろう」と推定しているのでそれに従った。     13:15

 ■小関橋跡~大戸神社
 緑道の一つ先を右折し進み、下小田中小学校を左折して広い道を北へ進んだ。やがて●「大戸神社前」交差点で中原街道にぶつかり、正面は●大戸神社である。大戸神社は、永正11年(1514)に信濃国戸隠神社を勧請し下小田中村の守護としたという。ちょうど祭礼の日にぶつかり、境内が騒がしく落ち着いて参拝できず。以前中原街道を歩いた時、一度訪れているので当時の写真を紹介しておく。ここの狛犬はなんと手に砲弾を持っているのだ。日露戦争の戦勝記念かも知れない。
 神社の前を東西に通る道は●昔の中原街道であり、ここから江戸方面は下道と一部兼ねている。正面に南武線の「武蔵中原駅」が見える。13:45

 ■大戸神社~御殿町
 一度歩いているので細かくは見ていかないが、要所々見ておきたい。左手に「泉澤寺」がある。戦国時代世田谷に勢力を持吉良氏の菩提寺として創建された。
 その先二ヶ領用水、小杉十字路と越えて進むと小杉御殿町。突き当りは●枡形になっているので左へ曲がる。左側に●「西明寺」がある。このあたりは江戸時代初期に「小杉御殿」が建てられた所である。小杉御殿とは徳川家康が江戸に入る頃はこの街道が江戸と上方を結ぶ重要な街道であた。ここを通る将軍や諸大名の宿舎として利用されたのがこの小杉御殿である。その後東海道が整備されるにつれこの道は利用されることが少なくなり、ここも衰微していった。現在は地名として残るのみ。
 西明寺参道を過ぎた先、マンションの脇を左に入ると赤い鳥居が立っていて、ここが●小杉御殿の御主殿が建っていた跡である。またその先左へ入って行った「陣屋町中公園」の所に●小杉陣屋跡がある。ここに二ヶ領用水を完成させた代官小泉次太夫の陣屋があって、小杉御殿ができるまで家康が鷹狩の時休憩や宿泊に利用していたという。  14:25

 ■御殿町~丸子橋
 中原街道に戻ってきて多摩川へ進む。左手に蔵がある古そうな家は醤油を醸造していた●石橋醤油店。やがて東急東横線のガードをくぐると「丸子橋」交差点へ来た。左へカーブしているのが丸子橋へ向かう道であり、旧道は直進しているのでそのまま横断して、向かい側の細い道へ入る。直進すると●多摩川の土手にぶつかる。このあたりを渡し船で渡っていたらしい、今ではグランドがあったりして川の流れが見えなくなってしまった。土手の上に●丸子の渡しの碑が立っている。渡しは昭和10年まで続き、丸子橋の完成により廃止された。 ここは丸子橋を渡るしかなく。●丸子橋を渡る。
 さて本日はこの先池上まで行ったのだが、頁が長くなったのでここで頁を改めることにしたい。   14:56

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