西近江路を歩く 4
     (大津市~海津町)
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 新旭駅-熊野本-木津-今津-ヴォーリズ通-宮森公園-石田川-マキノ-海津      17.80 km
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2013年3月9日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■新旭駅~熊野本
  滋賀北地方が大雪のこともあって3週間ほど来ることができなくて久しぶり。今回で西近江路の最終回としたい。
 比叡山坂本から新快速に乗ると、30分足らずで新旭駅に到着する。ここは旧高島郡新旭村であって、 新儀村、饗庭村が合併し新旭町となる。「新」は新儀村の新だろうが、「旭」の名前はどこに由来するのかよくわからない感じ。現在はマキノ町、今津町を含めて5町1村合併で高島市になっている。
 今回は駅から数分歩いた●平井交差点からゴールの海津まで行こうと思う。平井信号から進むと右斜めに進むと、旧道らしき道があるのでそちらへ曲って行く。●今市という集落を通過する。集落を出た右手に「左 北国海道」と刻まれる●道標が立つ。左折して熊野本交差点を右折して、●県道588号を北上して行く。なぜか道路が赤茶けていた。

 ■熊野本~木津
 10分程歩くと●大国主神社が左手にある。江戸時代は、「今宮山王」と称していたが、その後大国主神社と称した。、●参道は両側竹林で、流鏑馬が行われたりして趣があり、映画の撮影にも使われているという。
 その後林照寺川を渡り、「饗庭交差点」で国道161号と湖西線を越えた。今川を越えたら川沿いに左に折れ、すぐ右折するといかにも●旧街道らしい雰囲気の道が続いている。 右手にポケットパークが設けられていて、●「旧北国海道(西近江路)改修記念碑」がある。

 ■木津~木津浜
 旧道が突き当る手前右手に●木津一里塚跡があった。塚の盛上がりはあまり感じられず、説明板がなければ気がつかない感じである。隣の廃屋に枝がまとわり付きすごいことになっている。
 突き当りの左角に●波爾布神社標柱と道標がある。道標には「左 京道」、「右 北国道」と刻まれている。
 波布谷川にそって右折して木津浜(こうつはま)に出た。今話題のPM2.5のせいか沖合いがほとんど見えない。このあたり小浜藩の藏屋敷があったり、竹生島詣りの巡礼船が出ていた。 湖畔に●竹生島遥拝所跡の碑が立つ。右手へ少し行くと、木津港跡があり、●木造の灯台があるが、新しいので当時のものではないだろう。

■木津浜~旧今津宿
 湖畔を●今津方面に北上して行く。松林が印象的。水際に小さな石鳥居が建っていて、常夜燈と大きな二つの石が並べ置いてある。●二つ石といって、本来の二つ石は沖合い100mの湖中渇水でないと現れない。ここで毎年7月28日に雨乞いの神事が行われている。 旧道は浄化センタ-先で、右斜めに湖岸の方に入って行く。松並木が続く道で●今津町に入ってきた。旧今津宿である。このあたりの道も赤茶けていて色が濃くなっている。もしかすると融雪剤の影響なのかもという気がする。

■旧今津宿~中沼
 左手に●式内大水別(おおみくまり)神社がある。社殿は水別神社とともに日枝神社と相殿となっている。境内に薬師堂があったが、神仏分離の際移された。 今津町の町並みに入ってきた。右手に観光船のりばがあり、桟橋の袂に●琵琶湖周航歌碑がある。「 ・・われは湖(うみ)の子 さすらいの・・・・・」でおなじみの歌詞が刻まれている。大正6年三高ボート部の「小口太郎」が琵琶湖一周の漕艇中にこの詞を思いついたとされる。作曲は「吉田千秋」という人物で、当時寮ではやっていたという吉田の作曲した、「ひつじぐさ」の曲に合わせて唄ったらぴったりと合って,その後広く普及していくわけである。
 道は町屋風の家が増えてきて、●宿場町らしい雰囲気が濃くなってきた。今津は琵琶湖に突出た島状の町であり、その為湖上交通と陸上交通が交わる交通の要衝となり栄えた所であった。

 ■中沼~日吉神社
 右手に●旧今津桟橋跡地がある。中ノ川左岸に桟橋が造られた。あたりには鮮魚店が多い。
 右手の●丁子屋はもと旅籠で、現在の旅館を経営している。木造二階建。片入母屋造で江戸後期の建築であるという。
道は●住吉神社の先で西へ向っている。神社は今津村の氏神で、弘安元年(1278)に当地に勧請されたと伝わる。

 ■日吉神社~ヴォーリズ通り
 旧道は日吉神社の先で左に曲がる。この●三叉路が今津と小浜を結ぶ九里半街道の起点となっている。九里半街道は、今津と小浜の距離が九里半(約38km)であることから名づけられたといわた。小浜に陸揚げされた日本海諸国の産物が、この道を使って今津に運ばれ、湖上輸送により京・大阪へ持ち込まれた。ここから西へ県道303号を行くと有名な熊川宿がある。
 左折して湖西線高架までの街道を別名●「ヴォーリズ通り」という。ウィリアム・メレル・ヴォーリズ (1880~1964)はアメリカ人宣教師として来日したが、建築家としても優れ、数多くの名建築物を残した。またメンソレータムで有名な近江兄弟社を創業している。 右手に旧百三十三銀行(現在の滋賀銀行)今津支店として建てられた●ヴォーリズ資料館がある。

  ■ヴォーリズ通り~栄町
 資料館向かいにベンガラと白壁のコントラストが美しい●町屋建物がある。その先右手に、ヴォーリズによる●今津教会会堂、その先に旧今津郵便局がある。 湖西線を越えると本来の通の名前の「辻川通り」に変る。しばらく進んで「住吉2丁目」信号を左折した先、JA今津東支店の前に●旧江若鉄道今津駅舎を見に行ってみた。江若鉄道は、湖西線が開通する以前、琵琶湖西岸に沿って北上していた鉄道で、浜大津と今津を結んでいた。湖西線開通により廃線となっている。鉄道の動画はユーチューブなどにより偲ぶことができる。

 ■栄町~石田川
 「住吉2丁目」に戻って、先に進む。栄町交差点を越えていくと坂を上がって行くと、宮森公園に出る。右手は自衛隊の駐屯地がある。右手に鳥居が見えている。そこを右折して●駐屯地沿いに進んで行く。ここは九里半街道との分岐点となっている。
 300m程進むと左手に鳥居があり、●阿志都弥神社・行過天満宮がある。木花咲耶姫命と 菅原道道を祀る。行過天満宮とは面白い名前であると思う。道真が越中の国守として赴任の途中、藤原時平に会おうとしたが、すでに通り越していたという伝承によるのだとか。 旧道はほぼ真っ直ぐ北上してマキノに向って入る。途中●石田川を渡る。奥に見える雪の残る山は箱館山あたりであろうか。 

 ■石田川~マキノ支所
 左に「今津北小」、擽原神社などを見ながら通過して行くと、左手に●日吉神社があった。このあたり「深清水」の氏神であり、大山昨命を祀っている。
 この先●高島市マキノの標識が立っていて、旧マキノ町に入った。現在カタカナの町名はマキノと北海道にニセコ町があるのみといわれる。ニセコはアイヌ語に由来するもので、漢字があるようだけどマキノはマキノスキー場に由来するそうで、面白みが感じられない。 国道161号バイパスを過ぎると、前方にトンネルが現れた。●百瀬川隧道という。ここは百瀬川が天井川になっている為、川の下をくぐっている。大正14年に隧道ができるまでは土手の上を急斜面で登る難所であったという。念のため上に上がって見たら、土手の真ん中を細く水が流れていた。 そのまま進むと●マキノ支所脇に出た。ここがマキノ町の中心であろうか。人もおらず静かなもの。

  ■マキノ支所~旧海津宿
 支所の先で右にカーブして進んで行くのだが、旧道はマキノ中学校の校庭を分断して東西に進んでいるようなので、迂回して行くしかない。そこでバス通りを進んだ。やがて国道161号に合流し知内川橋を渡る。
 国道を真っ直ぐ進むと、前方に●"マキノ駅"が見えてきた。西浜交差点を横断して湖岸に出て左折すると●海津町へ入って来た。昔の海津宿である。湖岸に出てみると石積みが続いているのが見える。海津には北陸からの海産物が運ばれ、海津港から航路大津などに向った交通の要衝であり、藏や宿場が営まれていた。ただ台風による琵琶湖からの風波の被害が大きく、江戸時代甲府藩領の元禄16年、代官の西与一左衛門が大規模な石垣の築造工事を実施した。

 ★海津宿
 左手●蓮光寺に代官だった西与一左衛門の墓がある。
 右手に「旧海津港跡」があって、●桟橋の杭が残っている。西浜、海津一帯に残る統的な石積みや生活習慣、伝統的漁法などが評価されて全国で5番目の「重要文化的景観」に剪定されている。左手に●蔵元吉田酒造がある。地酒竹生嶋を製造している。

 ■旧海津宿~海津交差点・七里半街道入口
 ●海津東浜へ来るが、伝統的な木造の民家が沢山ある趣深い町並であった。街道はその先で二手に分かれる。右に取ると海津大崎で、琵琶湖八景「暁霧・海津大崎岩礁」がある。左に折れるのが西近江路であるので左へ曲る。西近江路ゴールの●海津交差点に到着した。国道脇を●追坂峠へ通じる旧道が続いている。本当は追坂峠まで行きたいが、帰りの電車のこともあるので今日はここまでとした。 追坂峠を起点として終点敦賀まで、七里半街道と呼ばれた。若狭の海産物が七里半の陸路を経て海津で船積みされ、大津まで湖上輸送されて行ったという歴史ある街道であるので、一度歩きたいと思っている。山越えで約30kmは辛いかなと思う次第。この後マキノ駅まで2kmほど戻って帰宅した。(2013年5月26日七里半街道終了しました)